177 :名無しさん@ピンキー:2005/12/07(水) 09:49:56 ID:3vOb69oU


 マダム・ジリーは大きな心配事に頭を抱えていた。

誰にも相談もせず、ただ独り、耐え切れぬ程の重さに耐えていた。


背筋の伸びたその姿、毅然とした表情、皆が彼女に一目置いている。

しかし、外見とは違う繊細さを知っている者は、ほとんどいない。

きりりとした眼差しは、外敵から自己を守る鎧に過ぎない。

本心を隠して生きる術を学んだが為に、他人に頼る事を忘れてしまったかのようだった。


その生き方故に、ひどく疲れてしまう事も少なからずあった。

内側に抱え込んだ膿を吐き出すのは容易ではない。

誰もが、いつも面白いばかりの人生を送っている訳ではない。

けれど疲れ切った時、そこに誰かの手があったなら。

そっと導き、握り締めてくれる手があったなら。

顔も上げられない程の頭痛に、椅子に崩れるように腰掛けたまま、マダムは泣いていた。


こんな時にでも、彼女は誰かの名を呼ぶ事もせず、一人で痛みが過ぎるのを待つのみだった。

何と強情な女だろう。

たった一人で、何にでも立ち向かってゆけると思っているのだろうか。

そんな事が、生身の人間にできるのだろうか。


作りかけのポタージュが、焦げ付く匂いがする。

少し歩けば手が届く場所なのに、マダムは動けずにいた。

誰かの優しい声が聞きたい。

自分だけに微笑む顔を見たい。

寂しい時に、思い浮かべる相手がいれば、どれだけの支えになるだろう。

例え、本当には会えなくても、その人を想う事ができるのなら。


しかし、マダムがその名を呼びたい相手は、今はどこにもいない。

オペラ座を焼いて姿を消したその男は、それ以来全く行方が分からない。

何と恩知らずな男だろう。

慈悲の心で包んでくれた女を置いて、一体何処に行ってしまったのだろうか。


二人が親しく名を呼び合う事は無かった。

心も体も、一番成長する時期に出会い、一番不安定な季節を過ごし、

 そして大きな罪を共有してしまったのだから。


引き摺るように体を起こそうとするマダム。

鉛のように重い頭をやっと上げるが、意識が遠のく。

それが、彼女の意地を消した。

ほんの小さな声で、絞り出すように彼の名を呼んだ。

「助けて……エリック」





  ……こんなに煮詰めたスープを、誰に飲ませるおつもりかね?……


聞き覚えのある、低い声。

これはきっと夢だ。

いなくなった筈の、恩知らずな男が、そこにいた。

「まさか……」

目を開けると、白い仮面の奥で彼女と視線を合わせる彼の姿。

「ジリー、珍しい事もあるものだ。 君が私を呼ぶなどとは」


「エリ、……ック?」

「何があったのだね、そんな姿は君らしくない」

……私らしい、って、それはどんな姿なの?

質問は言葉にならない。

「聞かせてごらん、あいにく私は人を気遣う程、器用な事は出来ないのだから」


喉が塞がって、言いたい事は一つも出てこない。

何処に行っていたの、何故私を置いて一人で行ってしまったの。

守りたいものがあったから、私も生きる事が出来たのに。


言葉の代わりに涙が幾筋も頬を伝い、強気な彼女の寂しさと辛さが

 如何ほどのものだったかを彼に訴える。

それが分かっても、彼はただ相手の顔を見つめるだけだった。

「誰の事をも、遠くから見守る事しか出来ないのだよ、私には。 今までも、これからも。

 いつでもお呼び、私はそこにいる。 …君の、すぐ傍に」


声が出そうになった瞬間、彼の大きな手がマダムの頬を包み込み、その額に微かに唇が触れた。

閉じた目を開いたとき、やはり彼の姿は消えていた。

残されたのは、片方だけの、黒革の手袋。 

震える手で拾うと、そこに暖かさを感じる。

これは、私の体温? それとも、彼の温もり?

ああ、エリック、貴方に私の声が聞こえても、私にその声は聞こえないのよ…!

頬に強く手袋を押し当てると、また涙が溢れた。


  ……私は、そこにいる。 君の、すぐ傍に……


涙に濡れた手袋を、驚いて見るマダム。

聞こえたわ、聞こえるわ。 …エリック、離れていても、何処かで見ていてくれるのね…


いつか自分が導き、守ったその手は、そんなにも大きくなっていた。




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