286 :さらに三年後 1/9:2005/12/18(日) 17:46:44 ID:ENvYg6Yt

あれから三年近い月日が流れた。

私は装身具などを扱う、小さな店を営むようになっていた。

それまでの蓄えと、あの男が置いていってくれた少なからぬお金が助けてくれたのだ。

市井の人間としてやり直すという私を、かつての友人は驚きもしたが、

陰から何かと支えてくれた。そして、贅沢はできないものの、一階に店を構え、

上階に部屋を借りて暮らせるまでになった。

私は幸運だった。何よりも、新しい人生に踏み出せたことが嬉しかった。


店は「エステルの店」と名付けた。

店名の脇には小さく、黒いリボンを結んだ深紅の薔薇の絵を描いた。

通りから見える店の窓辺にも、同様の薔薇の一輪挿しを絶やさなかった。

纏めた髪にも黒絹のリボンをつけるようになった。

クラヴァットと二枚のハンカチは、私の宝物だ。

あの時の薔薇の花びらも、結ばれていたリボンも、大切にしまってある。


夜になると店を閉め、部屋の窓から通りを見下ろして過ごすのが私の日課となった。

いつの日か馬車が停まり、「エステルの店」に気付いた男が降りてくるのではないかと、

儚い望みを抱いて……。


男が訪れる夢を、幾たび見ただろう。

夢の中で男は、店を案内する私に優しい眼差しを向け、

子供を褒めるように私の頭を撫でてくれた。

私の部屋であの夜のように寛ぎ、黙って私の話に耳を傾けていた。そして……。



ある日、家紋のついた一台の馬車が店の前に停まった。

上品な身なりの母子が降りてきて、店の名前を見上げている。

「お母さま、メグ小母さまがお手紙で書いていらしたのは、ここね」

利発そうな少女の声が聞こえる。


母子が店に入ってきた。

「いらっしゃいませ、奥様、お嬢様」

モード誌に小さく紹介されたこともあってか、しばらく前から私の店には、

裕福な階層の婦人たちも訪れるようになっていた。

だが、この母子はそれとは違う、明らかに別の階級の人間だった。

「ええ……、おじゃまいたしますわ……」

母親の方が控えめな口調で言った。

貴族の奥方にありがちな尊大さのない、優しい声だった。


「わあっ、素敵……!」

少女は朗らかな声を上げ、母親の手をはなれて店の中をめぐり始めた。

十歳ほどだろうか。母親とよく似た面差しの、明るい色の髪をした少女で、

刺繍を施したハンカチ、レース飾りの小物などを熱心に眺めている。

「フランソワーズ、勝手にさわったりしては駄目よ。ごめんなさいね、

やんちゃな娘で……」

「いいえ、少しもかまいません。こんな小さな店ですのに、

奥様のような方においで頂き、光栄に存じます」


私より十歳ほど下だろうか。

ほっそりして楚々とした風情の、とても美しい人だった。

豊かな栗色の巻き毛は、緩く結い上げられている。私の髪の色とよく似ていた。

夫人は物思わしげな眸で辺りを見回していたが、窓辺の薔薇をみとめると、

はっとしたように息を呑んだ。


「奥様……?」

「あ……、いえ、なんでもありませんの……」

「あちらにお掛けになって、まずはお茶でもいかがでしょうか。どうぞ……」

客用に備えてあるテーブルへ案内する。

夫人は手袋をはずしてカップを持ち上げるが、どこか上の空の様子だった。

「今日は、どんな物をお探しでいらっしゃいますか?」

「え……? あ……、そうね、いくつか見せて頂こうかしら」

「お母さま、このハンカチ、とっても素敵なの。これがいいわ」

少女が向こうから弾んだ声でせがむ。

私はリネンの刺繍入りハンカチを幾種類かテーブルに並べた。

「これは当店のオリジナルでございます。私が刺繍いたしました。

お嬢様にお似合いの柄もあろうかと存じます」



「この薔薇とリボンの小さな刺繍は、お店の名前の横にあるのと同じね? 

