思わずクリスティーヌを遮った。

ふたたび激しく泣きじゃくる彼女に言う。

「おまえは何も悪くない、悪くないんだ、クリスティーヌ。

おまえは私を選んでくれたのに、婚約までした子爵を諦めて、私のそばにいてくれると言ったのに、

おまえを信じて愛してやることができなかった。

私が嫉妬深く、狭量だっただけなんだ、おまえをあんなに苛めて、苦しめて……。

私が何もかも悪いんだ、おまえはちっとも悪くなんかない、

だから、どうか謝ったりしないでおくれ……」

言っているうちに涙が溢れ、最後の方はうまく話すことができなかった。


クリスティーヌが泣きじゃくりながら、それでもはっきりとこう言った。

「いいえ、マスター、わたしはラウルを諦めたわけではありませんわ。

さっきからお話している通り、わたしはあなたと離れることがどうしてもできなかった、

ただ、それだけ……」


とめどなく涙を溢れさせているクリスティーヌの頬を指先で拭ってやる。

しばらく俯いたまま泣いていたが、ふたたびゆっくりと顔を上げた。

「それだけ……。それだけを言いたかったんです、マスター。

わたしは、わたしを大事に思って下さった方をふたりとも傷つけてしまった……。

わたしがおふたりの人生をだめにしてしまった……。

ここを出たあと、ラウルにも本当のことを言ってお詫びしてきました。

こうして、マスターにもちゃんとお話できてよかったですわ……」


「それで……」

この先、どうするつもりなのか……、そう聞きたかったが、私には聞く権利がないような気がした。

……あの男のことだ、クリスティーヌがいま私に語ってくれた同じことを聞いたとしても、

おそらく今のままの彼女を受け止め、一緒に暮らそうと申し出たに違いない。

もともと身分違いで伯爵家の反対を押し切って婚約した経緯があり、

その婚約を破棄して私と結婚までしたクリスティーヌを娶るためには、

おそらく爵位を捨てることになるだろうが、彼のことだ、それも厭わないだろう。


言いよどんだきり、口を噤んでしまった私を見て、クリスティーヌがかすかに微笑んだ。

「ラニョンに帰ろうと思いますの。遺産と呼べるほどのものはありませんけど、

父の残してくれた家屋敷がありますし、それを処分すれば、しばらくは暮らしていけますから……。

必要な手続きはあらかた済ませてきましたし」


ラニョン! 

