395 :1/4:2005/12/24(土) 11:02:03 ID:fCW/zgsk

街路樹が色づいた葉を脱ぎ捨てる頃、入れ替わるように通りには色が溢れ始める。

しかしやがて訪れる神の子の誕生日に向け、徐々に活気を増してゆく街とは対照的に

彼の弟子はここ数日、それと判るほど元気を無くしていた。

「何かあったのかね、クリスティーヌ」

「…何もないわ、天使さま」

この小さな弟子に歌を教え始めてからもう1年近くになる。

悲しいことや辛いことを、1人で耐えがちな性格ではあったが

それでも何かあったなら、音楽の天使にだけは話すはずなのに。

「ありがとうございます、天使さま。それでは、おやすみなさい」

ぺこりと一礼して出てゆくクリスティーヌの背を眺めながら、ファントムは首を傾げた。


「…寂しいのよ」

マダム・ジリは見上げながら尋ねる娘に答えた。

「寂しい?クリスティーヌは寂しいの?」

「周りがね、華やかで楽しげだと余計に寂しくなるものよ。

ノエルは家族で過ごす日だから、余計に亡くなったお父様のことを思い出すのね」

注意深く視線を梁のあたりに投げる。

「去年はここに来たばかりでそれどころではなかったのでしょうけど…

ずっと父1人子1人だったから」

「…そう言えば、クリスマスはいつも、お父様がバイオリンを弾いてくれたって言ってたわ。

その話をしてから、なんだか悲しそうな顔をすることが多くなったの」

心配そうな表情の娘の頭を撫でる。

「大丈夫よ。すぐにクリスティーヌは元気になるわ。

あの子には私たちもなくなったお父様も…天使もついているのだから」

梁の軋む音。目の端に何か黒いものが動くのが写るが、マダム・ジリは振り返らずに我が子を促した。

「さ、もう行きましょう…」


「明日はミサに行くのだろうから、レッスンは休みにしよう。

そのかわり…ミサから戻り、皆が寝静まったら大道具部屋に来なさい」

天使の言葉に従って、クリスティーヌは深夜の廊下を歩いていた。

いつも人で溢れているオペラ座の、真夜中の姿。

見慣れた扉も、手摺も、カーテンも、全く別のものに見える。

ぶるっと背筋が震えたのは寒さの所為だけではない。

クリスティーヌは唇をへの字に曲げると一気に廊下を駆け抜けた。


大道具室は舞台の奥にある。

不気味に翻る緞帳を見ないようにしながら、大道具室の扉に手をかける。

そっと押すと、いつもは鍵の掛かっている扉はギイと開いた。

予想に反して中にはぼんやりと明かりが灯っている。

中央には小さな椅子。その足元にランプが置かれ、椅子自体は柊と南天の実で華やかに飾られている。

「天使さま?」

呼びかけるけれど、返事は返ってこない。

(座ったらいいのかしら)

おそるおそる腰掛けると、目の前の薄闇がかたりと音を立てた。


椅子に腰掛けたまま身を固くするクリスティーヌの眼前で、

ずらりと並んだ燭台に次々と火が灯ってゆく。

「わあ!」

誰もいないのに火が現れる不思議さと、灯った明かりの眩い美しさに

クリスティーヌは怖がるのも忘れて身を乗り出した。

灯火の向こうにぼんやりと影が浮かび上がる。

白い衣を纏った天使の人形。

クリスティーヌの背丈ほどもあるその人形は、手に小さなガラスのヴァイオリンを持っている。


きい、と小さな音がして、天使の人形がひとりでに動き出した。

滑らかな動きでヴァイオリンを顎に当てる。

小さな弓がきらきら輝く弦の上を滑った瞬間、美しいヴァイオリンの音が零れた。

瞬きを忘れて見入るクリスティーヌの耳を懐かしいメロディーが通り過ぎる。

スウェーデンの古い歌。

ノエルの夜、父親がいつも最後に弾いてくれていた子守唄。

泣き止まないクリスティーヌに、天使が始めて歌ってくれた曲でもある。

「…お父様…」

思わず呟いて、瞳を閉じる。


「クリスティーヌ」

ヴァイオリンの音色に混じり、ふいに聞き覚えのある声がすぐ背後から聞こえた。

(天使さま!)

「振り返ってはいけない」

低い、いつもよりずっと近くで聞こえる声に、動かしかけていた頭を慌てて戻す。

「お前の父の魂は、常にお前とともにある。私の声が、常にお前とともにあるように」

「…お父様の魂は、ずっと一緒にいてくださるの?」

「ああ」

「天使さまも?ずっと?」

大きな手が頭の上に載せられる。

音楽の天使は、今まで聞いた中で一番優しい声で呟いた。

「ああ…お前の望む限り、ずっと…」

「よかった」

掌の温かさに安堵して、クリスティーヌは頷いた。

「天使さま…お歌を歌って」

「歌?」

「お父様が弾いて下さっているお歌」

「よかろう」

やがて頭の上から、ヴァイオリンに合わせて優しいメロディーが降ってきた。

低く甘い声は粉雪のように頬や髪をかすめて、夜の中に溶けてゆく。

揺れる蝋燭の光の中で、天使の歌声に包まれながら

クリスティーヌはゆっくりと眠りの階段を降りていった。


何者が運んだのか…そもそも昨夜の出来事は現実だったのか、

彼女は翌朝、寄宿舎の自分の部屋で眼を覚ます。

しかし夢でない証に、起きたとき彼女は枕もとに小さな包みを発見するだろう。

送り主の名は書かれていないが、彼女はすぐに分かる筈だ。

包みの中身は送り主曰く、手慰みに造った、他愛無い、つまらないおもちゃで、

蓋に赤いばらのモチーフがついた愛らしい小箱。

開けると素朴で暖かい、彼女の故郷のメロディーが流れ出す。


そして朝の礼拝堂の冷たい空気の中で、送り主もまたふたつの包みを見つけるだろう。

それぞれに拙い文字で「おとうさまへ」「てんしさまへ」と書かれたカードが添えられている。

中は例えば聖母の絵がついている指貫だとか、年上のダンサーから貰ったロケットだとか、

それこそ他愛無いものだけれど、それでも彼にとっては生まれて初めて

愛情をもって他者から贈られたノエルの贈り物に違いない。

他人に感謝を表すことを忘れて久しい怪人は、その夜のレッスンで

小さな弟子に何と言葉をかければいいか、暫く悩むことになるだろう。

でもそれらは総て、明日の朝の話。

輝かしい聖なる朝に向けて、ただ夜は静かにその帳を揺らしていた。





back














SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送