「こんな素晴らしいクリスマスは初めてだったよ、礼を言おう。・・・だがもう用は無い。帰りなさい、ここは私の寝室だ」

 彼女が乱れた髪やドレスをなでつける間もなく、エリックは扉を開けて「さあ」とクリスティーヌに出て行くように促す。

 彼女は痛みと畏れに震える体を起こし、マスターに従った。

 「・・・良いクリスマスを・・・」怒りも悲しみも湧かず、何が起こったのかはっきりと理解できず、すれ違い様にクリスティーヌは絞り出すような声で言ったけれど、エリックは何も応えなかったし、侮蔑する視線さえもよこさなかった。

 心身共に痛み、帰りの舟を操るのは容易なことではなかったが、なんとか自分の部屋までたどり着くことができた。

 「・・・あんなことの後なのにちゃんと戻ってこられるなんて、強いじゃないのよ、私・・・」

 ベッドに倒れ込んでそう呟くと突然笑いたくなった。ふっふと笑うと同時に溢れてきた涙を、クリスティーヌは止めることが出来なかった。

 認めなければ、彼が自分を愛してくれていたのはもう過去のことなのだ。



 エリックは暫く部屋に佇んでいた。

 クリスティーヌの残り香に、自分のやってしまったことが幾度となく鮮明に思い出された。

 傷つけたかったくせに、傷つけてしまえばそのことを後悔する。クリスティーヌを傷つければ自分も同様に痛むのだ。

 枕もとに宿り木の小さな実を見つけ、居間にはささやかな食事と飾られたツリーも見つけた。ツリーの足下には小さな包みがリボンをきれいにかけられて置いてある。

 「・・・なんてことだ・・・」

 家庭のにおいがそこにはあった。

 クリスティーヌがいそいそと支度をする様子が思い浮かぶ。はにかんだような幼さの残る笑顔が思い出され、しかし、その表情をずっと見ていないことに彼は気付いた。

 笑顔はかき消え、先ほど彼女が見せた悲しげな表情がエリックを苛めた。



 目覚めたとき、それがクリスティーヌだと解った瞬間、エリックは嬉しい驚きに胸が震えた。

 だが、彼女はクリスマスをひとりで過ごすだろう私に同情して、出来る限りのことをしにここへやって来ただけなのだとすぐに思い直した。

 クリスティーヌは求める者の手を振り払うことなどできない人間なのだ。

 相手が私ではなくても誰でも、きっと同じように自分の持てるものを差し出してしまうに違いない。

 しかし、もうそういうことは無いだろう。思い知った筈だ、寂しい男に期待を持たせるような行動がどういう結果を招くか。

 包みのリボンをほどくと、ころりとして美しいペーパーウェイトが顔を出した。

 ありふれた品物でないことは確かで、クリスティーヌが慎重に贈り物を選んだことが窺われ、再び良心の呵責におそわれた。



  4

公現祭も終わった次の夜、クリスティーヌは礼拝堂でマスターが現れるのをじっと待っていた。いつまでも待つつもりだった。

 「約束は守る方よ・・・」

 壁のこちら側で、エリックは迷っていた。クリスティーヌは二度と来ないだろうと考えていたからだ。

 さんざん躊躇った末に、これで最後にしよう、最後の挨拶が出来るのは悪くないだろうと、彼はクリスティーヌの前に姿を現した。

 微かな空気の揺れを感じてクリスティーヌが振り返ると、会いたかった人がそこにいた。

 「・・・マスター・・・」声が詰まる。早く、早く言わなければ。気持ちを伝えなければ、マスターが行ってしまわないうちに!

