326 :1/3:2005/12/21(水) 00:59:21 ID:j17zIi4/

明日はクリスマス。

年中稼動するこの劇場も、イヴは昼公演で終わる。

皆いそいそと家路を急ぎ、この巨大な建物からどんどん体温が失われてゆく。

クリスマスは家族で暖かく迎える、ものらしい。

私には無縁のものだ。


私は人々の退去を見届けるように、建物の隅から隅まで歩き回る。

今日の真夜中、ここで一人きりで行うミサの構成を考えながら。

私の秘密の通路の一つは、地下礼拝室の傍を通っている。

そこを通りかかった時、いつもの少女が来ているのに気付いた。


オペラ座の人間は不信心者ばかりなのか、ここには滅多に人が来ない。

それでも偶に、最後の神頼みに来る者がある。

人はひとりきりだと本音が洩れるとみえ、興味深い呟きをこぼす。

壁に描かれた天使像の真後ろに陣取り、巧妙に開けた隠し穴から祈る者を見下ろし、

告解を受ける神父さながらに人々の打ち明け話を聞く。

我ながら少々悪趣味だと思うが、これも貴重な情報源だ。

しかし、数ヶ月前から訪れる少女は他の人々と様子が違っていた。


マダム・ジリーから聞いた話を思い出す。

少女は物心付く前に既に母親はなく、ついでこの春に父親を亡くした。

音楽家の父親の遺志により、手厚い教育を受けるためにこの街に来た。

一度も聞いたことはないが、少女は稀有の美声を持っているらしい。

しかし、少女の年齢と身上では、選択肢はここしか無かった。

「自分の娘と同じように、思っています」

同じ年齢の娘を持つマダムは、彼女に大変同情を覚えているようだった。

確かこのクリスマスにもジリー家に招き、一緒に過ごすと言っていた…


少女は私が見ているとも知らず、慣れた手つきで蝋燭に火を移す。

炎の揺らめきが静まるのを待ってから、いつものように祈りをあげ始める。

神に感謝する日常的な祈りと、亡き父親に捧げる祈り。

そこまでは普通だが、少女の場合はそこで終わらず、独特の一句を付け加える。

「音楽の天使様、聞いておられましたらどうかわたしにお応えください」

そして後は耳が痛くなるような沈黙の中、炎が尽きるまで祈るのが常だった。


しかし今、少女の口から出たのは聞き慣れたそれではなかった。

私は初めて彼女の歌声を耳にした。

それはこの国に生まれ育った者なら誰でも知っている、旧い聖歌だ。


−天のいと高きところに、みうたは響きぬ。


可憐なソプラノが狭い聖堂を埋め尽くし、私の記憶を容赦なく引きずり出す。


その歌を私が最後に歌ったのは、自分を産んだ母とだった。

あの人の機嫌が良いときのみ一緒に歌うのを許された。

「クリスマスだから、この歌を歌いましょう」

楽譜の指定とどれだけ外れようが、交響を求めて私たちの歌声は奔放に彷徨った。

その時だけだった、あの人が私に微笑みをくれるのは。

しかし歌の魔法が解けると、あの人は眼に冷やかさを湛えて私を部屋に追い返す…


ふと耳に届く歌声が弱々しくなってゆくのに気付き、慌てて現在に意識を戻す。

少女の目にはみるみるうちに涙が溢れ、唇の動きはたどたどしい。

無意識のうちに私も歌い始める。

今や微かな歌声を力強く押し上げるように、しかし決して圧し潰さないように。


昔は声変わり前の声で、母の豊かなソプラノを裏打ちすることに歓びを覚えた。

今、あの頃よりオクターブ下の私の声は、少女のソプラノの礎となり道程をつくる。

私が見守る下で少女の表情はみるみるうちに輝き、その声はたちまち力を取り戻す。


今や私達は天に届けとばかりに高らかに歌い上げる。


−我らは聞きぬ、歓びのみうたを。


ふたつの歌声はひとつに融ける。

そこから溢れるまばゆい光が、母親の傍で立ち竦む痩せ細った少年を包み、昇華する。


最後の音が消えかけるより早く少女は膝まづき、頭を垂れた。

「音楽の天使様、心より感謝いたします」

そうして両の手を血の気が引いて白くなるほど強く組み、縋るように呟く。

「どうかこれからも、あなたのしもべをお導き下さい」

私はそっとささやき返す。

内なる心が微かな予感にうち震えるのをぼんやり感じながら。

「求めよ、されば私の音楽を与えよう」


程なくしてジリー母娘が迎えに来、少女は何度も振り返りながら立ち去る。

誰も居なくなった室内にはしかし温もりが残っていた。

ふと私は自分の口が小さく笑みの形を作っているのに気付いた。

苦笑して、闇の中で独り言を漏らす。

「今宵のミサは、少々変わった構成になりそうだ…」

そして私も、立ち去った。


今思えばこの日、私達は後戻り出来ない道を歩み始めたのだった。


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