646 :天使の歌(2) :2005/09/05(月) 19:48:43 ID:pzHH5ult

このところのオペラ座は実に平和だった。

あれだけ立て続けに起こっていた奇怪な事故が急になくなり、不気味な気配もとだえている。

O.G.からのしつこい手紙もこない。

フィルマンもアンドレも息をつき、眉間の筋を浅くしてにこにこと、再び社交活動に飛び回り始めた。

オペラ座の人々は拭いがたい同僚の死の暗い影を感じつつも、それなりの日常の明るさを取り戻しつつある。

この変化の理由はただひとつ。


ファントムと呼ばれる男はこのごろオペラ座を留守にしていた。

ナマズの生息する地下水路を利用して郊外に足を延ばし、彼はせっせと次の仕込みをしていた。

誰も知らぬ事だが、彼の天才はその才能だけにあるのではない。

それが正しかろうと誤りであろうと倦まず弛まず目的のためにつっぱしる思いこみと一途な情念の強さにあるのである。


「ふう」

ファントムは仮面を押し上げ、真冬にも関わらず滝のように流れる汗を拭った。

「やはり電気が使えないのは不便だな…」

彼のいるのは墓所の奥まった場所にたつ、石造りのダーエ家の墓所である。

周囲にはぜんまいや歯車、鉄線にロープに工具といった山のようなモノ、それにバタールやチーズの残骸の入った紙袋や飲み物の空き瓶などが積み重ねてあり、

グスタフ・ダーエの骨しか入っていないはずなのにさしも無意味に広大なダーエ家の墓所が、四畳半よりも狭っくるしく見える有様であった。

足の踏み場もないその様はまさにヲタクの特質とも呼ぶべきカオスと情熱を兼ね備え、

しかも驚くべきことに彼の傍らには例のクリスティーヌ・ダーエ1/1等身大フィギュア(花嫁衣装バージョン)までが鎮座している。

どうせ作業をするならば愛しい彼女とともにいたいという情熱のプレイであろうが、

ここまでこだわるのはやはり彼の完璧主義いやちょっぴり危ないハイテンションな性癖のせいか。

ちょっとアレだがこれがファントム・クオリティ。


「クリスティーヌ…」

彼は等身大フィギュア『お嫁クリスちゃん』に語りかけた。

「もうすぐだ、もうすぐまた生きて喋って歌う暖かい本物のおまえを私の住処に招待することができる…」

彼は膝の傍に拡げていた設計図らしき図面を掴んだ。

「えーと、これで部品は揃ったな。あとは組立だけか…」

その図面には芸術的かつ繊細な線で、ピタ○ラスイッチのからくりを二百倍ぐらい複雑にしたような仕掛けが記してある。

「ここをこう…それでこの溝にボールが…そして灯りがつき、扉が開き、花火がうちあがってこのライティングが、と。完璧だ」

ファントムは呟いて顔をあげた。

彼はねじ回しとトンカチを掴みあげた。

「待っていてくれ、クリスティーヌ!」


深夜のダーエ家墓所に力強い大工仕事の音が響く。

グスタフ・ダーエにとっては迷惑千万であるがやる気満々の今のファントムを止められるものはいない。


そして二日後の夜が訪れた。




足音を寄宿舎の闇に同化させ、彼は欲してやまぬ獲物に忍び寄った。

すやすやと健やかな寝息も愛らしい彼女、歌姫の彼女、彼の欲望そのものである彼女の寝顔を、だが彼はじっくりと見ることはできぬ。

闇の中、ほのかに窓から流れ落ちる淡すぎる星明かりに浮かぶ青白い輪郭の初々しさを、長い睫の落とす暗い影を、豊かに沈む長い髪の渦から立ち上る芳香を、彼は惚れ惚れと感じ取った。

