「君も座りたまえ」

その方は立ち上がっていた私にお声を掛けられ、私の正面より少し斜め右に用意された椅

子に座られた。私にはお顔の右側がなるべく見えないように気を遣われたのだと思う。カ

ップに紅茶を注いでレモンを添え、その方の前にお出しした。

「ありがとう……。では改めて、こんにちは、フランソワーズ」

深いお声はとても優しかった。私は緊張がとけていくようだった。

「こんにちは、初めまして。お会いできて、とても嬉しいです」

その方は、優しい眸で私を見つめていらした。……お母様もこの眸で見つめられ、あのお

声で話しかけられたのかしら。そして……、それが忘れられなかったのかしら。お母様の

お気持ちが、少しだけ分かったような気がした。


「あの……、あなたのこと、何とお呼びすれば良いのでしょう?」

「何とでも。好きに呼ぶがいい」

「じゃあ、小父さまってお呼びしてもいい?」

「…………」

その方は、少し驚いたように瞬きをなさり、一瞬目を逸らされた。そして、低い声でおっ

しゃった。

「……まあ、君がそう呼びたいのなら、それでも構わない」

「じゃあ……、小父さま」

「……なんだね」

「ううん、お呼びしてみたかっただけ。練習ってところかしら」

小父さまは、また目を逸らされた。そして咳払いをなさってからお茶を一口飲み、私に向

き直られた。なんだか、小父さまに親しみが湧いてきた。


「小父さまは、お父様とお母様の古いお知り合いだとか。その頃のこと、伺ってもいい?」

私は思い切って言ってみた。小父さまは目を伏せて少し考えるように間をおかれ、低い声

で話された。

「そう大した付き合いでもない。……昔、君の母君に少し歌を教えたことがあるのだ」

「じゃあ、お母様がオペラ座にいらした頃……? 小父さまは音楽家でいらっしゃるの?」

「いや、もう音楽はやっていない」

小父さまは、きっぱりとした口調で言われた。

「……お母様もそう。私はお母様のお歌を聴いたことがないの。お歌を聴かせてって頼ん

だこともあったけれど、微笑んで首を振られるだけだったわ」

「…………。父君はオペラ座のパトロンをなさっていたが、勇敢で、乗馬や剣の腕前も素

晴らしい方だった。君の髪の色は、父君譲りのようだね」

小父さまは私から視線を外されたままで、当時のことはあまり話したくないご様子に見え

た。



「ええ、髪の色はお父様譲りで、顔立ちはお母様に似ているって言われるわ」

「……そのようだね」

「でも、性格はメグ小母さま、…あ、お母様のご親友の男爵夫人だけれど、その小母さま

みたいだって。知りたがり屋で、元気がいいってことだけど。メグ小母さまのことも、ご

存知?」

小父さまは含み笑いをなさり、私を見ておっしゃった。

「ああ、少しね。……確かに、君には修道院は向いていないようだね」

「あんな所! 私ね、いっそ家出しようかと思ったくらい。だから小父さまが後見人にな

ってくださって、本当に良かった。親戚の人たちは、普段はうちと付き合いもしなかった

くせに……。どうやってあの人たちを追っ払ってくださったの?」 

「君は利発なマドモワゼルのようだが、大人の世界には色々とやり方があるのだ。それを

知る必要はない。彼らにも不満はない筈だから、もう修道院の心配はないよ」

小父さまは私の質問を封じられたけれど、眸には愉快そうな表情が伺えて、私はちょっと

嬉しくなった。小父さまとは楽しいお話をしたい、そう思った。


もう一つ、お伝えしなくてはならないことを思い出した。

「それから、エステルさんはお元気です。この間お会いしてきたの。エステルさんをご存

知ですよね?」

「…………」

小父さまは、また瞬きをなさった。

「本当言うと、今日のこと、お誘いしたの。でも、お会いしないって……。小父さまに、

ご無事でなによりです、これからもお元気でと伝えてくださいって、エステルさんはおっ

しゃっていました」

「……君は、あの店にも行ってきたのか。つまり君は、利発で勇敢で、知りたがり屋で元

気で、さらに、人を驚かせることも得意なわけだね。……だが、分かった。ありがとう」

小父さまは低い声で言われた。そして私が話そうとする前に、「この話は終わりだ」と静

かに遮られた。


小父さまはお話を戻された。

「伯爵は年金など、君のためにも財産を用意しておられた。こちらでも信託財産などを整

