655 :薔薇園:2006/01/23(月) 23:48:06 ID:DhwFsBrv

彼女とその夫の墓は、咲き乱れる薔薇園の奥にあった。

墓標に刻まれた、その愛しい名前。

クリスティーヌ。

何度その名を口にしたことだろう。

私が愛した天使は、もうこの世にいない。


地下の暗闇から、明るい陽の光の下へと解き放った、私の天使。

遠くから、彼女が幸せに暮らしている様子を耳にすることで満足しなければと、彼女が幸せ

であることこそが私の幸せなのだと、長いこと自分に言い聞かせて過ごしてきたが、もはや

彼女の様子を耳にすることはないのだ。

あの男は彼女を永遠に連れ去ってしまった。

私の元から……この世からさえも。


少女は母親の歌を聴いた事がないと言っていた。

クリスティーヌはオペラ座を去り、私の元を去り、歌声を封印したのだ。

私の作ったオペラが彼女の最後の舞台――。

あの橋の上で、私の腕の中で共に歌った激しい愛の歌が最後の歌――。

彼女はあの男の元で愛され、家族を持ち、幸せに生きた違いない。

歌を封印し、紅い薔薇を封印し、オペラ座を忘れ、私を忘れ――。


むせ返るような薔薇の香りに包まれて、私はクリスティーヌの小さな娘に手を引かれていた。

クリスティーヌのものだった薔薇の咲く庭には、色とりどりの薔薇が咲き乱れている。

――紅い薔薇が一輪も無い薔薇園。

彼女はここで薔薇に囲まれ、どれだけの時を過ごしたのだろう。

何を思って薔薇を育てたのだろう。

数え切れない薔薇の中に、今も可憐な彼女の姿が、その幻が見えるような気がした。



クリスティーヌの小さな娘からは、近況を伝え、訪問を催促する手紙が海を越えて

たびたび送られてきたが、実際に会ったのは四年後だった。


薔薇園で分かれてから初めて会うというその日、彼女は深紅の薔薇を腕一杯に抱えて訪ねてきた。

忘れ形見の少女は、成長と共に母親に似て行き、私に錯覚を起こさせるほどであった。

もし髪の色が同じだったら、クリスティーヌと見紛いかねない。

髪の色は父親譲り、いや、聡明で活発で、物怖じしない所も父親似なのだろう。


「小父さま! お久しぶりにお目にかかります。お約束の深紅の薔薇よ……」

彼女が一輪の深紅の薔薇を取り出し、私に差し出す。

「毎年、私が庭一杯に咲かせているの。ずっと小父さまに差し上げたかったのよ」

愛らしい手に差し出された深紅の薔薇を無言のまま、見つめる。

そして、私の手がその薔薇を受け取る。


「……ありがとう、フランソワーズ」

この同じ手で、幾度クリスティーヌに深紅の薔薇を贈ったことだろう。

……その薔薇をこの手で握りつぶした夜さえあった。

今、クリスティーヌの娘から、同じ深紅の薔薇を贈られるとは、なんという巡り合わせか。

私を見つめ、母親そっくりの瞳で、輝くように微笑む娘。

フランソワーズは両親を亡くすという境遇にありながら、私の前で眩しいばかりの笑顔を見せる。

クリスティーヌはかつて私の前で、恥じらうような笑顔をよく見せていた。


クリスティーヌ。

おまえも陽の光の下に出てからは、こんな笑顔を見せたのだろうか。

ついに私は見ることの叶わなかった晴れやかな笑顔を。


……どんなに似ていようとも、これはクリスティーヌの娘。

クリスティーヌではない……。

クリスティーヌとは違う……。



私が小父さまに初めてお会いしたのは10歳の時のこと。

私の両親が亡くなり、小父さまは私と弟の後見人になって下さった。

小父さまは、私の両親の古い知り合いで……そしておそらく、私の母を愛していたのだと思う。

小父さまは大きな方で、とても美しい瞳をしていらっしゃる。

