611 :失われた環 :2006/01/19(木) 13:20:42 ID:vmNFYmYb


 凍てつく二月。日曜の礼拝からの帰り道、クリスティーヌの足下に子犬がじゃれついてきた。

 「きゃっ」

 路地裏をうろつく薄汚れた野良犬ではなく、手入れが行き届き美しい茶色の子犬だ。

 「・・・まあまあ、どんないいお宅から逃げてきたの?」

 人懐っこく、しっぽを振るばかりでちっとも吼えないので、抱き上げてクリスティーヌは子犬ににこにこと話しかけた。

 すると、ぱたぱたと足音が聞こえ「バロン!」という呼び声に、子犬はするりとクリスティーヌの腕から抜け下りて、声の主に飛びついた。

 「お姉さん、バロンをつかまえてくれてありがとう!」

 それは三つくらいの少女だった。お日様色の巻き毛が寒さと駆けたせいで赤くなった頬を縁取り、大きな灰色の瞳はいきいきと輝いてひどく可愛らしい。

 体に合った清潔で美しい服を身につけ、ふっくらと健康そうな様子からするとどこかの令嬢なのだろう。

 「いいえ、どういたしまして」

 少女の明るい笑顔に誘われて、クリスティーヌもにっこりと笑顔を返す。スカートの裾を翻して再び元気に駆けていく後ろ姿を見送った。

 しかし、それで終わらなかった。少女は、今度は父親を伴ってクリスティーヌのところに戻ってきたのだ。

 「パパ、パパからもお礼を言って!」

 クリスティーヌは息が出来なかった。

 その父親は、かつて彼女を導いた天使だったからだ。

 目深に被られた帽子、その下の白い仮面。音楽の天使の懐かしい声。



 「・・・娘のオーレリーがご迷惑をかけたようで申し訳ない。子犬をつかまえてくれたとか、どうもありがとう」

 オーレリーは父親の袖をひっぱり、父親は娘の頭を愛しげになでている。

 幸せそうな親子の姿に胸がちくりと痛んだ。

 「・・・そんな、たいしたことではありませんわ」

 微笑もうとしたけれど、クリスティーヌの唇は歪んで上手くいかない。

 何か言わなくては、何か話さなくては、でも何を?心からいろいろな思いや言葉があふれるのに、どれも形にならず、口からは白い息がゆっくりと吐き出されるだけだ。

 「どれくらいぶりかな。昨夜の舞台を観た・・・素晴らしかったよ。まだ君が歌っているとは思わなかったが」

 信じられないといった面持ちで仮面の男を見上げたクリスティーヌは、光の加減なのか今はみどり色のその穏やかな瞳を見つめた。

 声を与えてくれたのはあなただというのに?私がそれを簡単に捨て去ることが出来ると思っていたのだろうか。

 いいえ、・・・この人はもう怪人ではない。私の天使でもない。ひとりの男で、・・・娘を持つ父親なのだ。彼にとって私はすでに過去なのだ。

 なのに何故私は傷つけられたように思うの?

 「・・・5年になりますわ」

 「そうか。では同じだけシャニィ子爵を待たせているのだね」

 「・・・舞台を下りる決心がつかなくて・・・」

 ああそうか。私は天使との唯一の繋がりである歌を舞台をやめたくないのだ。

 恋人の求婚に応えられないのはどうしてか、この出会いで、今はっきりとクリスティーヌに理解できたのだった。

どれだけ愛していると言われようと、幾度となく口づけを交わし体を重ねても、それらがどんなに素晴らしく心地よいものであっても、ラウルはこの人ではない。

 この人でなければ!



 クリスティーヌは、こんなにも強い自身の気持ちに驚き、戸惑った。

 と、「ママだわ。マーマ!こっちよ!」オーレリーの大きな声が、クリスティーヌの思いを遮るかのように響いた。

 そして現れたのは、美人ではないが、ふっくらとした頬にえくぼを浮かべ、娘と同じ大きな灰色の瞳が印象的なチャーミングな女性だった。

 明るい金髪は日曜日の午前に相応しくシンプルにまとめ上げられ、瞳の色によく映るペールブルーのエレガントなドレスは夫が選んだものに違いない。
 「マリー=アンヌ」

 彼は誇らしげな声でその名を呼び、それはクリスティーヌの体を冷たくこわばらせた。

 いつもそうしているのだろう、さりげなく妻のウエストに腕を回して引き寄せると言葉を続ける。

 「紹介しよう、妻のマリー=アンヌだ。マリエンヌ、昨夜観た歌劇のヒロインだよ。・・・昔の知り合いでね」

 「まあ!クリスティーヌ・ダーエ嬢ね。昨日は素敵でしたわ。私はマリー=アンヌです、どうぞよろしく」

 親しげな笑顔は娘のそれと同じで、年はクリスティーヌよりいくつか年上のようだがとても可愛らしい。そのうえ、人を和ませるようなあたたかな雰囲気の持ち主だ。

 差し出された手をクリスティーヌは握り返す。動揺は押し隠し、苦労して感情に蓋をする。

 「ありがとうございます。・・・ご主人には以前お世話になったことがありましたの。久しぶりに会えて嬉しかったですわ。

 素敵な奥様と、かわいいお子さんまでいらっしゃって驚いているところですのよ」

 クリスティーヌは一端言葉を切って、マリー=アンヌの夫を見た。



 「幸せですのね」

 彼は微笑を浮かべて頷いた。

 「ゆっくりお話したいのですけど、これから人に会う約束があって・・・残念だわ。

 パリに滞在するのも今日までなの。もう、エリック!こんな素敵な方と知り合いだって教えて下さっていたら、お夕食を一緒にいただけたのに」

 「済まないね、マリエンヌ。さあ、もう行かなければ。約束の時間に遅れてしまう。

 オーレリー、もう一度お礼を言いなさい。・・・上手に言えたね」

 笑顔で互いを見交わす夫婦、両親の愛情を一身に受ける可愛い娘。

 クリスティーヌはそんな彼らを前にして、口の端を上げて笑みをつくるだけで精一杯だった。

 「さようなら」

 「さようなら」

 幸せそうな家族が目の前から去ってゆく。

 彼は一度も振り返らず、妻と娘と共に行ってしまった。

 エリック・・・名前さえ私は知らなかった。

 そして、彼は一度も私の名前を呼ばなかった。

 いつもは清々しく感じられる冬の空気も、今はただただ冷たい。

 胸の中をぐるぐると渦巻く様々な感情に叫び出しそうな自分を、クリスティーヌは唇を噛んで押さえ、自宅へと待つ者もないのに急いだ。



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