もっと顔を傾け、肩を倒して彼女に触れたい。

だがそれはできない。

彼にできることは、ただ、手にした紙を持ち上げることだけだ。

その紙をくるりと丸め、漏斗状にすることだけだ。

そしてその細い口に唇をあて、静かに静かに囁くことだけだった。


 ♪クリスティーヌ……

  クリスティーヌ……


ぴく、と彼女の睫が震え、幼い頃から馴染んだ低い声を聞き分けた徴にその唇に微笑が浮かび上がる。

だがそれは夢の中なのだろう。

決して彼女がその美しい瞳をあげて彼を見上げてくれることはない。

男はこみ上げる愛しさと哀しみを胸に、それでも声を高めることなく続けた。


 ♪クリスティーヌ……

  私の言う事をよくお聞き……


眠れるクリスティーヌは微笑を深めた。

ものといたげに頬を自らの髪に埋め、彼の目前に花のような唇が迫る。

彼は慌てて上体をそらし、じっとそのかんばせを眺めた。

だが手にした紙を取り落とすことはない。

そこまで動揺するには、彼の企みは深く意思は強固であった。


 ♪よくお聞き、クリスティーヌ……

  私に会いたいか……会いたいのだろう……

  おまえの師に、友人に、憧れに、許しを請いたいだろう………


眠る娘のくっきりと滑らかな眉がかすかに寄せられた。

淡く苦悩を滲ませたその仕草に勇気を得、男はさらに囁きかける。


 ♪墓地に行くのだ、クリスティーヌ……

  おまえの父の魂の元で、おまえの魂に許しを請え……


クリスティーヌの唇がかすかに震えた。

小さな吐息とともに絞り出されたかすれた声は、たしかに「マスター…」と男の耳に届けられた。

たおやかな手がシーツの上を滑り、男のマントに触れそうになる。

掴もうとするかのように彼女はかすかに指を丸めだが、彼がするりと身をかわしたため決してその先は触れなかった。


 ♪墓地においでクリスティーヌ……

  おいで……

  おいで……


何度も何度も誘いかける。

クリスティーヌの滑らかな頬に透明の雫が線を描き、彼女は夢の中で誰かを捕まえようでもいうかのように、くぐもった声を喉の奥にあげた。

彼女の様子を眺め、男は深い吐息を落としたが、それでもびくともその躰は動かなかった。

鉄壁の意思。

それこそが、彼がこの敵意に満ちた世界で生き延びるために振るってきた武器なのだ。

やがてクリスティーヌが寝返りをうちはじめた。

男はやっと、視線を彼女から引き剥がした。

ゆっくりと身をひいた。

紙を懐につっこむと、黒々としたマントを翻し、彼の気配は闇に消えた。





クリスティーヌは、歌の才能と芸術家としての感性は豊かだがそれゆえかその反面か、非常に暗示にかかりやすい娘でもあった。

睡眠学習の効果よろしく、まもなく寄宿舎から暗い色のマントを羽織った彼女がぼんやりと薄雪の中に歩き出してくるのが、厩の隅に身を潜めている彼の目に映った。

御者用のフードを被って顔を隠すと、彼は大股で隠れ場所から出て邪魔な本物の御者の後頭部を殴り、入れ替わる。

こんなの簡単である。なにせO.G.と呼ばれる男なのである。

何も気付かぬクリスティーヌを墓地でおろすと、彼は一目散に反対側の茂みに馬車を隠して柵を越え、墓地内部に躍り込んだ。

クリスティーヌがダーエ家の墓所につくまでに到着しなければならない。

それでなければ最高のタイミングで仕掛けを発動させることは不可能だ。

ファントムは疾風の勢いで墓地を駆け抜け、よじれた木にするすると登ると墓所の屋根に飛び移った。

仕掛けの錘を手で探り、ファントムは待った。


待った…。



待った……。



待った………。



「……………………遅い……………………」

三十分後、呟くファントムの仮面に横殴りに吹雪が襲いかかっている。

天候が悪化してきたらしく、空はすでに灰色を通り越して真っ暗だった。

目もあけられないような雪の中、ファントムは必死で彼女の細い影を探した。

動くものは雪以外、ナッシングである。


『遭難』


という言葉が彼の脳裏に浮かんだ。

まさかとは思うが、いかにこんな怪しげな墓地とはいえとは思うが、そしていかにあのクリスティーヌといえどもとは思うが、


  あ  の  ク  リ  ス  テ  ィ  ー  ヌ  だ  か  ら  な  。


ファントムはばっと立ち上がった。

やりかねない。

クリスティーヌなら遭難する。

絶対する。

なにせマントを羽織っているとはいえ半分かた剥き出しのふくらみが覗く、まるで男の妄想そのもののようななあの寒そうな格好。

屋根から飛び降り、ファントムは走り始めた。

すでに大雪が膝までを埋め、吹き付けてくる雪で視界はゼロ。

すぐに走れなくなり、ファントムは這うようにして襲い来る雪と戦い始めた。

ここはパリではなく地吹雪吹き荒れる八甲田山だったのか。

その彼の耳に、懐かしくも美しく切ない、彼女の歌声が聞こえてきた。


♪(サントラ参照。歌詞は残念ながら著作権の問題でお届けすることはできません)


