「クリスティーヌ!」
ファントムが、崩れ落ちる細い体を抱き止める。
「マスター…」
胸元を引き裂かれた白いドレスはみるみる彼女の血に染まって行った。
傷口が熱い。
その痛みが、心の痛みなのか、肉のそれなのかクリスティーヌには判別がつかなかった。
「手を、離しなさい、クリスティーヌ」
叫び出したいのを堪えている顔をして、それでもクリスティーヌを刺激しないように感情を押し殺した冷静な声で、ファントムは命令する。
「…はい…マスター」
そう言われて、やっとクリスティーヌは短刀の柄を握っていた指の力を緩める。
そのまま切り裂いた部分に触れようとして、ファントムに抑えられる。
「クリスティーヌ、どうしてこんな」
「マスター…さっきこれ位痛かった…?」
「何を言って…」
「…私は痛かったの…だから、こうしたの…心が痛かった分だけ、切ったのよ…」
やはりロクな言葉が出て来ない。
苦しい息の下、途切れ途切れのそんな言葉で、ファントムに意味が伝わったとは考えにくい。
「これ以上喋るのはやめろ、クリスティーヌ。大丈夫だ、私がすぐに処置する」
広い胸に抱かれて、意識を失いそうになりながら、クリスティーヌは視線の先にラウルを探した。
ラウルは、ショックに身じろぎもせず、血の気が失せた顔でこちらを見ていた。
血だらけの手の平が、ラウルに向かって差し出される。
「ラウルは…わかっ…た?」
そう言ったきり、クリスティーヌは意識を失った。
地下の寝室で、クリスティーヌは眠っている。
美しい娘は、鎮痛剤のおかげで、胸に傷があるという事が嘘のように、青ざめてはいるものの安らかな寝顔をしていた。
傷はファントムの的確で素早い処置のおかげで、命に別状を及ぼすものにはならなかった。
だが上から下へと切り裂いていたので、美しい胸元に無残な傷が残ることは避けられないだろう。
手当てを終えて、ファントムは彼女の言葉と行動の意味を考え続けていた。
そうして、先程はわからなかったそれを、今は理解出来たように思った。
ラウルの言葉の刃にファントムが傷つくのが嫌さに、自らの身体を本物のナイフで切り裂いた、ばかな愛しい娘。
ファントムは何かを決意したようにベッドサイドに寄せていた椅子から立ち上がる。
部屋を出て行く前に、深呼吸をして一つの事実を認めた。
自分が、彼女を狂わせたと。
「クリスティーヌの容態はどうなんだ?!」
部屋を出て居間の扉を開けると、ラウルが弾かれたように顔を上げて彼に詰め寄る。
一刻も早く処置をしなければならないのに、医者を呼べだの、地下へ行くなら自分も連れて行けとうるさく騒ぐ若造。
殺したい気持ちを抑えるのにどれ程苦労したか。結局クリスティーヌを地下に連れ帰るのに、舟をこがせる為に連れて来たのだ。
ハンサムな顔は、この2、3時間の間に急激にやつれたように見えた。
それでも育ちのよさや、真っ直ぐな気性を隠せないその顔に、ファントムは凶暴な気持ちが再び沸き起こるのを感じた。
「クリスティーヌの心配など、お前がする事ではない」
言うなり、ファントムはラウルの胸倉を掴み、クリスティーヌが使った血のついたままの短剣を彼の喉元に突きつけた。
脅しではないという証拠に、楽屋で感じた以上の殺気が痛い位にラウルを包む。
「…教えてくれ、頼む」
命乞いでもすれば、一思いに刺し貫いてやるものを。この期に及んで、クリスティーヌの心配をするのでは、それも出来ない。
「…もしもの時は、お前の血でも皮でも使ってやるつもりだったが、その必要はなさそうだ」
「…そうか」
心底ほっとした声を出す。まるでこのまま刺し殺されても本望だというように。
その様子をたまらなくいまいましく思いながら、ファントムは掴んでいた胸元を乱暴に突き放す。
「…あれはお前を刺したかも知れないぞ?」
「そうかも知れない。僕を黙らす為なら、何だってやっただろう。だが優しい気性がそうさせなかった」
腹いせに傷つけてやろうとして発した言葉なのだが、予想外に彼はその事実を受け止めているようだった。
「ほう。狂った女と恐れをなしたかと思ったが?まだ、ご執心か」
「わかっているだろう?誰がそうさせたのか」
ファントムの肩が、その言葉に微かに上下する。
「お前と彼女が、どこか深い所で結びついているのは認めよう。だが、お前の愛はこの世界では彼女を壊す。
どうしてもというなら、彼女の死後、魂を連れて行け。ただ、この世では僕に預けるんだ」
端正な顔に、明るい真っ直ぐな気性。
自分には叶える事の出来なかった、地上での暮らしの象徴のような青年。
死神と寝た娘。
今、狂気に犯されつつある娘。
ラウルは、全てを知った上で、クリスティーヌを受け入れると言っている。
彼もまた、クリスティーヌを本気で愛しているのだろう。
そして彼の愛は、彼女を壊すような真似はしない。
「…舟を使って地上に戻れ。一人で帰れるな?」
「彼女をおいて帰るなど」
言いかけたラウルを遮るようにファントムは続ける。
「そうして、マダム・ジリーと、愚かな支配人達に、クリスティーヌは暫く舞台に出られないと伝えてくれ。
