582 :1/7:2006/01/15(日) 19:29:07 ID:fNpGg25f

「早く脱ぎなよ」

女はそう言うと、さっさと自らの衣服を解き出した。

天井の低い狭い部屋。粗末な家具。1人横になるのがやっとのみすぼらしいベッド。

場末の娼婦らしい、その値に相応しい部屋。

ファントムにとっては夕食時に嗜むワインの

一杯にも満たないその値段で、この女は一晩男にその身を売るのだ。

小さなテーブルの上の花すら既に萎れている。


「花を」

その夜のレッスンで、クリスティーヌはそう言うと微笑んだ。

「メグが、ファンだとおっしゃる方から花を貰ったの。

カードが入っていて、お食事に誘われたんですって」

「…彼女の踊りは抜きん出ているからな」

そう答えながらも、内心では呆れている。

メグ・ジリーならクリスティーヌと同い年ではないか。

こんな子供に、気の早いことだ。壁の隙間からクリスティーヌを見つめる。

肩で渦を巻くとび色の巻毛。同じ色の瞳は無邪気に瞬きしている。

こんな子供に。ファントムが再度心の中でつぶやいたとき、

クリスティーヌはふっと目を伏せた。

「素敵だわ」

長い睫の影が、蝋燭の炎に合わせて頬で揺れる。

「何がだね?」

「メグの踊りを見て、お花を贈ったり食事に誘ったりしたくなった方がいらっしゃるなんて」

「やがてお前もそうなる」

お前の声を聞いたものは、皆お前に焦がれるようになるだろう。

それほどの声を、彼の弟子は持っている。しかしその言葉に、クリスティーヌは少し首を傾げた。

「…私もお花をいただけるかしら」


「その花は自分で買ったのか?」

女の言葉を無視して、ベッドの脇の花瓶を指差す。

名前も知らぬ女は、馬鹿にしたように眉を上げた。

「どこの誰がこんな娼婦に花なんか贈るわけ?」

下着姿で腰に手を当てると無遠慮に男の姿を眺める。

「脱がないなら…いいわ、そのまま始めるわよ」

赤く塗りたてられた唇を歪めるように笑って、女はぐいとコルセットを引き下げた。

零れる乳房を隠そうともせず男の足元に跪くと、汚れた床がぎしと軋んだ。


その気になれば最上級の娼婦を買うことも出来るし、

退屈しきった貴族の奥方を、目隠ししたまま地下で抱くことも出来た。

それが何故今夜はよりにもよって

こんなところでこんな女を選んでいる?

