- 250 :マスカレード :2005/10/13(木) 00:41:25
ID:EQTuL90t
- 真夜中、ふいにクリスティーヌは眼を覚ます。
蝋燭が灯っているだけの闇の中、隣に眠る筈の人がいない。
ぎくりとして辺りを見渡すと、ガウン姿のファントムがベッドサイドの椅子に座り、
濡れた髪をタオルで拭いていた。
湯を使っていたのだろう。彼は起きてしまった彼女を認めて、微笑みかける。
「すまない、クリスティーヌ。起こしてしまったね」
一人でなかったと安堵すると同時に、みるみるクリスティーヌの顔が不機嫌になる。
「その顔はなんだ?」
「…だって、もし私が起きて一人だったらどうすればよかったの?…例えば、傷が痛むとか…」
「それはもう大丈夫だったろう?先ほど嫌という程確かめた筈だが?」
「きゃっ…」
くっと笑い、ファントムはクリスティーヌの右乳房の膨らみから斜めについた傷跡をすっと撫でる。
それはもうすっかり塞がり、ピンク色の肉の盛り上がりになっていた。約2カ月間の治療で、短刀でつけた傷は完治していた。
今、クリスティーヌの白い肌には、ファントムが2時間程前につけたキスマークの方が目立つ位だった。
ふいに撫でられてびくんと身体を反らし、クリスティーヌは返事をせずにシーツを頭から被り、ベッドに潜ってしまう。
「クリスティーヌ、子供みたいだぞ」
実際、傷が順調に癒えていくのと比例して、クリスティーヌの神経は不安定になって来ていた。特に今夜のように目覚めて傍らに
ファントムがいない時、あれこれ理由をつけて彼を責めるのであった。
まだ肌を合わせられない時、会話でもなく、明確な歌でもなく声を絡ませあった夜が続いた。楽譜も詞もなく、ただ魂が導くままに
二人の声は一つになり、地下に響き渡る。
そんな夜を過ごすうちに、気付かぬ内にクリスティーヌの心は、「声」と出会った頃に戻っていた。外の世界に怯える子供に。
ため息をついて、ファントムは机の引出しから封筒を取り出す。
カサリと紙を取り出すと、まるでそれが不吉な音であるかのようにクリスティーヌが恐る恐るシーツから顔を出す。
「仮面舞踏会…か」
「…」
まだ…という言葉を彼女は飲み込む。確かにもう胸には何の痛みも感じない。自分でも完全に治っているというのはわかっている。
いつまでもこのままじゃいられない事も。
でも、怖い。
どうやって歌っていたか、踊っていたか、思い出せない。今は、まだ。
「クリスティーヌ、おいで。いいものを見せよう」
「いや…」
「そのままでいいから、来なさい」
そう言って、ファントムはさっさと部屋を出て行く素振りをする。
クリスティーヌはすっかりすねてしまっていたが、それでも部屋に一人残されるよりはましとばかりに
しぶしぶと起き出した。裸のまま頭からシーツをすっぽり被り、裸足でペタペタとファントムの後ろをついて来る。
これではどちらがオペラ・ゴーストかわからないな、夜の廊下を歩きながらファントムは苦笑した。
- 居間へ行き、仕切りのカーテンを取り払うと、そこには淡いピンク色のドレスが出来上がっていた。
「うわぁ、すごいわ、マスター…なんて素敵なドレス!」
それを見た瞬間、幽霊がクリスティーヌの声で叫ぶ。
厳しくて、華やかな世界。ファントムの仕立てたドレスは、それを思い出させた。暫し見蕩れて思う。そうだ。あの世界が嫌いだった訳ではない。
「気に入ったようだね?」
笑いを含んだ声に、自分の態度が些か現金過ぎた事に気付く。同時にシーツを被っている姿が恥ずかしくなり、ますます顔を隠して小さくなってしまう。
「明日これを着てマスカレードに出なさい。2ヶ月ぶりの登場だ。あの者達に、お前の存在を思い出させてやらなくては」
