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:2005/12/21(水) 00:59:21 ID:j17zIi4/
明日はクリスマス。
年中稼動するこの劇場も、イヴは昼公演で終わる。
皆いそいそと家路を急ぎ、この巨大な建物からどんどん体温が失われてゆく。
クリスマスは家族で暖かく迎える、ものらしい。
私には無縁のものだ。
私は人々の退去を見届けるように、建物の隅から隅まで歩き回る。
今日の真夜中、ここで一人きりで行うミサの構成を考えながら。
私の秘密の通路の一つは、地下礼拝室の傍を通っている。
そこを通りかかった時、いつもの少女が来ているのに気付いた。
オペラ座の人間は不信心者ばかりなのか、ここには滅多に人が来ない。
それでも偶に、最後の神頼みに来る者がある。
人はひとりきりだと本音が洩れるとみえ、興味深い呟きをこぼす。
壁に描かれた天使像の真後ろに陣取り、巧妙に開けた隠し穴から祈る者を見下ろし、
告解を受ける神父さながらに人々の打ち明け話を聞く。
我ながら少々悪趣味だと思うが、これも貴重な情報源だ。
しかし、数ヶ月前から訪れる少女は他の人々と様子が違っていた。
マダム・ジリーから聞いた話を思い出す。
少女は物心付く前に既に母親はなく、ついでこの春に父親を亡くした。
音楽家の父親の遺志により、手厚い教育を受けるためにこの街に来た。
一度も聞いたことはないが、少女は稀有の美声を持っているらしい。
しかし、少女の年齢と身上では、選択肢はここしか無かった。
「自分の娘と同じように、思っています」
同じ年齢の娘を持つマダムは、彼女に大変同情を覚えているようだった。
確かこのクリスマスにもジリー家に招き、一緒に過ごすと言っていた…
少女は私が見ているとも知らず、慣れた手つきで蝋燭に火を移す。
炎の揺らめきが静まるのを待ってから、いつものように祈りをあげ始める。
神に感謝する日常的な祈りと、亡き父親に捧げる祈り。
そこまでは普通だが、少女の場合はそこで終わらず、独特の一句を付け加える。
「音楽の天使様、聞いておられましたらどうかわたしにお応えください」
そして後は耳が痛くなるような沈黙の中、炎が尽きるまで祈るのが常だった。
しかし今、少女の口から出たのは聞き慣れたそれではなかった。
私は初めて彼女の歌声を耳にした。
それはこの国に生まれ育った者なら誰でも知っている、旧い聖歌だ。
−天のいと高きところに、みうたは響きぬ。
可憐なソプラノが狭い聖堂を埋め尽くし、私の記憶を容赦なく引きずり出す。
その歌を私が最後に歌ったのは、自分を産んだ母とだった。
あの人の機嫌が良いときのみ一緒に歌うのを許された。
「クリスマスだから、この歌を歌いましょう」
楽譜の指定とどれだけ外れようが、交響を求めて私たちの歌声は奔放に彷徨った。
その時だけだった、あの人が私に微笑みをくれるのは。
しかし歌の魔法が解けると、あの人は眼に冷やかさを湛えて私を部屋に追い返す…
ふと耳に届く歌声が弱々しくなってゆくのに気付き、慌てて現在に意識を戻す。
少女の目にはみるみるうちに涙が溢れ、唇の動きはたどたどしい。
無意識のうちに私も歌い始める。
今や微かな歌声を力強く押し上げるように、しかし決して圧し潰さないように。
昔は声変わり前の声で、母の豊かなソプラノを裏打ちすることに歓びを覚えた。
今、あの頃よりオクターブ下の私の声は、少女のソプラノの礎となり道程をつくる。
私が見守る下で少女の表情はみるみるうちに輝き、その声はたちまち力を取り戻す。
今や私達は天に届けとばかりに高らかに歌い上げる。
−我らは聞きぬ、歓びのみうたを。
ふたつの歌声はひとつに融ける。
そこから溢れるまばゆい光が、母親の傍で立ち竦む痩せ細った少年を包み、昇華する。
最後の音が消えかけるより早く少女は膝まづき、頭を垂れた。
「音楽の天使様、心より感謝いたします」
そうして両の手を血の気が引いて白くなるほど強く組み、縋るように呟く。
「どうかこれからも、あなたのしもべをお導き下さい」
私はそっとささやき返す。
内なる心が微かな予感にうち震えるのをぼんやり感じながら。
「求めよ、されば私の音楽を与えよう」
程なくしてジリー母娘が迎えに来、少女は何度も振り返りながら立ち去る。
誰も居なくなった室内にはしかし温もりが残っていた。
ふと私は自分の口が小さく笑みの形を作っているのに気付いた。
苦笑して、闇の中で独り言を漏らす。
「今宵のミサは、少々変わった構成になりそうだ…」
そして私も、立ち去った。
今思えばこの日、私達は後戻り出来ない道を歩み始めたのだった。
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