とても優雅だわ」

少女がおしゃまな口調で私に話しかける。

「はい、ですが、お嬢様にはもっと可愛らしい色柄の方が……」

そう言いかけた時、夫人の顔色が変わっているのに気付いた。

「奥様……?」

「あ、いえ……、フランソワーズ、他のものも見ていらっしゃい」

少女を遠ざけると、夫人は少し震える声で私に問いかけた。

「この薔薇は……、どなたの意匠でいらっしゃるの……?」

「それは、私の幸運のお守りでございます。あちらに挿してある薔薇も……」


私を見つめる夫人の眸の真剣さに、私は真実を打ち明けた。

「実は……、私は三年前までは、このような身分ではありませんでした。

ある夜に出会った男の方のおかげで、ここまでになれました。

その方が、黒絹のリボンが結ばれた深紅の薔薇を残していかれたのです」

「その方は……、どんなご様子でいらっしゃいましたか……?」

「とても背の高い立派な紳士で、所用のため、

アメリカから十年ぶりに一時帰国されたとのことでした。

テイルコートに黒いマントをお召しで、お顔の右側に白い仮面をつけておいででした。

その夜はオペラ座のマスカレードでしたので、私はまた……」


みなまで言わぬうちに、夫人の唇が震え始め、涙がひとすじ零れた。

「奥様……?」

「その方は……、お元気そうでいらっしゃいましたか……?」

「はい……」

「お母さまぁ……」

少女が向こうから呼びかける。

夫人は顔をそむけて涙を拭い、低い声で囁いた。

「その方のことは、どなたにも知らさないで頂けませんか……」

「……承知いたしました。これまでも、そうして参りましたから……」


母子はいくつかの品を購入して立ち去った。

だがその中に、深紅の薔薇と黒いリボンを刺繍したハンカチはなかった。

どんなに少女がねだっても、夫人は頑として受け付けなかった。

通りに出て馬車を見送る。

……あの貴族の夫人は、あの方をご存知なのだ……。あの男と知り合いだったのだ……。

この店の噂を耳にし、男のことを確かめにやって来たのだ……。

今年初めての木枯らしが吹いた日のことだった。



それからも、私の日常は変わらなかった。

昼は店で客の対応や品揃えに追われ、夜は部屋の窓辺で過ごした。

ハンカチに刺繍をしながら、男を想って暮らす日々。

世間では数年後の博覧会に向けて、大きな建造物が建てられるとの噂が流れていたが、

私の生活にはなんら変化もなかった。季節は冬になっていた。


マスカレードの夜がやって来た。冷たい月が輝いている。

外気は冷たかったが、私は窓を開けて通りを見下ろしていた。

マスカレードの夜は、いつもこうしてきたのだ。

……そしてついに今夜、店の前に漆黒の箱馬車が停まった。

黒いマントを纏った長身の男が降りてきて、私の店を眺めている。

月の光に、白い仮面が浮かんだ。


身を乗り出し、窓から小声で叫ぶ。

「ムッシュ某……!」

刺しかけのハンカチが手を離れ、窓から舞い落ちていった……。

男はそれを拾い上げると、窓を見上げた。

あの、不思議な色の眸が私を捉えると、唇の端が少し上がった。

転がるように階段を駆け下りる。通りへ回ると男がうっそりと佇んでいた。

「もう、灰かぶり姫は終いにできたのだね……」

薄く微笑みながら、右半面に仮面をつけた男は穏やかな口調で言った。

口も利けずに、ただ何度も頷いて男を見つめる。今夜、私はちゃんと両の靴を履いていた。


脱げかけていたショールを直す。鍵をはずして店の戸口を開け、内部の灯りをつけた。

男が御者に低い声で指示を与えると、馬車は動き出し、少し離れた場所で停まった。

男が店内に入ってくる。

「君の店なのだね。……小ぢんまりした趣味の良い店だ」

男はゆっくりと内部を見渡し、窓辺に挿した、黒絹のリボンを結んだ薔薇に目を留めると、

面白そうに微笑んだ。



「所用で三年ぶりにこちらへ来たのだが、……あれから君がどうしたかと思いついて、

寄ってみたのだ。新しい生活を始めたのだね」

覚えていてくれた。男は私を忘れないでいてくれた……。

男は優しい眸で微笑み、そして、子供にするように私の頭を撫でてくれた。

……夢の中と同じように。

「あり…がとう……、本当に……」

胸が詰まってうまく喋れない。

「だが……、ハンカチが必要なのは変わらないのかな?」

含み笑いをしながらそう言うと、男は私が落としたハンカチを差し出した。

私の頬には涙が流れていた。


「あ……、このハンカチは私が自分で刺繍したもので……、

