77 :ファントム×ジリー(未遂) :05/02/24 01:38:26 ID:O224BSUh

 息を潜めて、降りて行く。日常とはかけ離れたものが支配する、深く甘やかな暗闇へ。

 一歩、一歩、昨日より下へ。昨日より奥へ。

 何かを予感するように、体の深くがざわめいた。


「ねえ、いる?」

 頼りない光の松明を掲げ、そっと、呟くようにジリーは呼んだ。呼びたいときには曖昧に名前を落とすのが彼に対しての作法だ。返事はない。もう一度。

「ねえ? いないの?」

「……ジル?」

 暗闇からそっと、声。彼は彼女をジルと呼ぶ。ふつりと途切れるその短さに、彼女はいつも不思議な緊張を感じていた。雪の結晶に指先で触れてみるような、緊張。それが伝染して、彼女も微かに身体を固くする。

「わたしよ。届けに来たわ」

「ああ」
 闇そのものが揺れたように声が響き、その帳の隙間から、彼は姿を現した。これほどか細い光にも耐えられないというように眉を寄せ、静かに慎重に彼女の側へ滑り寄る。彼女は複雑な思いで正面に立った彼を見上げた。



 ――いつの間にか、見上げるようになってしまった。

 ぼろきれのようだった彼の手を引いて、彼女がここへ走り込んだのはもう、何年も前になる。

 その時の彼は痩せっぽちのみすぼらしい少年で、薄汚れた袋で隠した顔は、彼女の顔よりほんの僅か上にあるだけだった。

 少し視線を落とせば、痛々しいほどくっきりと浮き出た肋骨が見えた。

 放っておいてはいけないと感じた。だから、捨てられた仔犬を世話するように、彼女は食べ物を与え、毛布を運び、時々様子を見に来たのだ。

 やがて彼が闇の底に慣れ、彼女の助けを必要としなくなったことに気付いても。

 いつの間にどこで手に入れたのだろうか、気が付くと彼の顔は古びた仮面で優雅に覆い隠されるようになっており、仮面に隠されない部分には確かな成熟の影が見え始めた。

 その変化に気圧されながら、それでも彼女はここに来る。今日も来た。

 見上げた彼の首筋は白い。首だけではない。闇に育まれた肌はどこも青白く、どこか不吉で美しい。

 暗い中でも仄白く浮かび上がって見えるその手に向けて、彼女は様々な食べ物を詰め込んだ手かごを差し出した。



「今日は、ワインも入ってるわ。わたしはあまり好きじゃないから。頂き物なの」

「男から?」
 独り言のようなその問いには答えず、早く受け取れというように手かごを突き出す。

 彼は自分が何か言ったことにさえ気付いていないという風に、何気なくそれを受け取った。

 ひやりと指が絡んだ。思わず息を呑み、火傷でもしたように手を引っ込める。

 二人の手の間で手かごは一瞬宙に浮き、それから当然地面に落ちた。

「あっ……厭だわ、わたし、慌てて」

 早口で言い繕いながら落ちた物を拾い集めようとするが、片手では上手く行かない。

 松明を何処かに置いておけないかと顔を上げると、冷ややかな仮面が予想もしないほど近くにあった。彼女の目の前に。

 驚きを表現する間も与えずに、彼は彼女の手首を掴んだ。思わず取り落とした松明が、近くの水溜りへと転げて火が消える。

「どうして慌てる?」

 圧し掛かる闇をすり抜けて、声。すぐ目の前で発されている筈なのに、目を凝らしても闇しかない。

 手首を掴んでいる手は冷たく、恐怖を感じるほど力強かった。手のひらが広く、指は長い。

 もう少年の手ではない。そのことが自分をあれほど慌てさせたのだと、訊かれて初めて気付いた。



「ジル、どうして?」

「何でもないわ、驚いたの」
 答えた声が意外に冷静に響いたことに安堵する。

 けれど、手首に彼の手の感触がある以上、すぐに誤魔化しが効かなくなってしまいそうで怖かった。

「どうして驚く?」

「あなたの手が冷たすぎて。冷えるのね、ここは」

「…………」

 暫くの沈黙の後、彼は手を離した。黙ったまま、散らばった中身を拾い始める。

 やがて、闇に慣れ始めた目を凝らし、彼女もそれに加わった。


 消えてしまった松明を手に、暗闇の中を潜って行く。

 ここから出れば日常の世界、さっきのことは夢と同じ。

 ――けれど。

 これは多分、最初の一歩。次はきっと降りてしまう、もっと下へ。もっと奥へ。

 どこか甘くて暗い予感。体の深くがざわめいて、彼女は小さく震え出した。


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