あの子は…私が確実に治す。完璧な状態にしてから、地上に届けよう。それで、終わりだ」
ラウルはじっとファントムを見る。絶望の滲むファントムの声に、真実の響きを彼は感じ取った。
「…約束してくれるね?信じているよ」
「そんな言葉で私を縛ろうとするのはやめて貰おう」
私は私の意思で、あの子を手放す。決してお前との約束などのためではない。
ファントムの眼からは先程宿った憎しみの光も殺意も、決して消えていなかったのだ。
この男が自分を生かしておくわけは、地上で彼女が一人にならない為だけなのだ。
ラウルはそれを知った。
ファントムは眼で扉を示す。
「…行け」
私が殺意を抑えていられるうちに。
有無を言わさぬ気迫が、今度ばかりはラウルを従わせた。
扉を開け暗闇の中、壁の燭台に灯った蝋燭の明かりを頼りに、舟へと進む。
部屋を出る時、一度でも振り返っていたら、殺されていたかも知れない。
そう彼は思った。
頬に温かい何かが滴るのを感じて、クリスティーヌが眼を開けるとファントムが彼女を見下ろして泣いていた。
仮面で隠れていない方の瞳から、涙は後から後から流れ落ちる。
「…泣かないでマスター、ごめんなさい…」
クリスティーヌは掠れた声で謝る。
バカな事をしてしまった。
後悔で胸が一杯になる。泣かれる位なら、怒られる方がよっぽど良かった。
私は本当に出来の悪い子だ。
上手く伝わらないからと言って、胸をナイフで切り裂いてしまうなんて。
結果はただ痛い思いをして、さらにマスターを泣かせてしまっただけ。
夢か現実かわからない暗闇の中で、クリスティーヌは何度も何度もファントムに謝った。
「…マスターごめんなさい…お願い、私をどこへもやらないで…」
ファントムとラウルの間で交わされた「約束」を、クリスティーヌは知らない。
そんな言葉が浮かんだのは、長年居場所を求め続けて来た孤児の悲しい考え方の癖だったのかも知れない。
何度頼んでも、ファントムはただ悲しい顔をするばかりで、クリスティーヌを安心させる言葉を発してはくれなかった…。
深夜、ファントムの棲家である地下に、女の悲鳴が響き渡った。
「クリスティーヌ?!」
あれから3日たっていた。
うわ言でどこにもやらないでと言うばかりのクリスティーヌに、調合した鎮痛剤と睡眠薬の入った薬を飲ませておいたのだが、思ったよりも効き目が早くきれてしまったらしい。
次に目覚めた時に飲ませる為の薬を調合していたファントムは、それを放り出して廊下を走る。
「クリスティーヌ…!」
扉を開けると、何が起こったのか一瞬にして理解する。
目覚めたクリスティーヌは、自分で包帯をとって傷口を確かめてしまったのだ。
肌蹴た胸元から、血は完全に止まったとはいえ、白い肌に刻まれた痛々しい傷口が露になっていた。
「ああ、いやぁっ…マスター、見ないでっ」
ベッドから逃げ出そうとするクリスティーヌを後ろから抱き締め、傷口に触れないように首と下腹部に両腕を巻き、いやいやをする彼女の動きを封じる。
「クリスティーヌ、暴れるな。傷口が開いてしまうよ…いい子だから。傷跡が嫌なら、私の皮膚を使ってでも、完璧に戻してあげよう」
そして、お前を早くこの悪い夢から救い出してやろう。
あの若者の傍でなら、お前はこんな種類の涙を流すことはないのだから。
ファントムにしっかりと抑えつけられ、最初身を捩っていたクリスティーヌは力尽きぐったりと動かなくなる。
「…マスター」
「…なんだ?クリスティーヌ…」
「…私のここ、見た、わよね?」
当たり前である。治療をしたのは自分なのだから。
「…ああ」
嘘もつけずにファントムは答える。思わず力を緩めてしまい、彼女はするりと彼の腕から抜け出す。
「…マスターは…」
ベッドの上で、ファントムとクリスティーヌは膝をついた姿勢で向かい合う。
涙の滲んだ眼で彼女は彼を見つめた。
そして、一度唾を飲み込んでからやっと、辛い質問をする決心をしたようだった。
「…この醜い傷をみて、私のことを嫌いになったの?…だからどこかにやってしまおうとしているの?」
「…嫌いになんて、なるものか!」
それはファントムの、魂からの否定だった。
確かにお前はあの若者の元へとやるつもりだ。だがそれは、嫌いになったからではない。その逆だ。
お前を愛しているから、憎くてたまらない、だが一人の男として認めざるを得ない若造にお前を託すのだ。
「…マスター…本当に?」
「あたり、まえだ」
「…よかっ…た」
クリスティーヌは、はだけた胸元を合わせながら、へたへたとベッドに座り込む。
「悲鳴なんてあげてごめんなさい。でも、とても怖くなってしまって…ひょっとしたら、この傷を見て、嫌われちゃったんじゃないかって…」
「ばかなことを…お前は何もわかっていないんだな!」
思わず大きな声を出してしまう。
驚くと同時に、ひどく傷ついた気持ちになった。そんな事で、自分がクリスティーヌに捧げている愛が揺らぐなどありえない。
この先彼女がどんな姿になったとしても、彼女の髪の一筋まで、命をかけて愛さずにはいられないだろう。
どうしてそんな事がわからないのだ?
