386 :ファントム×マダム ポワント :2005/10/25(火) 22:28:57 ID:GS1rSc59

暗い廊下を、地下へと続く階段を、足音を立てずに歩き回るのにトゥシューズはおあつらえむきの履物だった。

誰にも見つからないように私は地下へと潜っていく。

闇の中を音もなく降りて行く内に、自分が何か別の…少し危険で妖しい生き物になったような気持ちになる。

けれど息を殺してそっといつもの場所を覗き込もうとする前に、少年はいつも私の名を先に呼んだ。

そこで私はまた、ただの少女へと戻ってしまう。

それまでの陶然とした気分が惜しくて、心の中で彼に八つ当たりする。

――どうして気付いてしまうのよ、エリック。私はもう少し、あの生き物でいたかったのに。

今思えば、無理もない事だった。

暗い地下で、彼の身に起こる変化は私の訪れ位しかなかったのだから。

檻に入れられ見世物にされて来た少年。

閉じ込めていた男を殺めた彼を、私は殆ど何も考えずに夢中で手を引いて、このオペラ座の地下へと匿った。

後先の事など考えてはいない。

ただ自分が運んで来る食料や薬で、飢え傷ついていた彼が回復するのを待っていた。

「そこに座って、エリック」

唯一の寝具である粗末な毛布に彼を座らせると、清潔なタオルで傷だらけの背中を拭き、塗り薬をつける。

「これでいいわ。私ね、衣装部屋にあなたにぴったりな洋服を見つけたの。今日は無理だったけど、きっと近いうちに持って来てあげられると思う。これからますます冷えるようになるから、温かい毛布も何枚か用意するから」

洋服とか、毛布とか、そういう目先の事を口にする事によって、私はエリックが犯した罪と、これから待ち受けるであろうもっと大きな問題から眼を逸らしていた。

麻袋を被ったままの彼は、それには返事をしない。

あまり喋らないので、連れて来た時は、ひょっとして知能に問題があるのかとすら疑った。

けれど、私を呼ぶときの声色や、時々質問に答える調子から、私はエリックに人並み以上の知性のきらめきを感じていた。



「ねえ、血が!誰にやられたの?」

私の足元にしゃがみ込み唐突に叫ぶ少年に面喰らいながら視線を落とすと、右足のトゥシューズの爪先に確かに血が滲んでいた。

あまりにも必死な彼の様子に、思わずくすりと笑ってしまう。

「エリック、これがバレリーナの足なの。何度も爪を剥がして、マメを潰して、踊れるようになるのよ」

言い終わってから気付く。

血が流れていたら、それは誰かにされたこと。

それが彼の日常だったのだ。

「バレリーナ?」

「そう。もう少ししたら、あなたもオペラ座を覗いてみればいいわ。私、音楽に合わせて踊るのよ」

調子にのって傷が開いているのも忘れて爪先立ちになり、その場でくるりと回転をして見せる。

「…っ…」

途端に鋭い痛みが足先から全身を駆け巡り、しゃがみ込んでしまう。

爪先を庇い、痛みが去ってくれるのをじっと待つ。

それが何とか収まった時、私はエリックがその場に棒立ちになっているのに気付いた。

「エリック?」

「…君、急に背が高くなって…すらりと伸びて…どんな魔法を使ったのかと思った」

その声は、信じられないという様に掠れていた。

私は僅かに残る痛みも忘れて笑い出してしまう。

「魔法なんかじゃないわ。爪先で立っただけ。ほら、こんな風に」

今度は傷に響かせないように、ゆっくりとポワントをしてみせる。

エリックは麻袋から開いた二つの穴から、魅入られたように私を見ていた。

「…痛む?」

「…もう慣れているから…エリック?」

彼はしゃがみ込み、私のふくらはぎに触れた。

それからゆっくりと手の平が下に降りて行き、足の甲に触れる。

なに?