顔半面につけた仮面にはちょっと驚いたけれど、私はすぐに小父さまのことが大好きになった。

私は小父さまといつでもお会いしたかったけれども、小父さまはアメリカにお住まいで、

非常にお忙しい方なので、長いことお会いできなかった。

私はなかなか訪れないその日を、いつも心待ちにしていた。


だから小父さまにお会い出来た時には、私は嬉しくて嬉しくていつもの倍も余分なお喋りをしてしまった。

私はいつまでも小父さまのそばに居たかったし、小父さまのお声を聞いていたかった。

小父さまは私に決して親しい態度をおとりにならないので、私はそれが残念でならなかった。

初めて出会ったとき、屋敷の薔薇園で手をつないで以来、小父さまはわたしに触れもしない。

久しぶりにお会いしても、挨拶の抱擁もキスも、お別れの握手すらないのだ。


……でも小父さまは時に私のことを、なんとも言えない眼差しでご覧になる。

小父さまはきっと、私の中にお母様の面影を見ていらっしゃるのだ。

髪の色さえ同じなら生き写し、と言われるお母様の姿を。

お母様はこの眼差しで見つめられていたのかしら。

この低くて甘い声で名前を呼ばれ、小父さまの腕に抱きしめられたことがあるのかしら。

……お母様も、小父さまに何らかの想いがあったに違いないのだから。


かつてはお母様のものだった庭で咲かせた紅い薔薇をお持ちした時、小父さまは痛々しいものを見る

ような目で薔薇をご覧になった。

私が差し出した一輪の薔薇を、長いこと見つめてから受け取ってくださった。

小父さまはあの時、何を想っていらしたのかしら。

……やはり、お母様のことを想い出していらしたのかしら。


きっと小父さまは、お母様のことを想って、独り身でいらしたんじゃないかと思う。

お母様はお父様と間違いなく愛し合っていて、そして、小父さまからもこれほどに愛されていたのだ。

私は小父さまのことが大好きだけど、小父さまが私を気にかけてくださるのは、お母様の娘だから――。

昔、お母様との間に何があったのか私は何も知らないし、詮索しないと決めてはいたけれど、

私は大好きなお母様のことを羨ましく思っていた。



二度目にお会いしてからさらに三年後、代理人の方から、小父さまが病気になられたと聞かされた。

病状があまりよくないので、アメリカを引き上げて、こちらで治療をなさると言う。

次にいつ会えるかわからないので、特別にお会いできるということだったが、

私は小父さまが心配でたまらず、決められた時間より随分前から迎えの馬車を待っていた。


お屋敷に着き、通されたのは寝室で、私と入れ違いにお医者様が暗い表情で帰っていかれるのを見た。

小父さまの病気は、思ったより悪いのかもしれない。

自分でも戸惑うくらいに衝撃を受け、唇がふるえる。

そして私は、小父さまが寝台に横になっているのを初めて目にした。

背が高くて、いつも見上げるようにしていたあの小父さまが、寝台にいるなんて……。

寝台に近付き、仮面をつけたまま目を閉じた小父さまを見ると涙がこぼれた。

「小父さま……小父さま!」


私はあの薔薇園以来、初めてその手を握った。

私の声に小父さまは、あの蒼とも碧ともいえない瞳をゆっくりと開いた。

「……クリスティーヌ…?」


聞こえるか、聞こえないかという小さな声で小父さまが呼んだのは、お母様の名だった。

そして私をご覧になり、また瞳を閉じてしまわれた。

……小父さまはお母様に会いたいのだろうか。

命が尽きるかもしれないという時に、ひと目会いたい大切な人は、

とうに亡くなられた私のお母様しかいないのだろうか…?