オペラ座にいてくれれば、せめて彼女の歌声を聞き、その愛しい姿を見ることもできるだろうに……、

せめてパリにさえいてくれれば、同じパリの空の下で生きていると思うこともできるだろうに……。

……いや、そうではない、ブルターニュだろうがどこだろうが、

彼女が生きてこの世にあってさえくれればいい……、

彼女が私と同じこの地上で生きて呼吸してくれていることを思えば、

私はそれだけで幸せなのだから……。


「では……、オペラ座から……」

「ええ」

「そうか……、では、離婚証明書はどうしようか、

……ラニョンに届けさせるということでいいかね……?」

「マスターのご随意に……。それに、わたしはまだしばらくこちらにおりますわ、

マスターのお加減がよくなるまで……」


クリスティーヌの申し出は非常に嬉しかったが、しかし、このままここにいてもらえば、

私はどうしても彼女を手放したくなくなる。ここを出て子爵のもとに行くのか、

それとも本当にブルターニュに行くのかはわからないが、

いずれにせよ初めから私のもとを離れる決心をしていたらしいクリスティーヌを

これ以上引き止めたくはなかった。彼女への執着心は己が誰よりよくわかっている。


ふう、と大きく息をついてクリスティーヌが握り締めていたハンカチの皺を伸ばす。

そして、ふと顔を上げると、

「マスターのお話は……? ごめんなさい、わたしが先に話をしてしまって……」と言った。

「いや、もう話すことはないよ、私はおまえにここを出なさいと、そう言いたかっただけだから……、

だから、おまえは今日限り、ここを出た方がいい。さぁ、支度しておいで……。

今まで本当にすまな……、いや、……本当にありがとう、クリスティーヌ、

最後におまえとこうして夫婦らしい暮らしができて、私がどんなに嬉しかったか……、

あんなにひどい夫だった私によく尽くしてくれて、感謝している……、

いずれ近いうちに離婚証明書と心ばかりの餞別を届けさせるから、

どうかそれだけは受け取ってほしい、

……おまえがどうしても私からなにかを受け取るのが嫌でなければ………」

「でも、まだお加減が……」

「いや、もう独りでも大丈夫だ、おまえはもうここにいてはいけない……」


まだ何か言いたそうにしていたが、私が視線で彼女の部屋を指したのを見て

クリスティーヌが涙ながらに小さく頷き、ベッド脇から立ち上がる。

もとの自分の部屋に入っていく。

「クリスティーヌ……、もしも、もしもおまえが嫌でなれば、

その……、あのレースだけは置いていってくれまいか……」

振り返った彼女が小さく頷いた。

それが寝台の上掛けなのかどうか、彼女に聞こうと思ったが、

どちらの答えであっても哀しい気がしたので、結局聞きそびれてしまった。


クリスティーヌが立ち上がる。

私の手を取った。

両手で私の左手を持ち、己の手のうちにある私の手をじっと見つめながら、

親指でそっと甲を撫でるような仕草をした。

あれほどおまえを苛んだこの手を、おまえはそんな風に優しく取ってくれるのか……。

ふたたび涙がこみ上げてくる。


私の手を見つめていた眸を上げ、

「マスター、どうかお元気で……」と言って、手を離す。

かすかに微笑んでくれた。

屈んで荷物を取る。

彼女のスカートがシュッと衣擦れの音を立てる。

靴音が響く。

彼女が扉から……、

「行くな! 行くな、クリスティーヌ! 行かないでくれ! 

お願いだ、クリスティーヌ、行かないでくれ……」

私は思わず叫んでいた。

ベッドから起き上がり、クリスティーヌの方へ手を伸ばす。

「お願いだ……、行かないでくれ……、……愛しているんだ……、

愛しているんだ、クリスティーヌ……」

涙が溢れた。


扉のところで立ち止まったままのクリスティーヌがゆっくりとこちらを振り返る。

泣いていた。

「クリスティーヌ、お願いだ……、愛しているんだ、行かないでくれ……」

転げるようにしてベッドを降り、クリスティーヌに向かって歩き出す。

クリスティーヌが私の方に手を伸ばす。

手と手が触れた。

握り合った。

抱きしめた。

「お願いだ、行かないでくれ、行かないでくれ……」

私はクリスティーヌに取りすがるように床に崩れ折れると、

彼女の脚に抱きついたまま、声を上げてひたすら泣き続けた。


ようやく我に返る。

「取り乱してすまなかった……。……おまえはもう、決めたのだものな……」

身を引き裂かれるような痛みをこらえ、立ち上がりつつクリスティーヌから離れる。

「…………」

「さぁ、私がまた引き止めたりしないうちに、行きなさい」

「……マスター……、」

「行きなさい、……達者でな」

ぎごちないながらも、どうにか微笑もうと努力する。

せめて、旅立ちくらいはきちんと見送ってやりたい。

「マスター……」

おずおずと彼女が言う。

「……ここに置いて……、マスターの、そばに……」


ああ……! どれほどこの言葉を待っていただろうか……!

