149 :十年後 :2005/12/05(月) 18:09:53 ID:JVPSDvd5

「おや、エステルだろう? 今さらお前がこんな場に来ているとはな」

身の程知らずな、という嘲りが込められた意地の悪い男の一言で、どっと嗤い声がわき上がった。
冷水を浴びせられた思いになる。とりどりの仮装に仮面をつけた人々から逃れる

ように身を翻し、そのままオペラ座の正面玄関から走り出していた。


「きゃっ!」

誰かにぶつかった。黒革の手袋を嵌めた大きな手が、私を支えるように抱きとめた。

「驚いたな……、どうなさった、マダム……?」

言葉とは裏腹に、落ち着いた低い声が頭上から聞こえてきた。その声で我に返ると、黒い

マントに身を包んだ、長身の男が見下ろしていた。蒼とも碧ともつかない眸が私を見つめ

ている。わずかに唇の左端を上げているのは、嗤いを噛み殺しているに違いない……。


「あ、あなたもご覧になったのでしょう? 嗤うといいわ、どうせ私は……」

「何をだね? 私はここでオペラ座を眺めていただけだが……」

「うそ! あなたもあそこに……マスカレードにいらしたのでしょう? だって仮面を…」

そう言いかけると、右半面に白い仮面をつけた男の眸がすっと細められ、顔から表情が消

えた。心臓がきゅっと縮むような心地がして、私は言葉を呑み込む。


「まあ、いい……。どちらへお帰りになるのかな、マダム。宜しかったら送ってさしあげ

ようか。このままでは凍えてしまうのではないかね。それともその足で、戻ってコートを取ってくるかい?」

男はかすかに皮肉な笑みを浮かべて、愉快げに言う。足元を見ると、左の靴が脱げて片足

裸足になっていた。

「も、戻るなんて! ………いいわ、私の屋敷まで送っていただけますかしら」

こんな得体の知れない男の申し出をなぜ受け入れたのか、自分でもよく分からない。
でも、取り澄ました口調をつくろった私を面白そうに眺めながらも、男が自分のマントを脱いで

