422 :幸福感 :2005/12/28(水) 00:14:20 ID:kFZw0bLc

地下に一人でいると、無性に妻に会いたくなったので、ファントムは作曲の手を休めて居間の扉を開けた。

「マスター」

ソファーに座り編物をしていたクリスティーヌが、彼を認めて微笑む。

彼女の足元には、毛糸の玉が転がっている。

最近は日がな一日、その糸を繰り小さな靴下や、その他ファントムが想像もつかないような細々したものを彼女は作り続けていた。

一度完成した靴下を手の平にのせ、こんなに小さいものかと彼は驚いた。

何だか空恐ろしくなり、それ以来彼はクリスティーヌが編物に熱中するのを穏やかな気持ちで見ることが出来なくなっていた。


「お仕事はいいの?」

「ああ、一段落ついた。お前もあまり根を詰めるな。お茶でも入れよう」

「あ…今、動きましたわ。あなたが来て、この子も喜んでいるみたい」

ファントムは、何と答えてよいのかわからずにいた。

「きっといい子ですわ」

それには気付かずに、クリスティーヌは愛しげな表情で、少し膨らみが目立ってきた自分の腹を撫でた。

「…お前に似れば、美しい子になるだろう」

気を取り直し、ファントムも口元に笑みを浮かべ言う。

クリスティーヌは歌うように続ける。

「あなたに似たなら」

「そんなことあってはいけない。絶対に」

荒い語気に、それまでの柔らかい空気が一変する。

「マスター…?」

「お前はわかっていないんだ。この顔を持って生まれることが、生きていくことがどんなものなのか…わかっていないんだ、なにも」

そこまで一気に吐き捨てるように言ってしまってから、彼は荒い息を繰り返した。


「マスター…私の子を差別するおつもりなのね?まだ生まれてもいないうちから」

先ほどまでの優しい声とはまるで別人のように、クリスティーヌの声は厳しかった。

「クリスティーヌ…」

クリスティーヌは、自らの腹に向かい語り掛ける。

「大丈夫よ。お母様が全てをかけて愛してあげますからね。どんなことからも守ってあげますからね」

そう言ってから、身体を庇うように立ち上がり、部屋を出て行こうとする。



「待て!クリスティーヌ!その子は私の子だ、私の子でもあるんだ」

「それではもう、起こってもいないことで思い悩むのはやめて下さい」

思わず叫んだファントムに、クリスティーヌは振り返り、視線を合わせる。

「この子に人生を一人で歩かせるわけではないでしょう?どのみち、どちらに似ていたって、似ていなくたって、愛さずにはいられないのに」

「だが、私に似たら…」

「なお愛しい」

言い切られて、ファントムは返す言葉をなくしてしまう。


「クリスティーヌ、先ほどの言葉を訂正してくれないか?その子に」

少しの沈黙の後、彼はおずおずと申し出た。

「ご自分で仰らないと」

声は優しかったけれど、何となく楽しむような雰囲気も滲ませて、クリスティーヌはもう一度ソファーに腰を降ろす。

すっかり彼女のペースだ。

それに気付いているのかいないのか、ファントムはそれでも生真面目にクリスティーヌの前に立ち、覚悟を決めたように口を開く。


「…先ほど言ったことは全て取り消す。生れ落ちたその瞬間から、お前はこの私の庇護のもとにある。…あー、だから、安心して生まれて来るがいい」

とうとう堪えきれなくなったというように、クリスティーヌは笑い出してしまう。唖然としているファントムをよそに、眼の端に涙さえ浮かべて、笑い声を上げ続ける。

「マスター…マスター、ごめんなさい。でも止まらなくて…あ、いたっ…」

「どうした、クリスティーヌ!」

腹を庇うように身を折っていたクリスティーヌは、息を整えてから顔を上げる。

「大丈夫です…お父さまを笑ったりしたから、怒られてしまいましたわ、この子に」

ファントムは密かに持ち続けていた、生まれてくる筈の子への空恐ろしさが、消えていることに気付いた。

あの小さな靴下を履く子は、今もここにいるのだ。

私と、クリスティーヌの間に。


「なるほど、いい子のようだ」

「意地悪…」

涙目で上目遣いに睨まれる。

そこにはファントムにだけわかる、微かな媚態が含まれていた。

次にするべきことはわかる。

形のいいおとがいを持ち上げ、優しい唇に自身のそれを重ねるのだ。

けれどファントムは彼女から視線を逸らす。

ふいに訪れた幸福感に、息が止まりそうになったのだ。

クリスティーヌは少し不思議そうな顔をしてファントムを見つめたが、何も言わなかった。

一緒に暮らし始めてからというもの、こういう瞬間は実は結構あったから。

先ほど腹を蹴った子は、気を利かせているのか今は静かだ。

クリスティーヌは、なかなか幸福に慣れることの出来ない男からの口づけを、ただじっと待っていた。




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