……しかし、あの暗く惨めな蜜月を私たちふたりの間から失くしてしまうことは絶対に……、

天地がひっくり返り、太陽が西から昇らない限り、絶対にできないのだ。

私たちはいま一時の感傷から、ここでともに暮らすことにしたとしても、

早晩前と変わらない暮らしをすることは目に見えていた。

私は彼女を傷つけたことを悔い、彼女は私を傷つけたことを悔い、

互いに遠慮しあって、顔色を窺いあって……、そんな暮らしをクリスティーヌにさせたくはない。

私はもう、彼女を手放すべきなのだ。

私の支配から逃れて、彼女が自分の自由意思で自らの暮らしを立てていく。

それをさせてやるのが夫たる私の最後の役目なのではないだろうか。


私はゆっくり首を横にふると、どうやら私と同じようなことを考えていたのか、

クリスティーヌもそう強く抵抗することもなく、涙をこぼしながらであったが頷いた。

しかし、一瞬ののち、きっぱりとこう言った。

「では、本当にもうしばらくだけ、ここに置いていただきたいの……、

そして、わたしがパリを出るのを見送ってほしいんです、

……どうか、わたしのおねがいを聞いてくださいな……、これが最後のおねがいですから……」


それから、私たちは一週間ほどこれまでのような穏やかな暮らしを続けることになった。

そして、とうとう明日がクリスティーヌの旅立ちという日の夜、

私たちは居間のソファに掛けてこれが最後になるだろう夕食後のお茶を一緒に飲んだ。


「列車はいつのを? モンパルナス駅だろう?」

カップを持ってお茶を啜るクリスティーヌに聞いてみると、

すぐにラニョンで暮らすのではなく、ウプサラに行くつもりだという。

「ウプサラにはおまえの母が眠っているのだったな?」

「ええ、母のお墓から土とか……、まだ枯れていなければ白薔薇があるはずですから、

その枝をもらってきて、父のお墓に植えてあげたいと思って」

「そうか……」

明日の午後二時の列車だが、聞けばブリュッセルまでしか切符が取れていないという。

「では、ロッテルダムに出てそこから船で?」

「いいえ、キールまでは列車で行きたいと思っていますの。そこからは船ですけど」

「そうか……。では、北駅だね」

「ええ」

本当に見送りに行ってよいものだろうか……、

いくら彼女といえど、私と一緒にパリの街中を昼日中から歩きたがるとは思えない。


しかし、浮かない顔をしているだろう私に気遣ってくれたのか、

約束どおり見送りに来て欲しいとクリスティーヌの方から言ってくれた。

「マスターが辛くなければ。まだ、身体が本調子じゃないでしょう?」

「大丈夫、行くよ。……おまえが、私と一緒に歩くのが嫌でなければ」

クリスティーヌの手がそっと私の手に重ねられ、私と一緒に歩くのが嫌ではないと教えてくれた。


翌日はよく晴れてはいたが、木枯らしの吹く寒い日で、そんな陽気だったから人々は

それぞれ道を急いでおり、私の目深に被ったフードのなかにまで興味はないようだった。

どこへということもなく、オペラ座から北駅の方へとそぞろ歩きを楽しむ。

風は刺すように冷たかったが、クリスティーヌの隣で彼女の体温をマント越しに感じながら

歩いているのはとても幸せだった。……これが、最初で最後の妻とのそぞろ歩きだったとしても。

まだ身体が回復しきっていないので速く歩くことはできなかったが、

列車の時間には充分間に合うので、急ぐ必要もなかった。


「マスター、お身体は辛くない?」

私を気遣って時折見上げるようにして尋ねてくれるクリスティーヌの心遣いが嬉しい。

「うん、身体は辛くはないよ」

「身体は辛くないって……、他にどこか具合が悪いの?」

「いや、」

……おまえと離れるのが寂しいだけだと心の中で続きを言って、

そういえば、いつかこんな風なやりとりをしたことがあったなと、ふと思い出す。

ジリー夫人に結婚の報告に行った帰りだ。

多分、彼女も同じことを考えたのだろう。目が合うと互いに微笑みあった。


「サン・ピエール教会に行ってみないかね?」

「ええ、いいですけれど……、坂は大丈夫かしら?」

サン・ピエール教会はパリでも最も古い教会のひとつで、今度、その横に新しく大きな寺院が

建つらしいが、今はまだ何もない更地が広がっており、年月を感じさせるローマ・ゴシック様式の

教会が寂しげな様子で佇んでいた。

聖堂で彼女の行く末が幸せなものであるよう祈りを捧げ、北駅へと向かう。

坂の途中でクリスティーヌを止めた。オペラ座が見える。

「オペラ座からぐっとこちらに寄ったところに、青いマンサード屋根が見えるが、わかるかね? 