私に着せかけてくれたとき、なぜだか涙が零れそうになった。


すぐ後ろに停められていた立派な箱馬車に、男が私の手をとって乗せてくれた。今夜、私

は辻馬車を雇ってここに来ていたのだ。もしこの男に出会わなければ、そして男が送ろう

と言ってくれなければ、こんな姿のままで、私はどうなっていただろう……。


男と向かい合って座り、馬車に揺られる。私が行き先を告げると、男は低い深みのある声

で御者に伝え、そのまま見るともなく私に視線を向けている。

歳の頃は四十過ぎだろうか。印象的な眸と高い鼻梁の整った顔立ちで、渋みと落ち着きを

備えた中にも、私の知っているその歳頃の男たちにはない、何か不思議な雰囲気を漂わせ

ているのは、仮面のせいだけではないように思えた。


仕立ての良いテイルコートの上からでも逞しく引き締まった身体が伺え、男などいくらも

見てきた私なのに、胸の鼓動が早くなる……。


「あ、ありがとう…、ムッシュ。助かりましたわ。ご存知かどうか……私の名前は…」

「名乗らなくてけっこうだよ、マダム。どうせ行きずりの酔狂だ。いずれにしても私はパ

リに着いたばかりで、あなたの名を知らないし、何者かも……いや、あなたはマダム・灰

かぶりだろう?」

男は私の言葉を遮り、揶揄するようにそれだけ言うと、黒絹のクラヴァットを解き、血が

滲む私の左足を自分の膝に載せた。


「なっ、何を……!」

男の滑らかな動きに、自分の足が膝に載せられて初めて、声を出すことができた。小娘の

ように頬が染まるのが分かる……。

「失礼。だが、そのままというわけにもいかんだろう?」

からかうような口調は相変わらずだが、私の傷ついた足をクラヴァットで器用にくるみ込

む手つきは、慈しむように優しかった。

「取り敢えずはこれでいいだろう。家に着いたらよく洗って、王子様が迎えにきてくれる

のを待つのだな」

そう言って男は私の足を床にそっと下ろすと、黙り込んだ。


沈黙が息苦しい。……いいえ、男と何か話していたい。男の低く甘い声をもっと聞いてい

たい……。

「あ…、あの……ありがとうございます。分かりましたわ。私はマダム・灰かぶり、あな

たはムッシュ某。それで宜しいかしら?」

「けっこうだ」

いくら取り繕ってみても、見るからに取り乱した惨めなありさまの私を何も詮索しない男

の態度に、かえって胸が苦しくなる。


……唇が震え、涙が溢れてきた。恋愛遊戯などお手の物だった筈の私が、幼い子供のよう

に嗚咽を漏らしながら泣くしかできない。なぜ泣いているのか、自分でも分からない。オ

ペラ座で受けた屈辱のせいなのか、我が身の惨めさのせいなのか、それとも、男のさり気

ない優しさのせいなのか……。


「今度はハンカチが必要なようだね。……ああ、洟をかんでもかまわないよ。返してもら

うには及ばない」

泣き続ける私から視線を外していた男が、しばらくして少し困ったような、それでいてど

こか面白がっているような口調でそう言うと、白い絹のハンカチを手渡してくれた。また

涙が溢れてくる……。

「ご…ごめんな…さい。いい歳をして、こんな……小娘…みたいな……嗤ってくださって

けっこうよ」

「女性の涙に歳は関係ないだろう。ことに美しいご婦人の場合は……」

涙を拭い、洟をすする。きっと私の顔は、このハンカチ同様ひどいことになっている……。


気がつくと、男にすべてを話し始めていた。

自分がいわゆる高級娼婦であること。しかし年齢を重ねるとともに、頻繁に屋敷を訪れて

私を賛美していた男たちも離れていったこと。そして、パトロンだった男も新たな恋人を

つくり、援助を受けられなくなったこと。今夜はもう一度パトロンに会おうとマスカレー