私からの全身全霊をかけた愛を感じ取れない位に、お前は愚かな娘なのか?
「だって」
言い捨てられて、クリスティーヌがまた泣きべそをかく。
「だってマスターが…」
「私が何だと言うのだ?」
あまりに情けなく悲しくて、クリスティーヌがケガ人だという事も忘れて問い詰めてしまう。
「マスターが…いつも…いつもいつも、お顔の事をひどく気にするから」
そうして気付く。自分が今感じているのと同じ気持ちを、この娘にずっと抱かせていたことを。
愚かなのは、私の方なのだ…。
ファントムは仮面を外し、コトリとベッドサイドのテーブルに置く。そして、真っ直ぐにクリスティーヌを見つめた。
「マスター…」
それは精一杯のすまない、の合図だった。
クリスティーヌがファントムの仮面の下に隠された顔を見た事は、数える程しかない。ベッドを共にする時でさえ、彼はそれをつけていたから。
人に言わせれば化け物の顔らしい。
けれど彼女にしてみれば、愛しい男の素顔でしかない。
クリスティーヌは崩れた顔の方へと唇を這わせる。その部分全体にキスをした後、愛おしそうにまじまじと彼を見つめる。
それから、万感の思いを込めて、唇に唇を重ねた。
「マスクがどんなにキスに邪魔だったかわかる?マスター…」
「…今、わかったよ」
真面目に答えるその表情が愛しくて、涙ぐみながらも微笑みがこみ上げてしまう。そうして自分の胸元に視線を走らせる。
「…ここの傷が治ったら、またいっぱいキスしてね?例え、どんな傷跡が残っていても」
「勿論だよ、クリスティーヌ…」
「…どこにもやらないって、約束して下さる?」
ふいに薬で眠る間に見続けた悲しい夢を思い出し、クリスティーヌが不安気な表情をする。
ファントムはそんな彼女の頬に触れ、優しい笑みを浮かべた。
「離すものか…お前は、私のもの」
ファントムがマスクを取った顔で、自分に笑顔を見せてくれる。
この瞬間、クリスティーヌは、下手で無茶なやり方で、奇跡的にも自分の気持ちが伝わった事を知った。
傷ついた方の胸を当たらないようにして、彼女はファントムにもたれかかる。ファントムも庇うようにそっと彼女の細い肩を抱いた。
「ラウル・ド・シャニュイ…やはりお前との「約束」は守ることはできない」
一瞬でもこの子を手放す気になったなんて、私こそ正気の沙汰ではない。
クリスティーヌはこの世でも、そしてあの世でも私のものなのだから。
ファントムが思わず知らず呟くと、目を閉じて身体を預けていたクリスティーヌが不思議そうな声を出した。
「ラウルとも何かお約束したの?マスター」
「約束?あの若造と?するわけないだろう」
「?そう…?」
まだ不思議そうな表情のクリスティーヌの頬に軽く口付けてから、部屋を出てカップに入った薬と、新しい包帯とタオルを持ってくる。
清潔なタオルでクリスティーヌの身体を清め、傷口の具合を見る。ファントムの調合する薬のおかげで、普通よりもずっと傷の治りが早かった。
クリスティーヌは、ファントムが自分の傷を見て少しも顔を歪めたりせずに、むしろ愛しそうな様子で手当てしてくれる事を確かめ、心の底から安堵する。
「クリスティーヌ、疲れただろう。そろそろ眠らなければいけないよ」
その言葉にクリスティーヌは不安そうな顔をする。ずっと悲しい夢を見ていたので、また眠るのが怖いのだ。そんな彼女の髪を撫で、ファントムは優しく言う。
「今夜はずっとお前の傍にいるから」
その言葉で、クリスティーヌは差し出されたカップに入った鎮静剤入りの薬を大人しく飲んだ。
もう、大丈夫。悲しい夢を見ることはないだろう。
「マスター…もう一度お顔にキスさせて」
横たえられたクリスティーヌが、微笑みながらせがむ。
そうして、寝ている自分の唇近くまで顔を近づけてくれる愛しい男の爛れた頬に口付ける。
あなたこそ、私のもの…。
クリスティーヌはファントムの首に回した腕をなかなか解かなかった。それが命がけで気持ちを伝えた事で得た戦利品だとでも言うように。
彼女は、確かに彼のもの。
そうしてファントムもまた同様に、クリスティーヌ・ダーエの虜なのだ。
永遠に。
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