ほら、あのレンガ色の隣」

坂の下に広がる街並みの一角を指差した。

「あそこだったんだよ」

「……私たちのおうちのことね?」

「そうだ」

ジリー夫人の忠告に従った私はかなり早い時期に部屋を用意したのだが、

クリスティーヌと新しい環境でやっていく自信も気力もなく、移り住む準備などできなかったのだ。

もしも、もしも私があの晩、彼女の口元など見ずにいたら……、

もしも私があれほど嫉妬深く狭量でさえなかったら……、

そうしたら、今ごろはあの窓のうちのひとつ、どの窓かはここからではわからないが、

どれかの窓の向こうでふたり幸せに暮らせていたのかも知れないのだ……。

……クリスティーヌがそっと私の手を握ってくれた。


北駅のファサードに立つ彫像たちが私たちふたりを見下ろしている。

彫像のうしろのガラスに西日が反射して、まるで彫像に後光が差しているかのようだ。

つい数年前に改築されたばかりの駅は、その古典的な様式とはうらはらに、

確かな技術によって裏づけられた空間の配置の正しさ、装飾の美しさで目を瞠るものがある。


改築を請け負った建築家を心のどこかで羨みながら、己の際限のない嫉妬心がこのクリスティーヌとの

別れを招いた原因であることに思いを致し、これからの私がせめてできることは謙虚さを身につけ、

自制を働かせられるようになること、ただその一点に尽きると思った。

……あの二十三体の彫像のうち、ブリュッセルを象徴するのは一体どれなのだろうか。

クリスティーヌが最初に着くその都市を象徴するという彫像を探してみたが、

果たしてそれがどの人物なのかはわからなかった。


彫像たちに挟まれた時計が列車の出発時刻が近づいたことを知らせている。

駅の中に入ると、もうとっくに列車は入線していて、私たちはクリスティーヌの荷物が

ちゃんとコンパートメントに運び込まれているかどうかを確認した。

まだ時間があったので、しばらくホームで話でもしようと思ったが、

もうどちらも言葉を発することなく、ただ黙って互いに向かい合ったまま立ち尽くす。

私は、たったふた月たらずという短い間だったが、自分の妻だった愛しい女の姿を

この目に焼きつけたいと、不躾なほど彼女の姿をじっと見つめた。


車掌が鐘を鳴らして歩いていく。

クリスティーヌが涙で濡れた睫毛を上げて私を見上げた。

そのこの世のものとも思えぬほど美しい眸を私もただじっと見つめ返す。

クリスティーヌの手が私の胸に静かに置かれ、

背伸びした彼女の薔薇色の唇がそっと私の唇に重なった。


彼女の顫えが伝わってくる。彼女を抱きしめ、このまま連れて帰ってしまいたい衝動を必死で抑える。

腕が上がらないよう我慢するのが精一杯だった。

永遠にも思われるような一瞬ののち、彼女の唇が離れた。

……これでもう、私たちの身体が触れ合うことは二度とないのだ。

それどころか、彼女の姿を見るのもこれが最後かも知れないのだ。

既に大粒の涙をこぼしているクリスティーヌの唇が動く。

「どうか、お元気で……、マスター」


彼女のコンパートメントの扉に車掌が鍵をかけていく。

汽笛が鳴る。

車軸が動く鈍く重い金属音がする。

車輪がゆっくりと廻り始めるのが見える。

列車が走り出した。

列車は少しずつではあるが次第に速度を上げ、クリスティーヌの乗った車輌がだんだんと遠ざかる。

列車の吐き出した煙で車両が霞む。

……否、今ようやく流れてきた涙で列車が霞んでいるのだった。



私のクリスティーヌ……、私の愛しい大事な妻……。

「どうか、お元気で……、マスター」と言ってくれたおまえの優しい声がまだ耳に残っているよ……、

最後に聞けたおまえの声が優しく私を呼ぶものであったことに心から感謝する。

どうか、どうかおまえの行く末が幸せなものであるように……、

この世の誰よりと願ったおまえの幸せを私がすべて台なしにしてしまったが、

どうか私ではない、別の誰か優しい男とおまえが幸せになってくれるよう、

今度こそ本当に心から願っている、祈っている。

おまえが生きてこの世にあることが私の喜び、

おまえが誰より幸福になってくれることこそが私の祈り……、

ああ、神よ、どうかクリスティーヌをお見守りください、

彼女の行く末がどうか幸せでありますように……。


私はただただ涙をこぼしながら、列車が見えなくなった後の虚空を

いつまでもいつまでも見つめていた。





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