ドへ行ってみたが、若い恋人を連れた彼は私に見向きもしなかったこと。

さらには、かつては劇場のボックス席やサロンの華だった私が、学生ふぜいに身の程知ら

ずと嘲られ、周囲の嘲笑を浴びたこと。……口にしたくもない筈のことが次々と溢れ出し

てくる。


男は黙って聞いていたが、私が息をついたところで、初めて口を開いた。

「気が済んだかね……?」

その言葉ではっとなる。自分が繰り言を口走っていたのに気付き、再び頬が染まる。なぜ

見ず知らずの男に、こんなみっともないことを何もかも打ち明けてしまったのだろう……。

男はふっと笑って続けた。

「まあ、いいさ。……私はいわば異邦人だから、ここで君が話したことは誰にも伝わらな

い」


私への呼びかけが 'あなた' から '君' に変わった。胸が少し暖かくなる。不用意に見苦し

い様を晒してしまった決まり悪さもあり、話題を変えてみた。

「あ、あの……、パリへお着きになったばかりだとか……。外国の方ですの? でも綺麗

なフランス語……」

「ふん、つまらないことを口にしてしまったな。……しばらくアメリカにいたのだ。パリ

は十年ぶりくらいかな」

「まあ、アメリカに……。黒いマントに仮面をつけておいでだから、私はまた、かつて噂

に上ったオペラ座の怪人の扮装で、あなたがマスカレードに参加なさっていたのかと思い

ましたわ」


突然、男が哄笑した。驚いて目を見張る私をよそに、男はただ笑い続けている。初めて男

の笑い声を聞いた……。

「君は面白いことを言う。……そうだな、私も君に秘密を打ち明けよう。実は、私はオペ

ラ座の怪人なのだよ」

男が身を寄せて、さも重大な秘密を明かすかのように私の耳元でそう囁くと、悪戯めかし

た表情を浮かべた。男の吐息が耳にかかる。……胸の鼓動がまた早くなる。


男の冗談を聞き流し、どぎまぎしながら言葉を続ける。

「フランスの方でしたの。こちらへお戻りに……? あ…、立ち入ったことをお聞きして

は失礼ね…」

「別にかまわないさ。帰ってきたわけではない。ちょっとした所用があったので、ついで

に古い知人の消息でも知ろうかと思いついただけだ」

男の口調にわずかばかり心安さが混じったように感じられる。私の言葉に気分を害したわ

けではないようだ。このまま会話を続けたい……。


「そうでしたの。お知り合いの方々には、これからお会いになられるのね……」

男の顔から再び表情が消えた。どこか虚無感の漂う眼差しになる。

「いや……、会う予定などない。皆つつがなく暮らしていると分かっただけで充分だ。言

ったろう、私は異邦人だと。……いや、私はもう存在しない男なのだ。なにしろ、あのオ

ペラ座の怪人だからね……」

冗談とも本気ともつかない様子でそう言うと、男はまた黙り込んだ。

私たちはしょせん行きずりの他人同士、深い話などする筈もない……。


「……私はブルターニュの出ですの。普段は大丈夫だけれど、時々ぽろっとお国訛がいま

でも出てしまうわ……」

気まずい雰囲気を変えたくて、なんでもいいから思いついた話をしてみる。だがブルター

ニュという地名を聞くと、男の表情がかすかに動いた。

「ブルターニュにも行かれたことがおありなの?」

「いや……、それよりも、どうやら君の屋敷に着いたようだ」

男はそのまま話を打ち切った。


真っ暗な屋敷の庭を進み、馬車が玄関の前で停まった。今も一人だけ残っている婆やは、

もう眠っているだろう……。

「誰も出迎えはないのか…? その足では歩けまい。どうする?」

男が尋ねた。その刹那、私の身内を熱いものが駆けめぐった。

まだ男と別れたくない! ……せめて今夜だけでも、私を救ってくれたこの男と過ごした

い! 