えたから、何も心配はない。君がお嫁にいく時には持参金もたっぷりある。何かやりたい

ことがあるなら、それも可能だ。……もちろん、受け入れられる範囲でだが」

「お父様が私のために……? お父様は私をとても可愛がってくださったの。お馬にもよ

く乗せてもらって、旅行から戻られたら、私の子馬を飼っていただくご相談も……」

突然、涙が溢れてきた。止めようと思っても止まらない。

「ああ、悪かった、哀しいことを思い出させてしまったね」

小父さまは慌てたように言われた。私は首を振りながらも、涙が止まらなかった。

「違うの……、そうじゃないの。私が、……旅行をお勧めしたの。そんなこと……しなけ

れば、お父様もお母様も……」

ずっと胸にわだかまっていたことだった。けれども、口にしたのは初めてだった。

「事故は君のせいではないよ、フランソワーズ。そんなふうに考えてはいけない。君は何

も悪くないんだよ」

小父さまが優しく慰めてくださる。ますます涙が出てきて、私は手で顔を覆って大泣きし

てしまった。



「フランソワーズ……、君は優しい子だよ」

少しして、耳元で低い囁き声が聞こえてきた。手をどけると、小父さまの眸が目の前にあ

った。小父さまは私の前に片膝をついて、屈み込んでいらした。

「君はいい子だ、少しも悪くない……。とても優しい子だよ、フランソワーズ……」

「ほ…ほんとう? ……私は、悪くないの……?」

「本当だとも、フランソワーズ。君はちっとも悪くないよ。それどころか、思いやりのあ

る、とてもいい子だ。強くて、優しくて、本当にいい子だよ……」

小父さまは私をじっと見つめ、優しいお声で何度も繰り返してくださった。私は少しずつ

嗚咽がおさまり、涙も止まっていった。

「このハンカチを使いなさい。……少し待っていてくれるかね? すぐに戻ってくるから」

小父さまはそう言われ、私の肩にちょっと手を掛けられて、お部屋から出ていかれた。小

父さまの手は大きくて、温かかった。私は誰かに、私は悪くないと言ってほしかったのだ

と気付いた。そして……、それを小父さまに言っていただきたかったのかもしれない。あ

の眸で見つめてもらい、あのお声で慰めていただきたかったのかもしれない……。


「さあ、これを飲みなさい。気持ちが落ち着くだろう……」

小父さまは温かいショコラを持ってきてくださった。

「……美味しい、小父さまが淹れてくださったの?」

小父さまは頷きながら椅子に戻られた。

「もう、大丈夫だね?」

「はい……、ハンカチ、ごめんなさい。くしゃくしゃにしてしまって……」

「そんなもの、構わない。……それよりも、君が泣き止んでくれて、ほっとしたよ」

小父さまは少し微笑んでおっしゃった。つられて私も微笑んだ。

「これから君がやってみたいことを、聞かせてもらえるかね?」

小父さまは話題を変えてくださった。私も楽しいお話をしようと思った。乗馬を習いたい

こと、自転車にも乗ってみたいこと、いろいろな所へ行ってみたいこと、そして……英語

を勉強して、アメリカへ行きたいとも言ってみた。小父さまは少し苦笑なさりながらも、

面白そうに私の話を聞いていらした。


「あの……、これから、両親のお墓にお参りしてはもらえませんか? うちの敷地の奥に

墓所があるの。きっとお母様も、……お父様とお母様も、喜ばれるわ」

いとま乞いをする時が近付き、私は思い切って言ってみた。このまま小父さまとお別れす

るのは寂しかった。それに……、きっと小父さまも、そうなさりたいのではないかと思っ

たから。

「……私がそうさせていただいても、良いものだろうか……?」

小父さまは目を伏せられ、低く呟かれるようにおっしゃった。

「もちろんです! ぜひ……!」



花束を持つ小父さまと、墓所まで一緒に歩いていく。小父さまが用意なさったのは、白を

基調とした淡い色合いの花束だった。

「お花……、深紅の薔薇じゃないのね?」

「……何故、そんなことを?」

「ううん、何となく、言ってみただけ……」

「……いずれにしても、君のご両親の墓前に、そんな花は供えないよ……」

小父さまの声の様子が変わられたような気がして、お顔を見上げた。けれども、不思議な

色をした小父さまの眸は、ただ遠くを見つめていらした。……以前のお母様のように。

小父さまの大きな左手をそっと握ってみた。小父さまは少し驚かれたようなお顔をなさっ

