言葉が干上がり正常な判断はもうできない。
目標第八ゲートまで侵入!ダメです、防ぎきれません!!
何だか訳のわからないフレーズまでが頭の中を駈けずり廻っている。
ファントムは今、これまでの人生の中でも最大級の危機に立たされていた。
お世辞にも平穏とはいえない人生において、今までだって何度も死にかけたり等ギリギリのところを
渡ってきたのに。なんだって、こんな所で、こんな相手に、こんな目に・・・・・!
意識は殆ど残っておらず体は動かすことが出来ない。
混乱を極める彼の耳に、簡潔な、だが致命的な言葉が響いた。
「…いいかい?」
…何ガ?
足を這いまわっていた手がゆっくりと上まで昇ってくる。
人間、最後の一瞬の光景は全てスローモーションで見えるというのは本当なのだな、と
いらないところで余計な感心をしてしまう。
そうする間にもいよいよその掌は、中心部へと近づいてくる。
…このまま、自分はどうなってしまうのか。いや、そういえば今は厳密には自分では
「―――――――!!」
そこまで考えが辿り着き、急に思考がクリアになる。
このままでは自分どころか大切な彼女まで此奴の毒牙に掛かってしまう・・・・・!
必死で身体をよじり精一杯の抵抗を示そうとする。本人的には相手を絞め殺スほどのつもりで
全身に力を入れる。
実際には僅かにシーツを蹴飛ばし、寧ろ腕に縋り付いたようにも感じられる程度に過ぎなかったが、
取り敢えず進行してくる手は止まったようだ。
ほっと息をついたのもつかの間、こちらを見つめる青い瞳と目が合う。
「…大丈夫」
一体何が大丈夫なのか、とツッコむ暇もなく不気味に笑みを張り付かせた顔が此方に近づいてくる。
・・・・・まさか。
何となく相手の意図することを察してしまい、ファントムは声にならない絶叫を上げる。
(やめろ!早まるな!!冷静になれ!!人間考えもなしに一時の感情に流されてはいけない!!!
いや、だから、ギャ――――――――!!)
此方の心中など全く解せず、真っ直ぐ近づいてくる顔・・・・・!
「×××!××××!!×××××――――――!!!!!」
すでに言葉ですらない悲鳴を発するファントムを余所にゆっくりとふたりの唇が重ねら
ガギガがラッッ!!!
突然妙な、大きな音が響いて部屋の奥の鏡扉が開かれた。
「ゴメンナサイ!エンジェル!!迎えに来ようと思ったんですけど途中道に」
お約束どおりの間で現れたのは、お約束どおりの姿。黒髪黒服黒尽くめの長身の男。
「・・・・・・・キャ――――――――――――!!!!!!」
響き渡ったその声は、お約束とは程遠い低いものではあったのだが。
本来ならば、もう少し早く、いつも天使が彼女のもとに現れる時間にここに迎えにくるつもりだった。
然し、仮面と鬘を元通りにつけるのに手間取り(仮面は試行錯誤の結果、デスク近くで発掘された
入れ歯安定剤を使用することで決着した。案外これが正解なのかもしれない)、
尚且つここにくる道すがらいくつも罠を発動させ(それでも本人は全くの無傷で、罠は修復不可能に
なるあたり、神がかり的なものを感じる)、挙句、鏡戸の開け方が判らずもたついた結果(結局、壊した)
ここに到着するが遅れてしまったのだ。
服を乱しソファーの上で重なる二人の姿。
目の前に広がる光景にクリスティーヌは完全にパニックを起こした。
「いやあああああぁああ!!二人とも何してるの!!!二人して、そんな不潔よ――――!!!!」
「!ファントム!!そんなところに抜け穴を!!!・・・・・というか、お前ついに発狂したのか・・・・!?」
「クリスティーヌ、違うのだ、誤解だ!!この馬鹿が勝手に血迷って・・・・!!」
「ひどいわ!!エンジェルも、ラウルも!信じてたのに!!裏切られたのね!!?」
「クリスティーヌ、馬鹿だなんて、一体如何したんだい?そうか、あいつの所為だな!!
ファントムお前の所為で…!!なんだその話し方は!ってうわ、泣いてるのか…?」
「クリスティーヌ、とにかく落ち着いてくれ!!というかその姿で泣きながらぷるぷる震えんでくれ、
頼むから!!子爵!貴様も少しは状況を察しろ!!!」
「エンジェル、だって、だって、あんまりだわああぁああぁああ――――――!!!!!」
―――――つい今しがたまで自分の腕の中にいた恋人は、何と呼ばれた?
突如現れた男を彼女は、今何と呼んだんだ?
えんじぇる、くりすてぃーぬ…クリスティーヌ、エンジェル……ファントム。
ラウルはゆっくりと、思考を回転させた。
「・・・・・・・・・・・・―――――――――――――――――!!?!」
数分間の空白の後、ラウルは自分の中で世界が崩壊していくのを確かに感じた。
「うわぁぁあああぁああん!!ひどいわ、ヒドイわあぁあぁああ―――――――!!!」
「ギャ―――!!く、クリスティーヌ!分かったから燭台を振り回すな、うわ危な!!」
「…あハはッ、クリスティーヌ、キミは昔からおてんばサンだったね。あッほら向こうで
小人がダンスしてるよ・・・!」
一人はパニックで大暴れし、一人は疲労その他諸々でふらふらしながら逃げ惑い、
一人は完全にお花畑の広がる別世界に逝ってしまっている。
おかしな三重奏が繰り広げられ、収拾不可能な場の混乱が最高潮に達したとき、
バタンと部屋のドアが開いた。
「何時だと思っているの!!クリスティーヌ、クリスティー・・・・・」
目の前に広がる想像を絶する惨状に、マダムは絶句した。
そんな彼女を見て三人の動きもピタリと止まる。
「あ、あの…」「ま、マダム…」「こ、此れには訳が…!」
一瞬の静寂。
「・ ・ ・ ・・・・・・―――――――――――!!!!!!」
こちらも想像を絶する規模で、恐怖の雷が轟き渡ったのは言うまでも無い。
のちに、偶然この咆哮を耳にしたバレエダンサーは語る。
どんな凶暴な魔物よりも恐ろしいものを見た。あの光景は一生脳裏から離れることはないだろう
…と。
翌朝、元に戻ったクリスティーヌ・ダーエ嬢は罰としてオペラ座全館拭き掃除とカルロッタの
高周波攻撃つき付き人一週間を命じられ、ラウル・ド・シャニュイ子爵閣下は一ヶ月の
楽屋出入り禁止になり、O.Gファントムは三月ほど地上に出てこられなくなった。
それにより、オペラ座の面々、特に両支配人は穏やかな3ヶ月を過ごすことになったのだが、
それはまた、別の話。
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