もう意識のない大好きな小父さまを見つめ、私はある事を決心した。

私を屋敷に連れてきてくれた代理人に、病気を理由に、今後この屋敷を訪れることを

強引に承諾してもらい、私は馬車を飛ばして自分の屋敷へと戻った。

小父さまが会いたい人に、私なら会わせて差し上げられるかもしれない。

きっと、私しか会わせて上げられない――。



以前、メグおば様の屋敷を訪ねたときに、沢山のデッサン画を見せてもらったことがある。

ほとんどは華やかな舞台の絵だったけれども、そのなかに一枚だけ、おば様とお母様が書かれた、

普段着姿の絵があった。

にこやかに笑うおば様とは対照的に、お母様は静かに微笑んで木綿のドレスを着てたたずんでいた。


「クリスティーヌはよくそのドレスを着てたわね。オペラ座の練習生は贅沢ができなかったけど、

 彼女にはその白いドレスがよく似合っていたわ」

私がお母様を思い出してつい涙ぐんでしまったら、おば様はそのデッサン画を私に下さった。

そして沢山お母様の思い出を話してくださり――、たとえばお母様は私のようには笑わず、

恥ずかしがるように微笑んだことや――他にも大切なことを聞く事ができたのだった。


お母様が、その当時歌の先生をなんと呼んでいたかということ。

「彼女はマスター、とか音楽の天使、と呼んでいたわ。歌うような呼び方で…」

ところが、そこまで言ってからおば様は口をつぐんでしまい、おそらく私に言うべきではないことを

言ってしまったことを後悔しているようだった。

私は今聞いたことを絶対に忘れまいと心に誓ったけれども、表面上は何もなかったかのように、

何も聞かなかったかのようにおば様にご挨拶し、暇を告げたのだった。



私は母と同じ色に髪を染め、先日出来上がってきたばかりの服を身に纏った。

私の寸法に合わせて作っておいた、あのデッサン画の白い木綿のドレスを。

注文する時に、貴族の娘が着るには相応しくないからと随分反対をされたけれど、

せめて生地を上等なものに、とも強く勧められたけれど、そのまま作っておいて本当に良かった。

最初は同じものを着ることでお母様を少しでも身近に感じたくて、でも、本当は、

いつか小父さまにそのドレスを着た私を見てもらいたかったのかも知れなかった。


そうすれば小父さまはもっと私に関心を持ってくださるのではないかしら。

お母様に向けたような瞳で私を見つめ、お母様に話すように話しかけてくれるのではないかしら、と。

こんな形で小父さまに見ていただくことになるとは思っていなかったけれど、

それが少しでも小父さまの慰めになるならば、それで良かった。

お母様を愛しながら、長い時を独りで過ごして来られたに違いない小父さま。

小父さまが、病床で最後に会いたいと願う人は、もうこの世にいないのだから。


鏡の前に立つと、栗色の髪をした、ちょっと古風で質素なドレスを着た私が居た。

少しはにかんで微笑む練習をしてみる。

あの絵のお母様にとても良く似ている。

何度か小父さまの呼び名を呼んでみた。

人を騙すのは良くない事だけど、神様もこればかりはきっと許してくださる。

ああ、お母様、私に力を貸してください――。



馬車に飛び乗って、小父さまの屋敷へと戻る。

その枕元に寄り添い、意を決して、小さな声で小父さまを呼ぶ。

「マスター、…マスター……」



「マスター、…マスター……」

……懐かしい呼び声に目を開けると、クリスティーヌがいた。

白い木綿のドレスを着て、美しい眉を寄せ、私を心配そうに見つめていた。

……そうだ。

これは夢の続きだ。

数え切れないほど見た夢のひとつ。

夢の中で、彼女は夏の木漏れ日の下で晴れやかに笑っていた。

白い木綿のドレスを着て、白い小さな日傘をくるくると回して。

もっとも実際にそんな笑顔でいるクリスティーヌを見たことは、一度もなかったが。


夢の中の彼女は、いつも私の腕の中をすり抜けていき、一度として抱きしめることが出来なかった。

あるときは薔薇の香る庭で、吹き抜ける風に心地良さそうに瞳を閉じるクリスティーヌ。

伸ばした白い喉元、翻る裾、風に揺れる巻き毛。

またあるときは暖かな暖炉の前で、刺繍針を動かすクリスティーヌ。

暖炉の明かりが映える横顔。瞳を上げて私に微笑みかけるその仕草。


彼女はいつもすぐ手の届くところにいるように見えながら、永遠に手の届かない存在だった。

夢の中でさえも。

重い腕を上げて、クリスティーヌに手を伸ばす。

ああ。

初めて彼女に触れることが出来た。

夢の中で、私はその身体を抱きしめた。

柔らかな巻き毛、その白い肌、あの日のままの天使。

「クリスティーヌ……。おまえをまたこの腕に抱ける日が来るとは……」



小父さまは、瞳を開けられて若い頃のお母様そっくりの私をご覧になると、

私の手を引き、病人とは思えない力で私を抱きしめたのだった。

その腕に息が出来なくなるほど強く抱かれ……、今まで何一つ話すことのなかった小父さまの、

お母様への想いを痛いほどに感じた。

……小父さまはこんなにもお母様を求めてらしたのだ。

私の頬を涙がとめどなく伝う。


小父さま、小父さまはどうして、それほど愛したお母様と離れ離れになってしまったの?