 なのに、彼が来てくれたという安堵感からか、言葉よりも先に目から涙がこぼれてしまった。

 涙を見たエリックは、自分と会うのが泣くほど嫌なのだろうと思った。当たり前だ、ひどい事をしたのだから。

 「そのままで」立ち上がろうとするクリスティーヌを制する。

 「まずこれを受け取って欲しい。クリスマスの贈り物の礼だ。ありがとう・・・嬉しかった」

 クリスティーヌがありがとうと言おうとするのを彼は片手を上げて遮った。



 「言わなくていい。私はひどい事をした。謝ってすむことではないのはわかっているが、謝らせて欲しい。・・・済まなかった。

 それから、今日で私がここへ来るのは最後だ・・・」

 エリックは、クリスティーヌに会えて幸運だったと告げたかった。君を知ってからずっと良い日々を過ごせたと言いたかった。しかし、彼女にとっては長い悪夢だっただろうと考えてそうは言えなかった。

 さよなら。と、ただ一言を置いて去ればいいのに、まだここに居て彼女を見ていたかった。

 「・・・君は・・・とても良い生徒だった・・・」

 目を細めてクリスティーヌの頭のてっぺんから足の先まで見つめる。蝋燭の灯りに浮かび上がるその姿は清楚で美しく、彼に汚された痕など微塵もない。

 エリックは振り切るように視線を離すと、体もそちらへ向けた。黒い外套が翻って、クリスティーヌの 元から足音がはなれてゆく。

 「・・・だめよ・・・っ!」

 彼女は立ち上がり、エリックの腕に力一杯しがみついた。

 「・・・触れるな」

 振り向きもせず、絡みつく細い腕を振り払おうとしたが、クリスティーヌはなかなかしつこかった。

 もうひとつの手でもぎ取ろうとしてエリックはバランスを崩した。そして、クリスティーヌは見たのだ。彼が涙を流しているのを。

 仮面の下を伝って顎からぽたぽたと涙が落ちる。



 「私を見るな!」

 「見るわ!私はあなたを見ていたいし、触れたいもの。

 ご自分だけ言いたいことを言ってさっさと行ってしまうなんてずるい。私だって言いたい。

 あなたを愛しています。愛しているわ。ずっと、ずっと言いたかった。

 嫌っててもいい。恋人になれなくても、友人でさえなくてもいい。お願い・・・ここにいて。歌を教えて。 行ってしまわないで。置いていかないで」

 ほとばしる言葉に、激しさに、エリックは圧倒されていた。これがクリスティーヌだろうか?

 彼はゆるゆると壁に背をついて天井を仰いだ。

 「・・・君の言葉はいつも私を揺さぶる・・・。

 私は・・・手許に君を置いていたいと思うと同時に、君には幸せであって欲しい。そして、君の幸せは私と共にあるものでないと考えている。わかって欲しい」

 「わからないわ。どうしてそういつも決めつけてしまうの?

 私が幸せかどうかはマスターが決めるものじゃない。私が感じるものだわ。

 マスターは私がいつまでも頼りない子供のままだと思っているみたいだけど、それは違うわ。

 いつまでも子供扱いしないで。ちゃんと私を見て!

 私が幸せだと思うのは、あなたを身近に感じたときよ」

 クリスティーヌは一度言葉を切ったが、思いきって訊ねた。

 「・・・マスターは?」



 エリックは大きく息を吐いた。

 「幼い君が天使を呼んだ時。成長する様子を間近で感じることが出来た時。・・・私を選んで・・・キスをくれた時。

 それから・・・クリスマスに来てくれて本当はとても嬉しかった。あんなことをしてしまったが、本当に本当に・・・。

 宿り木のキスも、クリスマスの贈り物も、初めてだった。ずっとあんなふうに愛する人と過ごせたらと思っていた。

 ・・・ありがとう。君は私を幸福にしてくれる。」

 上を向いて目を閉じたまま、彼は告白した。

 エリックは、彼が思っているよりずっとクリスティーヌが大人の女性だったことを、今夜初めて知った。

 「私の幸せを願って下さるなら、ここにいて。マスターも、私がいることで幸福だとおっしゃるなら」

 「・・・しかし、私はまともな男ではない。そんな男と君は一緒にいるべきではない。必ず後悔する時がくる」

 クリスティーヌはこちらも見ずにそういうマスターの頬を一発叩いてやりたいような気持ちだった。

 「私を見て!今更なに?醜いから?人殺しだから?私の体を無理矢理奪ったから?そんなの知りすぎるくらい知ってるわ。

 さっきから言ってるじゃない。愛してるって、傍にいたいって、何度言えば解ってくれるの?