今日はどうかしている。あのときからずっと、どうかしているのだ。


「私もお花をいただけるかしら」

「花?」
「天使さまのおっしゃるとおりに歌えるようになったら、私も」

白い頬がふっと薔薇色に染まる。

「私も、どなたかから…」

目元に滲む恥らいに、胸の内が奇妙にざわついた。

「…お前が地上の栄達にうつつを抜かし、つまらぬ男の誘いに乗ったり

…恋するようなことがあれば、音楽の天使は永遠にお前のもとから去るだろう」

自分でも思いもよらなかったほど厳しい口調になる。

はっと見開いた大きな瞳にみるみる涙が溜まった。

「クリスティーヌは恋なんかしません、もう花も欲しがらないわ。

だから、天使さま、行かないで」

唇を震わせて、同じ言葉で懇願する。

「行かないで。ここにいらして。ずっとずっと、お導き下さい」

ほろほろと零れる透明な滴から目を逸らし、

声すら掛けずそのまま立ち去ってしまった。

舞台に立って主役を射止め、貴族の若君に見初められ…

そんな、少女の他愛のない夢だ。聞き流せるはずだったのに。


ズボンの前を外し、手探りで男のものに触れ、女が上げたのは品の無い嬌声。

「へえ…あんた、なかなかじゃない!」

手を添えると、馴れた様子で口に含んだ。

唾液を絡め、包み込んだままゆっくりと舌先で嬲る。

男の身が強張るのを感じ、咥えたまま上目で男の顔を見上げる。

仮面越しに見える瞳は何の表情も表してはいなかった。


しかし、女はにやりと瞳を笑わせた。

どんなに興味の無い目をしていても、この男はわざわざ自分を買っているのだ。

現に自分の内にあるものは、はっきりと反応を示している。

女はだらりと垂れた男の手を取ると、自分の頭に導いた。

暫く頭上で戯れていた皮手袋の手は、

やがて女の頭を掴みゆっくりと前後に動かし始める。

大きく息を吐きながらファントムは視線を下ろした。

鏝で巻いているのか、幾分緩くなった巻毛が指に絡みつき

貧弱な灯りの下、手袋の黒さと幾分変わらぬ色で揺れる。

陽の光の下ならもっと明るい色だろう…路地の暗がりの中では、とび色に見えた。


乱暴に女の頭を己から引き離す。

「きゃ…」

素早く押し倒すと、古いベッドは撓んで悲鳴をあげた。

「あぁん、もう…無理にしないで…」

甘い声で囁きながら、男の襟に手を掛けようとする。

それを押し止めて、剥き出しで揺れる乳房を口一杯に頬張った。

徐々に立ち上がる頂を舐め上げ、甘く噛み、もう一方を指で弄る。

しばらくは低い天井に男女の荒い息遣いと、ベッドが時折軋む音だけが響いた。


「んん…あ、ああ…」

手馴れた喘ぎ声。が、女優としての素質はゼロに近い。

ファントムの唇が嘲るように歪んだ。乳房を握り潰すように、根元から掴む。

突き出た先端に明確な意思を持って歯を立てた。

「いやっ!」

びくりと身体を震わせ抗おうとした身体を押さえつける。

「乱暴にしないで!…止めて…や、あ…!」

女の中に深く差し入れられた指が、ゆるい抜き差しを繰り返しながら

徐々に敏感に、潤ってゆく内壁をこすり上げる。

たまに冷たい目で反応をうかがいつつ、動き回る指で、熱く湿った舌先で

順にボタンを外すように女の身体を解いてゆく。

女が男の手管に屈するのに、時間はかからなかった。


「お…お願い…来てッ!お願い」

切羽詰った懇願にファントムは唇の端を上げた。

女が先程のように男の顔を見ていれば、その目は笑っていないことに気付いただろう。

しかし女の瞳は男の姿を映してはいても、見てはいない。

そうして、男もまた女を見てはいなかった。


あの声を欲した。ただ自分の音楽を形にするためのいわば楽器として。

しかし、いつからだろう、楽器に過ぎぬはずの娘の笑顔から目が離せなくなったのは。

恥らうようなあの笑顔を思い浮かべようとしても

今は滲んで零れ落ちる涙に掻き消されて、浮かぶのは泣き顔だけ。

震える睫、優しい色の睫。伏せた頬に揺れる巻き毛も同じ色。優しいとび色。

無意識のうちに手を伸ばしていた。触れようとしていた。

頭を撫で、頬を撫で、泣くのを止めさせたいと…触れたいと思った。


毟るようにペチコートを引き摺り下ろし、両足を大きく開かせる。

女は鼻にかかった声で、大きく身をくねらせる

その腿を押さえつけ、一気に突き入れた。

両手で腰を抱え込み、上から打ち下ろすように突く。

「ああ…っ!あぁあん、もっと…もっとォ…!」

打ち付けるたび、女はあられもない声で仰け反る。

乳房を突き出し、両足を男の腰に絡める。

滑った部分を押し付け、溢れる蜜を男の腹に、太ももに塗りたくる。

ベッドが壊れそうな悲鳴を上げる。

粗末なものでも豪華なものでも、その衣類を引き剥いてしまえば

どうせ女など中身は同じ、彼の指に、舌に、無様に腰を振るだけの…