そう言ってファントムは、縮こまっているクリスティーヌを抱き上げる。
頭からシーツを取り払うと、細い肩まで滑り落ち、やや赤みが差した可愛らしい顔が現れる。露になった形のよい乳房を、そこに浮かぶ傷跡すら美しいと彼は思った。
「小さな幽霊さん、最高の装いをするんだよ」
その言葉にクリスティーヌは抱き上げられたまま、ファントムの首に腕を回す。
片方の手で、まだ生乾きの金色の髪に指をからませ、仮面をつけていない顔に自分の頬を擦り付けて、口付けを強請る。お互いの舌を強く吸い上げ、二人は抱き合ったまま、床に倒れ込む。
一糸纏わぬ姿で床に横たわるクリスティーヌを見て、ファントムが囁く。
「もっとも…どんなに装っても、この姿には叶わないだろうがね」
「…ん…あんっ…マスター…ああっ…」
ファントムの舌と指が肌に触れる度に、クリスティーヌは声を上げた。いつもはどんなに感じていても、羞恥に声は抑え気味になるクリスティーヌだったが、今夜はまるで奏でれば鳴る楽器のように声を上げ続けた。
ファントムはそれに、快楽とは別の響きも感じ取った。
寂しい、寂しい、寂しい。
そう言い出すのを堪える為に、クリスティーヌは嬌声を上げているのだ。
ファントムはそんな彼女の気持ちが、痛い程わかった。彼の気持ちもまた同じだったから。
縋りつくようにお互いがお互いを求め、最後の夜は更けていった。
- パリの夜空に花火が打ちあがる。オペラ座の門は開かれ、フロアでは思い思いの衣装を身に纏った人々が踊り明かす。皆、顔の半分、もしくは全てを覆っている。笑いさざめく人たちの中、特に支配人たちと歌姫のカルロッタはそれぞれの理由で上機嫌だった。
アルコールと婦人たちの白粉と香水の匂と鳴り止まぬ音楽。会場は一歩踏み入れただけで人々を陶酔の渦へと巻き込んでいく。
興奮が最高潮に達した時に、一団の中に一組の男女が現れた。
赤い衣装と骸骨の仮面をつけた男と、羽根で出来た仮面で瞳を隠し、ピンク色のドレスに身を包んだほっそりとした少女。
フロアにいた人々は、息を飲んだ。
「マスター…」
音楽は続いていたが、踊りを止めて二人を見つめる視線の多さに気圧されてクリスティーヌは助けを求めるようにファントムを見る。
「そんな顔をするな。クリスティーヌ。こんなもの、舞台にプリマドンナとして立つのと比べれば何と言うこともない」
言葉は厳しかったが、彼女に向けられた彼の視線は優しかった。手を引かれてフロアの中央へ進み出て、音楽に合わせて一歩を踏み出した。
「クリスティーヌ・ダーエよ!戻って来たんだわ」
「じゃあ、あのお相手は?」
「あれが…」
ひそひそと囁き交わす声が聞こえる。
クリスティーヌは足を縺れさせないように踊った。景色がくるくると変わるので、もう周りを構ってはいられなかった。ファントムと目が合って、やっとわかる。今は、この人だけを見ていればいいのだと。
一団が道をあけ、輪になっている中心で、二人は曲の最後まで踊り続けた。
演奏が途切れると同時に、クリスティーヌはマダム・ジリーの元へと導かれる。
「クリスティーヌ、お帰りなさい」
「マダム・ジリー」
久し振りに見る顔に、懐かしさに胸が締め付けられる。
「クリスティーヌ、会いたかった!」
駆け寄って来た親友が、クリスティーヌに抱きつく。2カ月前の出来事をラウルから聞いていたメグ・ジリーは自分の不用意な一言があんな事態を招いたと自らを責め続けていた。
「メグ、メグ、泣かないで」
「ごめんなさい、クリスティーヌ…」
「謝ることなんてちっともないのよ。私こそ、心配かけてごめんなさい」
そうだ。自分は確かに、この世界でも生きていた。