「クリスティーヌ!」

口の中に入ってくる雪を吐き出しながら彼は叫んだ。

「待っていろ、おまえの師が、おまえの友達が、いまそこに行くぞ!!」

彼女の歌声はファントムを引き寄せるように吹雪を巧みに縫い通した。


♪(やはりお届けできません。ああ本当に残念だ)


「クリスティーヌ…!!」

ファントムの目に涙が浮かんだ。

もう足が動かない。

さしもの強靱な彼ももう一粍も進むことができない。

ここはパリではなくブリザード吹き荒れる新昭和基地だったのか。

この愛の力をもってしても彼女を救うことができないのだろうか。

そんなはずはない。

そんな事があっていいわけがない。

なぜなら彼はO.G.。

そう、人々から畏れをこめてオペラ座のファントムと呼ばれる男。


ファントムは暴風に抗い、立ち上がった。

狂ったようにはためくマントの重さに襟首を絞めつけられながらも石像の影をひろい、歌声のもとに近づいていく。

と、そこにこの吹雪と降雪にも関わらずぱかぱかと蹄の音がして、雪よりも白い馬にまたがった薄いシャツ姿のラウルが近づいてくるのが見えた。

まさに自殺行為であるが、それよりもファントムが、この視界ゼロの状況でどうやって彼の姿を見ることができたかを気にしてはいけない。

それが嫉妬で感度と精度の高まった、まさにファントム・クオリティ。

「シャニュイ子爵!」

ファントムは呻くと、萎えそうになる足を励まして死にものぐるいで前進しはじめた。

もう歌声はほど近い。

すぐそこ、そう、すぐそこにクリスティーヌが横たわっているはずなのだ。

なんとかあの憎たらしい青二才より先に愛しのクリスティーヌの元に辿り着かねば。

ああ、なのに。

なのに…!!


ファントムは雪煙をあげて冷たい墓地の地面に倒れ込んだ。

愛の力が自然の暴威に負けた瞬間である。

「くっ……!クリスティーヌ…!!」

辛うじて顔をあげた彼の目の端に、例の衣装で倒れ臥しているシャニュイ子爵の姿がひっかかった。

無理もない。その背中にどんどん雪が降り積もっていくのをあっさりと無視し、ファントムは彼の愛弟子の姿を求めて血走った眼をぎらぎらと動かした。

だが彼女の姿はどこにも見えない。

どこか石像の影に避難しているのかもしれない。

ファントムは、その声の安定したハリになんとなく安堵した。彼女の命は無事らしい。

彼の耳に届くのは吹きつのる風にも勝る美しい彼女の歌声、まさに天使のような清楚で麗しい美の響き。


「クリスティーヌ………」


ファントムの頬を幾筋も涙が伝わった。

その美は彼の不安を溶かし、至福の境地に彼を押し上げ、全ての懸念を吹き払った。


ファントムはうっとりと口元に微笑を浮かべ、彼女の歌声を聴いていた。

頬を雪だまりにつっぷし、そのマントの背にはラウルと同じく遠慮会釈もなく雪が降り積もってゆく。

そのさらに上に響き渡る彼らの天使の歌声は、吹雪の暴挙をものともせず、はかないくせに永遠に通じる揺るぎなき美をかたちづくりながら暗い空に舞い上がり続けるのであった……。




しかし吹雪は一向に衰える気配すらない。




今回はだめだ!

今回ばかりはさすがのファントムもラウルも助からない!

誰でもいいからこれを読んでいる方、どうか一刻も早くオペラ座のマダム・ジリーに通報してやってください。

彼女ならきっとなんとかしてくれる事だろう。

早く!

早く!





back


















SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送