 それとも私に合わせているだけで、さっき言ったことは嘘?それならそうとちゃんと言って!本当のことを教えて・・・」

 エリックにすがりつき、我慢していた涙がぼろぼろとこぼれ、髪もほつれてみっともないほど顔をくしゃくしゃにして、クリスティーヌは泣きじゃくった。



 どれほど泣いただろうか。いつしかエリックの腕はクリスティーヌの背中に回され、抱き寄せられ、髪をなでられていた。

 「・・・大人になったと自分で言ったそばから、今度は小さな子供のように泣く・・・」

 泣き過ぎてしゃくりあげているクリスティーヌを抱きしめながら、背中をぽむぽむとたたくとエリックはそう言った。

 穏やかで思いやりのある、かつて彼女を導いた天使の声の響きに、クリスティーヌは顔を上げた。

 エリックは微笑んでいた。

 「困ってしまうじゃないか」

 今のエリックの瞳は、春の海のように穏やかで柔らかな色をしている。

 彼は片手を仮面にやると、顔からそれを外した。醜い素顔がクリスティーヌに向けられる。

 「このマスクは私のプライドで・・・君がときどき取り外してしまうものだ」

 微笑んだまま、肩を軽くすくめた。

 「どうだろう?この顔は。自尊心を取り去った男は。これが私だ・・・手も血で染まっているがね。

 それでもクリスティーヌが可愛い。クリスティーヌが愛しい。君を愛している。

 しかし、きっと、君の望む平凡であたたかな家庭を与えてやることはできない。相応しい人物がどこかで待っているだろう」



 仮面を外した素のままのエリックとクリスティーヌは向かい合っている。

 「・・・知っていらしたの?・・・でも不思議じゃないわね。私はときどき礼拝堂で独り言を言っていたから。父や音楽の天使に話しかけていたから。

 ・・・与えてもらおうとは思っていないの。作っていくものだと思っているから・・・その・・・マスターに手伝ってもらえたらって」

 家庭というものに憧れつつも、経験として知らないエリックはそう言われて初めて気が付いた。

 漠然としたイメージしか持っていないから、それが最初から存在するのではなく、築いていくものだと思いもしなかったのだ。

 「いつか、音楽をつくるのを私に助けて欲しいとおっしゃた。

 今度は私を助けて、手伝ってほしいの。・・・あなたじゃなければ出来ない」

 「・・・」
 とても魅力的な提案だったが、なんと応えればいいかエリックはわからなかった。だってこれは求婚なのだから。

 「仮面がないだけでとても近くに感じるわ。・・・大好き」



 クリスティーヌはエリックの頬を両手で挟むと自分の顔へ引き寄せ、唇を重ねた。

 心に温かさがじんわりと広がって、エリックは唇が離れると、クリスティーヌを見つめた。

 複雑に絡み合っていた糸がほぐれてゆくような思いだった。

 「・・・手伝わせてくれるだろうか?私に出来るだろうか?私は何も知らないんだ・・・」

 クリスティーヌはもう一度キスするとにっこりと微笑んだ。

 「二人で知っていけばいいわ。一人では出来ないことも、二人でなら出来るわ」


 数日後、クリスティーヌの話を、うんうんと聞き終えたメグは「クリスマスの準備を手伝ったかいがあったってわけね。特に舟は大変だったもの」

 笑顔でそう言うと「良かったわね」と、笑顔で親友を抱きしめた。

 そしてこう付け加えた。

 「今度は結婚式の準備のお手伝いかしら?」




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