泣いてしまったメグの肩を抱きながら、クリスティーヌは思った。
再会を喜ぶ3人の女を見て、ふっと笑うような表情を見せてから、ファントムは言う。
「ご婦人に心からの挨拶をして来よう」
「え?」
- 彼はクリスティーヌ達を残し、意外にもカルロッタの傍へと進んで行く。
それまですっかりこの場の主役となってしまったファントムとクリスティーヌを憎らしげに見ていたカルロッタは、赤い死神が予期せぬことに自分に向かって来るのに気付いた。
彼女の勝気そうな眼に、動揺の色が走る。
「マダム、お相手を」
とうとう眼の前に現れた死神は礼儀正しく、優雅に彼女にダンスを申し込んだ。
支配人達の手紙で、名指しで自分を侮辱した相手。
歌姫としての自分の立場を危うくする憎らしい小娘の師であり、恋人でもあるという得体の知れない怪人。
「だ、誰があんたなんかと…」
「周りがみな注目していますよ。あなたがこの私をどう扱うか」
ファントムの言葉どおり、注目は再びカルロッタに集まり、恐怖とも期待ともつかない視線が集まっていた。
カルロッタは剣を抜こうとするピアンジを押しとどめる。
このオペラ座のプリマドンナはこの私なのよ。
たかが赤い死神に踊りを申し込まれたからと言って、そこらの小娘みたいにへたりこむ訳にはいかない。
踊ってみせる。
背の高い華やかなカルロッタと、ファントムの踊りに観衆はほうとため息をついた。
「大した舞台度胸だな…敬意を表すよ」
「ふ、ふん」
カルロッタは、その声に皮肉ではない賞賛を感じ取った。
彼女は怪人に一歩もひけをとらずに、堂々と踊ってみせたのだ。
私は、あんなに自信に満ちた踊りは出来なかった…。
クリスティーヌは仮面をつけた給仕からグラスを受け取り、シャンパンをぐいと飲み干す。
カルロッタと一曲踊り終えたファントムは、今度はマダムへと白羽の矢を立てる。
「マダム?」
「あら」
日本髪に結い上げたマダム・ジリーは、気取ってファントムの手を取る。
それがきっかけのように、停まっていた人々の踊りの輪がぐるぐると回り出す。
人波の間から見え隠れする二人の姿を追いかけると、踊りながらマダムとファントムは何事かを話しているように唇が動いていた。
何をお話ししているの?
クリスティーヌはまたグラスをとる。
「ク、クリスティーヌ、私…」
すっかり泣き止んだメグが、クリスティーヌのドレスを掴んで来る。
ファントムの誘いが順番から言っても、メグに来ても不思議はない。
「メグ、もし怖かったら無理して踊らなくてもいいのよ?」
「…違うの!踊ってもいい?」
あまりにも意外で、少しの間返事を出来ない。クリスティーヌは、キラキラと期待に輝く表情の親友に面食らいながらもやっと声を絞り出す。
「…ええ、勿論よ」
「やった〜」
言うなり輪に駆けて行き、曲の切れ目にファントムに自らぶつかっていく。ファントムは少し驚いたような表情を見せるけれど、すぐに二人は一対になって踊り出した。
仮面をつけた女性たちは、異形の怪人に好奇心が持ち上がるのが抑えきれなかった。
皆踊りながらも、赤い死神と、いきいきと踊るメグに羨望ともいえる眼差しを送った。
マスカレード…
メグ…何だかとても可愛い…。
クリスティーヌは3杯目のシャンパンをあおった。
- 「クリスティーヌ」
聞き覚えのある声に振り向くと、一人の男が立って、腕を差し出していた。仮面をつけていても、見間違える筈がない。その姿を認めるなり、慣れないシャンパンが急にまわってきたようだった。
あの日、別れたままのラウル。ずっと気になっていた。
踊る前に、話をしなければならない…。
クリスティーヌはラウルの貴族らしい長く美しい指を見つめる。
踊りながら、話せばいいのかしら?