……声が少し掠れた。

「申し訳ないのだけれど、部屋まで手を貸していただけるかしら。一人では歩けそうもな

いわ……」

「よかろう……、高級娼婦の部屋というのも、また一興だからな」


男の声に皮肉な響きが混じる。

ああ……! 私の心など見透かされているのだ。パトロンに捨てられた、花の盛りを過ぎ

た惨めな娼婦が、捨てられたことを改めて思い知ったその夜に、浅ましい思いを抱いてい

ることを……。

それでもいい、一夜だけでいい、この男の胸に抱かれてみたい、大きな手で身体に触れて

ほしい、低く甘い声で囁きかけてほしい……。


御者に低い声で指示を与えると、男は無造作に私をマントごと横抱きに抱え上げ、玄関へ

と向かった。男の逞しい腕が私の膝裏と背中に回される。クラヴァットを外したシャツの

あわせから、厚い胸板がわずかに覗いている。

……息が上がりそうになるのを、必死に抑えた。


「おや、お早いお戻りでしたね……」

婆やが扉を開けてくれる。馬車の音で目を覚ましたのだろうか。仮面をつけた見知らぬ男

に抱き上げられている私を見ても、顔色ひとつ変えない。マスカレードで引っかけた男を

連れてきたとでも思っているのだろう……。私たちはひとことも発せず、灯りをかざす婆

やに導かれて部屋へと向かった。


灯りを受け取って婆やを下がらせ、自室の扉を閉めた。念のために鍵をかける。男はそれ

に気付いて、うっすらと笑った。頬が熱くなる。

……今夜は何度こんなことを繰り返しているのか。この男の前では、自分がひどく愚かな

小娘……いえ、小娘でさえない、遠い昔の少女に戻ったような気持ちにさせられる。出逢

いがあれでは仕方ない……。

だが馬車の中で男が一瞬だけ見せた、少年めいた表情が浮かび、つい顔がほころぶ。同時

に耳元への囁き声が甦り、また頬が赤らんだ。


ふと気がつくと、男が面白そうに私の顔を見つめている。

「さっきから赤くなったり笑ったり、ずいぶんと忙しいようだな……」

また耳元で囁くように言う。

「なっ…何を……」

何も言い返せない。そればかりか頬がさらに熱くなる。……明らかに男は私の反応を楽し

んでいる。


「ここにいなさい。浴室はあちらかな?」

ソファに私を降ろすと、男はもの慣れた様子で部屋の灯りをいくつかつけ、手袋を外しな

がら浴室へ向かった。そして、湯を満たした容器を抱えて戻ってきた。

「さあ、足を出しなさい」

男は上衣を脱いでシャツの袖を捲り上げると、私の前に跪き、足に巻いたクラヴァットを

そっと解く。そのまま、包み込むように私の足を湯の中へ沈めた。

「…っつ!……」

「しみるかね? だが少し我慢しなさい」

そう言うと、男は私の足を洗い始めた。涙がこみ上げてくる……。男の指が傷口にそっと

触れ、泥を落とす。男の手がさするように私の足を清める。手を握り締め、身体が顫えそ

うになるのをこらえた……。


男は新しいハンカチを取り出し、足を拭いてくれる。

「これでハンカチは終いだ。少し濡れているが仕方ない……」

そう言いながら、傷口を覆うようにしてハンカチを足に巻きつけた。

「ほ…本当にありがとう。こんなにしていただいて……。ハンカチもクラヴァットも駄目

にしてしまいましたわね。ごめんなさい……」

「私が勝手にしたことだ。気にする必要はない」

俯いたまま低い声で男が言う。それから口調を変え、酒の並んだキャビネットを指して続

けた。からかうような笑みが戻っている。

「さて、君には着替えてきていただこうか。その間、私はあれで勝手にやらせてもらおう」


「ええ…、どうぞ。それじゃ……」

男が留まってくれると知れ、胸が弾む。つい先ほどは不幸のどん底にいる心地だったのに、

私はなんと浮ついた女なのか……。だが、そうやって暮らしてきたのだ。私がそういう類

の女だと承知すればこそ、男は寛ぐ気になったのだろう。

立ち上がりながら、さり気なくクラヴァットを拾い上げる。明け方には男は立ち去るが、

これと二枚のハンカチは私のもの……。


素早く湯を使い、涙でくずれた顔を直す。身体にも顔にもたっぷりとクリームを擦り込む。

髪を下ろすが、少し考えて髪留めだけでもつけることにする。新しい下着に、胸高に化粧

着を纏う。……馬鹿なことをしているのは分かっている。クラヴァットとハンカチを衣裳

箪笥の引き出し奥深くにしまった。


「お待たせしました……」

男のマントを腕に居間へ戻ると、上衣を着直した男が、ソファに座ってコニャックを傾け

ていた。帰らないでいてくれたことに、改めてほっとする。

「ああ……、君もやるかね?」

男はマントを受け取って脇に置くと、向かいに座るよう目で私に促した。頷いて腰を下ろ

す。含み笑いをしながら私を眺め、男は滑らかな手つきでグラスに酒を注ぐと、私の前に

置いた。


互いに口を利かず、ただコニャックを啜る。緊張のためか、いつになく早くグラスが空く。

そのたびに男が注ぎ足してくれる。

「あ…、あの……」