たけれど、そのまま私と手を繋いで、ゆっくりと歩いてくださる。私はなんだか嬉しくな

り、もう少し力を込めて小父さまの手を握り直した。私たちは手を繋いだまま、黙って墓

所への道を辿った。


「ここがシャニュイ家の墓所なの。お父様とお母様もここで眠っていらっしゃるわ……」

建物の形をした大きな墓所の前で、私たちは立ち止まった。小父さまは扉の前に花束をお

供えになり、私の横まで戻られてから、一言もお口を利かずに墓所を見つめていらっしゃ

る。

「小父さま……?」

「……すまないが、少しの間、独りにしてくれるかね……?」

お声の調子は優しかったけれど、私には伝わってきた。……小父さまはお独りで、お父様

とお母様に、……お母様にお別れをなさりたいのだと。私は頷いて、少し離れた石造りの

柵に腰を下ろした。長いこと、小父さまは同じ場所に佇んでいらした。大きな背中が、な

んだかとても……哀しそうに見えた。


お母様とお父様、そして小父さまの間に何があったのか、私には分からない。メグ小母さ

まも、エステルさんも、よくはご存知ないようだった。きっと、尋ねてはいけないことな

のだわ。……小父さまの仮面についても。でも、小父さまは私が修道院に入らなくてすむ

ようにしてくださったし、これからもずっと、代理の人を通して私と弟の後ろ盾になって

くださるという。絶対に悪いお方じゃない。……ううん、私は小父さまが好き。お父様と

は感じが違うけれど、小父さまは強くて、優しくて、私たちを気に懸けてくださっていて、

……なんだかお寂しそう。私がこんなこと考えるのは、生意気かもしれないけれど、私は

小父さまを喜ばせてさしあげたい。楽しそうに笑わせてさしあげたい。そして……小父さ

まに甘えてみたい。お声を聞いていたい。不思議な色の眸を見つめていたい……。



ようやく小父さまが戻ってこられ、低い声で「待たせてすまなかったね、行こうか……」

とおっしゃった。夕映えの逆光で、お顔の表情はよく見えなかった。私は「ええ」と答え、

また小父さまの左手を取った。小父さまの手は少し冷たくなっていらした。私の小さな手

では、小父さまの手を包み込んでさしあげることはできないけれど、それでも私は、ぎゅ

っと力を入れて手を握った。小父さまは少し微笑んでくださった。


「ね、あちらの道から戻りましょう。あちらには、お母様が丹精していらした薔薇園があ

るの。今は春薔薇が咲いているのよ」

小父さまが何かおっしゃる前に、私は手を引っ張るみたいにして、小父さまを薔薇園へと

お連れした。お母様は亡くなられたけれど、庭師が手入れを続けてくれているおかげで、

色とりどりの花が咲いている。白、ピンク、オレンジ色、クリーム色……、そこに深紅の

薔薇がないことに、私は初めて気がついた。……お母様も、本当は深紅の薔薇を植えたか

ったのではないかしら。それとも、哀しいことを思い出すのはお嫌だったのかしら……。

ううん、……思い出すことを、ご自分に禁じていらしたのかもしれない……。


小父さまは黙って薔薇を眺めておられる。小父さまも気付かれただろうか、深紅の薔薇が

ないことに……。

「あのね、これからはね、私がお母様に代わって、薔薇の世話をするつもりなの。それで

ね、まず深紅の薔薇を植えるつもりよ。エステルさんのお店にあったような薔薇を……」

小父さまのお顔を見上げて、私はそう言った。

「だから……、だか…ら……」

急に涙が込み上げてきた。私は小父さまの腰に腕を回し、顔を埋めてしがみついた。

「だからね、これからも……会いに来て。私……、きっと見事な……、深紅の薔薇を咲か

せて……、小父さまにさしあげるから……」


それ以上しゃべれなくなって、私は小父さまの腰にしがみついたまま、泣き出してしまっ

た。だから、小父さまがどんなお顔をなさっていたか分からない。でも、少しすると、大

きな温かい手が私の背中に回された。そして、小父さまはゆっくりと頭を撫でてくださり、

低いお声でおっしゃった。

「ありがとう、フランソワーズ……」

私は涙が止まらなくて、でも小父さまの手の温もりが心地よくて、頭を撫でられるのが嬉

しくて、涙を零し続けた。小父さまはずっと、私の頭を撫でていてくださった。

……私は、こうしているのが幸せだった。




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