彼女が手を伸ばそうとした時、ファントムがクリスティーヌを風のように攫う。
「マスター…」
何かを言いかけたクリスティーヌの唇を、唇で塞ぐ。
「…ん…」
「シャンパンの匂いがするぞ。あまり飲み過ぎるな」
「…」
そういうファントムは、マスカレードの雰囲気だけで酔ったような眼をしている。踊りながらも、素直に頷く気になれなくて横を向いてしまう。
「クリスティーヌ、今夜はここに残れ。マダムからの伝言だ」
「え…あ…」
直後のステップでクリスティーヌは、ファントムから手を離される。思わずもう一度伸ばした手は空を掴んだ。
一人ファントムは広間の中央まで進んで行った。一度マントをふるうと、彼の身体は炎に包まれる。
人々の驚きの声がフロアに響き渡った。
「待て!」
「ラウル!」
クリスティーヌが悲鳴のような声を上げる。
次の瞬間、ファントムもそれを追ったラウルも一瞬にしてその場から姿を消していた。
事情を知らない招待客は最高の余興だと感じ入ったし、事情を薄々知っているオペラ座の関係者たちすら、一体これが現実のものか、夢なのかわからなかった。
「ああ…」
眩暈を覚えふらつくクリスティーヌを、マダム・ジリーが支えた。
「行きましょう、クリスティーヌ。私が案内するわ」
- ファントムを追って穴に飛び込んだラウルの眼に、長くて暗い地下道を一人歩いて行く赤い後ろ姿が映る。
「…待てっ」
そのまま行ってしまいそうに見えたが、死神は立ち止った。
「…懲りない奴だな、お前も。いくら求めてもお前が聞きたい言葉は一つも出てこないぞ」
クリスティーヌを地上へと帰し、ラウルのもとへ預けるという約束を違えた事を弁解したり、謝ったりするつもりは彼には毛頭なかった。
マダム・ジリーを除いて、ファントムとオペラ座の人間たちとの間には、命令と脅迫しかなかったのだから。今までずっと。
「すまなかった」
ラウルの言葉にファントムはゆっくりと振り返る。すまなかった、という言葉を自分の中で扱いかねているというように。
「侮辱してしまったことを、一言謝りたかった。君を侮辱し、ロッテを…クリスティーヌを追い詰めたのは、僕だ。許して欲しい」
「どういう風のふきまわしだ?」
この若者はクリスティーヌに恋焦がれていた筈だ。そんな言葉を聞いても、にわかに信じられる筈がない。混乱した感情は、ファントムを
ひどく不快な気分に陥らせた。剣の柄に手をかけ、いつでも抜ける体勢になる。気に入らない事を一言でも漏らせば、斬りかかるつもりで。
「信じて待つと言ったのに、一度約束を破り、銃を持って地下へ行ったんだ。必要とあらば、君を撃つつもりで。そこで君たちの歌を聴いたよ。
それですっかり理解した。もしこのまま君を撃ち、クリスティーヌを浚っても、今度は僕が彼女の手にかかるか、彼女も君を追っていくだろう。
どちらにしても、生きた彼女を胸に抱くことはない。告白するよ、あの夜は騎士じゃなく、嫉妬に狂ったただの男だったと」
自分とこの者達の間には、命令と脅迫があるだけの筈だ。
ファントムはもう一度心の中で呟く。
なのに、どうしてこの若者は、自分にこんな事を語りかけるのだろう。
柄にかかった手に、気付かぬわけでもないだろうに。
髑髏の仮面の奥に光るファントムの眼を、ラウルは真っ直ぐに見る。それからふっと笑う。
「それでも少しだけ希望を持っていたんだ。彼女が地下からここへ戻って来た時、守ってあげられるのは僕だと。でも、君は出て来たんだね。あの暗い地下から。恋人の為にマスカレードで踊る事が出来る死神にこれ以上誰が何を言える?」
そこでやっと、ファントムの手が柄から離れる。
「ロッテには、クリスティーヌには内緒にしておいてくれるね?」
彼は、あれ程憎んでいた筈の若者の顔をじっと見つめる。ラウルは真っ直ぐに、ひたむきな眼をしてファントムを見ていた。
「その位なら、約束してやってもいいだろう…ラウル・ド・シャニュイ」
ファントムは心持ち眼を伏せて、次の意を決したように唇を動かす。
ラウルには、すまない、と動いたように見えた。
- 「マスター!マスター…!」
マダム・ジリーに先導され地下を駆ける間、クリスティーヌの胸には不吉な思いばかりが過ぎる。
ラウルは剣を持っていたような気がする。私が使ったあの玩具のようなのではなく、本物の剣を。そしてマスターも。