お母様は、どうして小父さまと離れて、お父様をお選びになったの?

私は小さな声で小父さまを呼ぶことしか出来なかった。

「……マスター……私の音楽の天使……」



クリスティーヌが涙を流している。

病が重くなると、夢の中の彼女まで優しくなるのだろうか。

彼女が私を呼ぶ小さな声が聞こえた。

「……マスター……私の音楽の天使……」


ああ。クリスティーヌ。

今も私を、そう呼んでくれるのか。

夢の中でも、愛しいおまえの声を聞くことが出来るとは。

死出の旅も、おまえに一時でも会えるのであれば、何もためらうことはない。

私は私の犯した罪と共に地獄へ落ちる身、おまえの声を聞けるのも、これが最後……。

「クリスティーヌ……おまえに出会えたことを、感謝している……。

 ……おまえが幸せであることが、…私の幸せだった……」


クリスティーヌが泣いている。

その泣き顔もあの頃のまま…………。

……朦朧とした意識の奥底で、何かが違うと言っていた。

クリスティーヌ……クリスティーヌ……?

……いや、あれは…………フランソワーズ?


その髪……その白いドレス……。

ああ。

……ここに、私を大切に思い、心配してくれる人物が、ただ一人だけいた。

フランソワーズ。

クリスティーヌの忘れ形見。

残りわずかとなった私の人生に咲いた、もう一つの小さな薔薇。


おまえだけは、私の死を、悼んでくれるか――。

腕の中で泣きじゃくるフランソワーズの涙を、そっと指でぬぐう。

そして私は、この世に別れを告げる前に、彼女に心からの礼を言った。

かつて、咲き乱れる薔薇に囲まれて、小さなフランソワーズに言った時のように。

「ありがとう、フランソワーズ……」



……結局、私の企みは半ば成功し、半ば失敗に終わった。

私をお母様だと思えばこそ、小父さまの本当の声を聴くことが出来たのだろうし、

私は、小父さまの願いを叶えて差し上げることが出来たのだろうと思う。

けれど、小父さまを最後まで騙し通すことは出来なかった……。

小父さまはフランソワーズと私の名を呼び、私に礼をおっしゃったのだ。

小父さまは、その少し後に亡くなられた。


小父さまは今、シャニュイ家の薔薇園を見下ろす高台の教会に眠っておられる。

小父さまは、亡くなられてからもお母様のことを見守っていたいのかもしれない。

私はかつてお母様のものだった薔薇園から、紅い薔薇を持って小父さまに会いに行っている。



それからいくつもの季節が過ぎて、私は屋敷を出ることになった。

私の結婚が決まり、私はアメリカに行くことになったのだ。

爵位は弟が継ぐ事が決まっており、屋敷と領地は弟のものになる。

私には小父さまがまとまった財産を残してくれて、他に両親からの年金や信託財産と、

宝石類を含む母の持ち物を相続していた。


母を偲ぶ品をいくつか持って行きたいと思った私は、母の部屋に入り、

クロゼットの中に小さな古びたトランクを見つけた。

貴族の夫人の持ち物とはとても思えない、粗末なトランク……。

そっと開けてみると、中には数枚の古びたドレスが畳まれて入っていた。

そのうちの一枚を見て、私は息が止まるかと思った。


かつては白かったに違いない、木綿のドレス――。

長い時を経て、生成り色に変色した、粗末なドレス。

母がオペラ座にいた頃、着ていたドレス。

年若い母はこれを身に纏い、小父さまと出会い、歌を教わり、

小父さまにあれほど一途に愛されながら、私の父と結ばれたのだ――。


母は、高価なドレスをいくらでも作れる身分になってからも、この粗末な服を処分しなかった。

母はどんな思いでこれを取って置いたのだろう……。

私の頬を涙が伝っていく。


その古いドレスを手に取る。

鏡の前に持って行き、拡げて胸に当ててみた。

ふと、鏡の中で、そのドレスから何かが落ちるのが見えた。

―――?


床に落ちたそれを、そっと指先で拾い上げてみる。


畳まれていたドレスの間に、長い年月、隠されていたもの――。

それは――。


黒いリボンだった。



小父さまとお母様の間に、昔何があったのか、今でも私にはわからない。

わかるのは小父さまが生涯をかけてお母様を愛していらしたこと。

そして、母もまた小父さまを愛していたということ、それだけだ。


(終)




back










SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送