「趣味の良い部屋だ……」

ようやく男が口を開いた。

「ありがとう……。でも、じきに出ていかなければなりませんの。その後は……」

「その後は……?」

「まだ決めていません。故郷へも戻れないし……、どこか遠くへ行って、売り子か女給に

でもなるかしら……」

「そして新たなパトロンを見つける……?」

言葉は意地が悪いが、男の声は穏やかだった。

「ここでの暮らしの間に、少しは蓄えもしておいたのだろう?」

「ええ……、まあ……」


「アメリカでは、女ももっと自由に生きているのかしら……?」

「ふん……、ブルーマー夫人の運動にでも身を投じる気かね?」

男は大して関心もなさげに、皮肉な笑みを浮かべて突き放したように言う。

「あなたは……、アメリカでは何を……?」

男の眸が鋭くなった。慌てて口をつぐみ、誤摩化すようにコニャックを舐めた。ほろ苦い

味がする。


「君は読み書きや、ある程度の教養は身につけたのだろう? だが話術はいま一つだった

ようだな。高級娼婦というよりは、不用意な素人の小娘だ。……それとも、それが君の売

りだったのかな?」

揶揄するような男の言葉は、自分でも分かっていることだった。だからパトロンも私に飽

きがきたのかもしれない……。つい蓮っ葉な口調になる。

「どうせ、もうお終いだもの。後は野となれ山となれ、だわ……」


男は愉快そうに笑った。

「だいぶ聞こし召したようだな。……前後不覚になる前に、私を誘った続きをお願いしよ

うか」

低い声に、淫蕩な響きが加わる。男はいきなり立ち上がると、テーブルを回ってこちらへ

近づき、さっきのように私を軽々と抱き上げた。これ以上はないというくらい、鼓動が早

くなる。

……でも、私はこの時を待っていたのだわ……。


「寝室の扉はあれだね? では行こうか……」

部屋履きが片方脱げ落ちた。

「マダム・灰かぶり殿……、あいにく私は王子でなくて気の毒だったな」

耳元で男が囁く。そう……、この男は王子様なんかじゃない。それどころか、悪魔なのか

もしれない……。得体が知れず、恐ろしい……恐ろしいほど私を惹きつける、優しい悪魔

……。



寝室の扉を開け放したまま、男が私をベッドに横たえた。はずみで髪留めが外れ、栗色の

髪が広がる……。ふと男の眸が留まった。見上げると、男は薄い笑みを浮かべて目を逸ら

し、灯りをつけようとする。

「あ……、蝋燭は一本だけに……」

「分かった……」

男は枕元の蝋燭を灯すと、扉を閉めた。


……闇が広がる。蝋燭のほのかな火影だけが私たちを照らす。

男が服を脱ぎ捨てていく。広い肩、厚い胸、引き締まった腹……見つめているだけで息が

荒くなり、思わず横を向く。

「ふん……、そんなところも、まるで小娘のようじゃないか、え?……」

男は低い声で囁きかけながら、私の身に纏うものを無造作に剥ぎ取っていく。

あっという間に一糸まとわぬ姿にされる。男の眸が無遠慮に私を眺め回すのが分かり、手

で顔を覆う……。


だが、ベッドの中で男は優しかった。仮面は外さぬままで、私に素性を明かす気はないよ

うだったが……。

私の髪を愛おしそうに撫で、口づけてくれる。目を開けると、男が優しい眸で私を見つめ

ていた。男の唇が私のそれに寄せられる。

……こんな、惨めな娼婦の私に……、娼婦の唇に口づけしてくださるの……?

「君は綺麗だよ……、灰かぶり姫……」

吐息のような声がそう囁くと、ゆっくりと男の唇が重ねられた。目蓋を閉じ、男の首に腕

を回す………。

 
………どれほどの時が過ぎたのだろう……。気がつくと私は涙を流していた。

「もうハンカチはないと言ったろう……?」

男は笑いを含んだ声でそう言うと、指で私の涙を拭ってくれた。


「あ、あの……本当はこんなお願いをしてはいけないのだけれど……、もしも……、もし

かまわなければ、エステルって呼んでみてくださる……?」

男は少し笑ったが、私の願いを聞き入れてくれた。

「エステル……、エステル………エステル……、エステル……」

男が私の名を繰り返し囁きながら、頭を撫でてくれる。髪に、頭に、額に、耳に、唇に、

首すじに……口づけを落としてくれる。私は男にしがみつき、ただ涙を溢れさせることし

かできなかった。


冬の長い夜が明けそめるまで、男は何度も私を愛してくれた。男の唇が私の身体のすみず

みまで這い、男の手が私の肌を滑る……。一つだけ灯しておいた蝋燭が、重なった私たち

に淡い影を投げかける。男の愛撫に翻弄され、たゆたい、流され……錯乱していく脳裡の

奥を、オレンジ色の輝きが奔りぬけ、私は堕ちて……どこまでも堕ちていく………。


窓から射す薄い陽に目を覚ますと、男はいなかった。枕元には金貨の詰まった皮袋があり、

そして……黒絹のリボンが結ばれた深紅の薔薇が、一輪だけ残されていた。




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