治ったはずの胸が痛くて、走りながらクリスティーヌは泣いていた。
けれど、クリスティーヌの不安とは裏腹に、地下道で二人は無傷のまま向かい合って立っていた。
「う…」
その姿を認めて、安堵の余りクリスティーヌは双眸からぽろぽろと大粒の涙を零し、ファントムに縋り付く。
「ばかだね、クリスティーヌ。私がこんな若造に負けると思うかい?」
「…ううっ…マスター、マスター、マスター」
ファントムはそんなクリスティーヌの頭を安心させるように優しく撫でた。
「クリスティーヌ」
「ラウル」
ファントムの胸から顔を上げ、先ほど話す機会を逸した青年を見つめる。
「君の恋人は口が悪いね」
そう言ってラウルは笑った。その笑顔は、恋に狂った男のものではなく、クリスティーヌと出会った頃の真っ直ぐな優しい少年のものだった。ラウルも今、彼女への思いをあの夏の美しい思い出とともに、完結させようとしていた。
「ママ、今日は帰らせてあげましょうよ」
その言葉を聞き、遅れて二人に追いついたメグが、息を整えながら言う。
「メグ…」
「だって、クリスティーヌ、まだ胸が痛いみたいなんだもの。無理させちゃダメよ」
「…そうね。まあ、いいわ。今夜はお祭りだものね」
本当に?という表情をするクリスティーヌに、マダム・ジリーは唇の端をちょっと吊り上げるだけの笑みを見せる。
「クリスティーヌ」
最後に確かめるようにマダムが言う。
「歌えますね?」
「はい、マダム・ジリー」
クリスティーヌは、輝くような笑顔で答えた。
ファントムから差し出された手を握る。振り返ってもう一度、3人に手を振る。仮面をとうにとった彼らは素顔のまま、二人を見て微笑み、手を振り返してくれた。
舟に揺られながら耳を澄ますと、遠くにまだマスカレードの音楽がきこえる。
夢みたいな夜だったわね?マスター…
小さく呟いたけれど、聞こえなかったのか舟を漕ぐファントムからの返事はない。
クリスティーヌは少し身体を後ろにずらし、櫂を握るファントムの手に触れる。
この手が、他の女の人に触れた
夢ではない証拠に、マスカレードはクリスティーヌの胸に淡い痛みを残した。
- クリスティーヌは、猿のオルゴールの音で眼を覚ました。
マスカレードの時と同じ仮面と衣装をつけたファントムが、彼女を見下ろしている。
同時に、自分もまだドレス姿のままでいる事に気付く。
それは先ほどの出来事が夢ではない証拠だった。
そう認識すると、少しの間うっとりとしたように潤んだ瞳がぎゅっと細められ、柳眉が八の字となる。
「いないと怒るだろう?いても怒るのか?」
眼を覚ました時に傍にいてやりたいと、着替えもせずずっと彼女の寝顔を見守っていたファントムは予想外の反応に驚く。
「怒ってなんていません。マスターは…魔法使いみたいに、何もかも上手くなさったわ…」
「クリスティーヌ…」
クリスティーヌは起き上がり、ファントムの仮面に手をかける。ファントムは抵抗を見せなかった。
仮面を無理にはがしたりはしない。
けれど、ファントムが彼女のコルセットに手をかけるのと同じ位の権利は、自分にだってあるだろうと考えていた。
つまり、それは世界でただ一人だけという事なのだけれど。
そっと外した髑髏の仮面をサイドテーブルに置いて、二人は深い口付けを交わす。
それが終わった後、クリスティーヌは、不快感を隠そうともせずに眉根を寄せた。
「マスター、あのね。私のことをお酒臭いって言ったけれど、マスターは少し香水くさいわ」
「そうかい?…それはすまなかったね」
そこでやっと、クリスティーヌが自分と踊った女たちにほのかな嫉妬を抱いているのだと気づく。
誰かと約束をしたり、嫉妬をされたり。
何て夜だ。
そうファントムは思った。
「マスター…」
クリスティーヌはファントムをベッドに導き、座らせる。
はしたないって呆れられるかしら…
そんな不安が頭を過ぎるが、もう自分を止められなかった。
「今は私だけを見て…」
ファントムの膝に跨り、衣装の襟に手をかける。
クリスティーヌがボタンを一つ外す間に、ファントムはドレスのファスナーを下げ、さらにコルセットのホックも次々と外していく。
- このままでは、一緒に脱がせあっている筈なのに、どんどん自分だけが裸になってしまう。