刺繍のハンカチはお客様に好評で、特に深紅の薔薇のものは、とても好まれていて……、

あ、ごめんなさい。あなたが残していかれた薔薇をかってに意匠に使って……」

おそるおそる伺うが、男は特に気にした様子もなかった。

「では、私は君の店の売り上げに貢献しているというわけか。けっこうなことだ」


「窓辺の薔薇も、いつかあなたがパリへいらした時、

目に留めて頂けるかもしれないと思って……」

「君は相変わらず、娘じみたことを考えているのだね。

もう立派な店のマダムだというのに……」

男はからかうように言うが、そこに皮肉や揶揄はないように思えた。


「あの……、ここではお持てなしもできないので、

私の部屋にいらっしゃいませんか。この上に借りていて……、

小さな部屋だけれど、私の暮らしぶりもご覧になって頂きたくて……」

頬が紅らむのが分かったが、できるだけさり気なく言ってみた。

男は唇の左端を上げた。

「誘い方も相変わらずぎごちないのだな。……だが、遠慮なくお邪魔するとしようか」

おずおずと差し出した私の手に、男の手が重ねられた。



少し胸を張り、男の手を引いて階段を昇る。それなのに、

これがうつつなのか信じかねる心地がして、つい何度も振り返ってしまう。

「心配はいらない。ここに私はこうしているよ……」

仮面の奥から、どこか懐かしげな眼差しで男が言った。


男を私の部屋へ招き入れる。……扉は開け放したままになっていた。

男に椅子を勧め、急いで窓を閉める。

「小さくて質素な部屋ですが……、これが今の私の城ですわ」

「居心地の良さげな、君らしい部屋だ」

あの夜とは較べようもない古びた椅子に、男はこだわりのない様子で腰を下ろした。


あの夜と同じコニャックを取り出す。これだけは少し贅沢をしてでも買い求め、

大切にしまってあったのだ。封をしたままのボトルを見て、男はうっすらと微笑んだ。

だが何も言わずに、私の差し出したグラスを受け取ってくれた。

「君もやりたまえ……」

もう一つ持ってこさせたグラスに男は酒を注ぐと、向かいに座った私に渡してくれた。


「……久しぶりだわ」

ひと口含んで懐かしそうに言った私に、男は悪戯げに囁く。

「もう、酔っぱらいは卒業したのかね……?」

「ふふ……、ええ、あれから必死だったもの。あの頃の友人は驚いていたけれど、

私にはそれもいいだろうって、色々と力を貸してもくれたの……」

「君はひとが好いからな……。今は生き生きと輝いているね、良かった……」

木綿のブラウスに地味な色合いのスカートを身につけた私に、男はそう言ってくれた。

「私の店を紹介するよう、流行のモード誌にも手を回してくれたり……、そのおかげで、

百貨店がたくさんできても、むしろ上流のお客様も見えられるようになったの」

男は優しく頷いて、私の話を聞いてくれる。


ふと会話が途絶えた。……息が苦しくなり、頬が染まってくるのを止められない。

「もう、酒が回ってしまったのかな……?」

愉快そうに言うと、男が立ち上がった。潤んだ眸で見上げる私に手を差し伸べる。

「君の寝室に案内してもらおうか……」

甘く囁くように、男が言った。



月の光が射す部屋で、男が私を愛してくれる。……三年前のあの夜のように。

男の手と唇が私の全身を愛撫し、猛った男のものが私を思うさま狂わせる。

私ははしたないほどに熱い雫を溢れさせ、息をはずませ、声を上げ、男にしがみつき、

脚を絡め、身体を顫わせ……朦朧とするまで乱れ、男を貪った。


静かな暗闇の匂いが漂っている。

行為の後も男は優しかった。私の左肩を抱き寄せ、滲んでいた涙を指で拭ってくれた。

「辛かったか……?」

「いいえ、いいえ……」

横たわる男の胸に口づける。男は黙したまま私の髪を、頬を、肩を、撫でてくれる。

……だが、私は感じてしまうのだ。どんなに熱く、優しく抱きしめてくれても、

男の眸は別の誰かを見つめている、男の胸の奥には、他の誰かがいることを……。


男の厚い胸に手を当てて話しかける。

「また、パリへおいでになることは、あるかしら……?」

「そうだな……、あるかも知れないし、ないかも知れない」

「こちらへ戻って暮らされるおつもりは……?」

「それは、ない」

男は上を向いたまま、短くそれだけ言った。


晩秋の日に店を訪れた、美しい母子のことが胸に浮かんできた。

鼓動が早くなる。口にしてはいけないと、何かが私に告げる。

……だが、私はそれを話し始めていた。男の横顔を見ながら言う。