…彼の年若き弟子とてどうせ、同じ、女。

「や…やあッ!」

動きを止めて引き抜くと、女の口から悲鳴のような声が漏れた。

「止めないで!」

身を起こし男の腰に縋ろうとした手首を捉え、白い体を裏返す。

尻を掴み腰を抱え、背後から一気に貫くと一際大きな声があがった。


ほんの戯れだったはずだ。

蹲り泣く子供に呼びかけてみたのは。

「迷える子供よ…」

「だれ?」

この子もまた他の者たちと同様、辺りを見回し、その目に怯えを閃かせ、

慌てふためいて逃げ出すだろうと皮肉に眺めていると

涙を湛えた大きな瞳が見開かれた。

「待って!行ってしまわないで!」

身体を起こし、声の主を求めて辺りを見回す。

「天使さまなのでしょう?」

安堵と喜びが滲む声で。

「天使さま、もっとお話しして…」

彼女だけなのだ。

彼に怯えなかったのは。

彼の声に応えたのは。


「………!」

その名が溢れそうになり、ファントムは唇を噛みしめた。

女の喘ぎ声はもはやすすり泣くように細く、揺れる体も力を無くしかけてはいたが

それでもそこは別の生き物のように、猛る男を包み、蠢き、絞り上げる。

「…や…も、もう…ダ…」

うつぶせのまま、背骨の浮いた背が大きく撓む。

しかし懇願に耳を貸さず、ファントムは無言でその背に手を置いた。

ぐっと押し下げると背は尚大きく反りる。

「あああ…あぁああッ!」

高く上がった腰が深々と男のものを飲み込み、貫かれた女は悲鳴を上げた。

中が細かく、何度も締め付け、合わせるように頭もがくがくと揺れる。

「ああぁあぁぁぁ…」

声が途切れて身体から力が抜ける。

腰を支えていた手を離すとゆるゆると崩れ落ちる。

女は咥えていた男をずるりと放ちながらゆっくりと寝台に沈んだ。


ぬらぬらと自らの体液が太ももを淫らに光らせている。

荒く上下する背中から零れ、乱れたシーツにうねる髪。

白い腰、小さな手…とび色の巻毛。

「…クリスティーヌ…!」

掠れた声で小さく叫び、己を扱く。

放った液体が尻を汚しても、女は身動ぎしなかった。


身じまいを済ませ、未だベッドにうつぶしたままの女を見下ろす。

完全に気を失ってしまったのだろうが、このままにしておくわけにもゆくまい。

シーツを外して身体をぬぐってやると、仰向けにし、粗末な上掛けで身体を包んだ。

横を向いた顔の、黒く彩られた目蓋を指で拭う。

現れた寝顔は思った通り、まだどこか幼さを残して

涙の跡の残る頬に、行かないでと繰り返した泣き顔が重なる。


…例えば親を亡くした子供が、世話をしてくれる知り合いの夫人も無く、

親類も無く、1人世間に放り出されていたとしたら。

天使を信じるあの純粋な娘は、どうなっていたのだろうか。

この女のように鼠の走り回る路地裏で、誰とも知らぬ男の袖を引く、

そんな運命が待っていたのかもしれない。

得体の知れぬ客と、名も無い娼婦と、そんな風にめぐり合っていたかもしれない。

ファントムは頭を振った。今日は本当にどうかしている。

マントを羽織り隠しから時計を取り出すと、思いのほか遅い時間になっていた。

もう一度女の顔に目を移す。

暫く躊躇い、女の手の中にそっと時計を滑り込ませた。

どんなに安く叩き売っても、一月は客をとらずに暮らせるはずだ。

「ん…」

冷たい感触に、紅の滲んだ唇が微かな声を漏らす。

間もなく目を覚ますであろう気配を感じ、ファントムは部屋を後にした。


粗末なアパルトマンを後にする。

扉を後ろ手に閉めた途端、暗い路地で何かに躓いた。

「あっ」

小さな人影が駆け寄って、ファントムが蹴飛ばした籠を起こす。

暗さに目が慣れると、散らばった花束が見えた。

拾い集めているのはまだ幼い少女。今から通りに出て酔客に売るのだろうか。

「…花売りか?」

上から降ってきた声に、花を集め終えた少女は頭を上げた。

「お前が売るのか?」

頷く少女の頭にファントムは手を置いた。

「それを総て貰おう」

小さな掌の中に金貨を落としこむ。そのまま顔を、今出てきた部屋の窓へ向けた。

「…全部あの部屋へ届けてくれ」

驚いた顔のまま、少女はこくこくと頷いた。

マントを翻して背を向け、すれ違いざま

色とりどりの花の中、一輪だけ紛れ込んでいた真紅の薔薇を抜き取る。


花を欲しがっていた娘。

もう欲しがらないと泣いた娘。

これを贈れば、少しは喜んでくれるだろうか。

また笑ってくれるだろうか。

そうすれば、この形容しがたい苛立ちは治まるのだろうか。

赤い花を潰しそうなほど握り締めながら、ファントムは狭い路地から

星の見えない夜空を見上げた。



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