「あのね……、近頃は裕福な方たちも店を訪れるようになったって話したでしょ。

少し前にね、……貴族の夫人と思われる方もお見えになったの。

お嬢さんをお連れになって……」

男が私を見やり、続きを促すように黙って見つめている。

「私とよく似た栗色の髪をした方で……、薔薇を見てはっとしたお顔をなさったわ。

あなたのことをお話ししたら、お元気そうだったかとお尋ねになり、

涙を浮かべていらした。……でも、誰にも言うなって……」



唐突に男が身を起こした。私に背を向けて、ただ黙り込んでいる。

「あの……?」

「……いや、なんでもない……」

私は一度も男の仮面に触らなかった。男がそれを望んでいないと感じたから。

だが、いちばん触れてはならぬことに、触れてしまったのだ。

やはり、あの夫人のことに触れてはならなかったのだ。

……それでも、私は確かめてみたかった……。


男の背中に身を寄せ、指を滑らせる。旧い、遠い昔の傷痕が無数にあった。

その傷痕を指でなぞり、ひとつひとつ唇を寄せていく。

男はぴくりと肩を動かしたが、なされるままで、一言も口を利かなかった。

……男の心には、開いたままの傷がある。私は男の孤独に触れることはできないのだ……。

そっと表情を窺うが、男の眸はただ遠くを見つめていた。

私は男の背中を撫で、心を込めて傷痕に口づけを繰り返した。


「君は優しい……、優しくて、強い、女だ……」

しばらくして男は向き直ると、私の手を取り口づけてくれた。

「ありがとう……、その話を聞かせてくれて」

男はそう言った。穏やかな眸からは、なんの感情も読み取れなかった。

気がつくと、男にしがみついていた。男を抱きしめるように腕を回し、

胸に顔をうずめる。

「もう……パリへは、おいでにならないつもりね……」

男が頷く気配がする。

「あの夫人の、ために……?」

男は私を抱き寄せると、黙って髪を撫でてくれた。……私の栗色の髪を。

私が夫人のことに触れなければ、男はまた私の元を訪れてくれただろうか。

……だが、それでも男の心を得られはしないのだろう。

私は男の胸の中に住まうことはできないのだ……。


「……抱いて! もう一度、もう一度でいいから……」

私の身体を再び横たえると、男が覆いかぶさってきた。

男のすべてを自分に刻みつける。

……髪に、額に、頬に、顎に、首筋に、肩に、腕に、胸に、背中に、腰に……、

私は手を這わせる。男の唇を貪る。男の眸を胸に焼きつける。

男の匂い、男の肌、私の中の熱い昂りを、全身で感じ取り、身体ごと燃え尽くした。



男の背中を見ながら階段を降りる。通りへ出ると、男が低い声で「店へ……」と言った。

戸口の鍵を開けると、男は滑るように中へ入り、ハンカチの棚へと向かった。

そして、深紅の薔薇を刺したものを選り分けた。

「これは私が買い取ろう。そして……、もうこの意匠は終いだ。分かったね」

静かな口調の中に、有無を言わさぬ響きが込められていた。

お金の詰まった皮袋を置くと、男は窓辺へ歩み寄り、一輪挿しの薔薇を抜き取った。

「これは、私がいただいていく。大口の客への景品といったところだ」


……この男は、自分が存在していた全ての痕跡を消し去ろうとしている……。

込み上げるものを呑み込んで頷いた。声が震えないように努める。

「けっこうですわ、どうぞ……お客様」

「……ありがとう、マダム」

低い声で男が言った。


戸口から出ようとする男のマントを思わず掴む。男がゆっくりと振り返った。

「ムッシュ某……!」

万感の想いを込めて、ただ一つ知っている名前を呼んだ。

男の眸が優しく細められ、見上げる私の顔に近付く。

「元気で……、エステル……」

囁くようにそう言うと、男の唇が私に寄せられた。

目を閉じて最後の口づけを受ける。

長く、甘く、ほろ苦く、そして……涙の味がする口づけだった。


通りへ出る。男がもう一度私に身体を寄せると、髪を纏めていたリボンを解いた。

「君はもう、こんなものがなくとも生きていかれる……」

首を横に振りたかった。……だが、それをしてはいけないのだ。

声に出さず、仮面の下で男の唇が動いた。永別を意味する別れの言葉だった。

最後に微笑みかけてくれると、男は私に背を向けて歩き出した。


滲んだ視界の中で、男の背中が遠ざかり、停めてあった馬車へと消える。

馬車がひそやかに動きだした。……そして、闇へ走り去っていった。




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