意味がわからずに、私は彼のされるがままになる。

麻袋をずらし、現れた唇で彼は私の足の甲に労わるようにキスをした。

「エリック、なにを…あっ…」

素早い動作で私の片足を抱えて、血の滲んだ方のシューズの紐に手をかける。

バランスを崩し、エリックの肩に縋る体勢になってしまう。

太ももの内側に触れる彼の手の平の感触に、全身がぞくりと粟立った。



「爪を見せて、お願い」

その瞬間、彼を突き飛ばしていた。

立ち上がって、座り込んだままのエリックに向かって、二人の間の厳正なルールを言い渡すように告げる。

「エリック、よく聞いて。こんな風に私に触れては駄目。触れたらもう来ないわよ?」

薄暗い地下での出来事。

麻袋を被ったままの彼の表情はわからない。

けれど、その言葉は確実に彼の胸へと刻まれたらしい。

頭のいい子は、それから一度も私に触れようとしなかった。

地下で私の訪れを耳を済ませてじっと待っていた少年は、麻袋の変わりに仮面を手に入れ、心の城壁を張り巡らし、地下で彼だけの王国を作り上げていく。

私はそれをなす術もなく、ただ見守っていた。

想像以上の頭脳と才能の持ち主だったエリックが地下だけではなく、このオペラ座全体を支配するようになるのにもそう時間を要さなかった。

どこからともなく届く手紙で、彼は私に対し当然の権利のように色々な命令を下す。

それに逆らったり、抵抗したりすることは一度もなかった。

私は、彼が自分に新しい役割を与えてくれたことに、心のどこかでほっとしていた。

その方が、どれだけ楽かわからない。

どちらにしてもあの瞬間に、私達は睦みあう機会を失っていたのだから。


オペラ座が彼の狂気によって炎上した夜。

クリスティーヌとシャニュイ子爵の無事を人づてに確認した後、私は暗闇に隠れてある場所に一人立っていた。

ある賭けをしていたのだ。

そして彼は現れた。

私達以外誰も知らない、鉄格子の嵌ったオペラ座の抜け穴から。

駆けより、用意しておいた黒いマントを被せる。

「…何もおっしゃらずに、こちらへ…」

「ジリー…?…」

その声は紛れもない彼の声だった。

逡巡している暇はない。

強引に手を掴み、走り出す。

あの夜と同じように、また闇が私達の味方をしてくれた。



以前から私は彼の言い付けで、街外れに小さな屋敷を一軒管理していた。

これも彼に支払われていた月二万フランの使い途の一つだった。

シャニュイ子爵が何か特別な計らいをしたらしく、警察やオペラ座の関係者たちはエリック追捕の手よりも、炎上した劇場の再建と、事件で負傷した人たちの保護に力を注いでいるようだった。

おかげで私も3日に一度は食料や日常品を届けに、彼の屋敷に通うことが出来る。

エリックは何も言わなかったし、私も聞かなかった。

彼を責めたり捕まえたりするのは、もしそれが必要なことであれば誰か他の人間がするだろう。

私はそれらから彼を守るだけ。

見世物小屋からエリックを連れ出した時に、私の役目はそう決まっていたのだ。

それと同時に私には、彼が本当に欲しいものを差し出すことは出来ない事も知っていた。


今日は朝から空模様が怪しかった。

早めに差し入れを済まそうと思っていたのだけれど、予想外に他の用事に手間どり、屋敷に向かう途中から降りだした雨にずぶ濡れになってしまう。

鍵を開き、逃げ込むように屋敷の中へと入る。

直後鳴り響いた大きな雷鳴に、思わず大きな悲鳴を上げてしまった。

明かりのついていない玄関ホールで耳を塞ぎしゃがみ込んだまま、続けざまに鳴る雷が止んでくれるのを待つ。

「マダム・ジリーは雷がお嫌いか」

くっくっと、ホールにいかにもおかしそうな様子の男の笑い声が響く。

顔を上げると、仮面をつけたエリックがシャツに黒いスラックスというラフな出で立ちで、玄関ホールから2階へと続く階段の上からこちらを見下ろしていた。

何だか悔しいような気持ちになり、急いで立ち上がったけれど、ポタポタと全身から水滴が滴ってしまい、全く格好がつかなかった。

「ああ、すっかり濡れてしまっているね。湯を使うといい」

声からは、流石にからかいの調子は消えていた。

私は窓から外の様子を伺う。雨はますます酷くなり、止む気配を見せない。

「帰らなくては…」

誰に言うともなく、呟いてしまう。

でも、どうやって…。

私の途方にくれた顔を見ながら、エリックはもう一度繰り返した。

「風邪をひきたいのかい?マダム・ジリー。湯を使いなさい」

今度の声は、命令の声だった。

低く冷たい「主人」の声。

寒気がした。

それが雨のせいか、彼の声のせいなのかはわからない。

雨を吸ったドレスが冷たく重く身体に張り付いている。

どちらにしても、私は身体の芯から冷えてしまっていた。



湯を使い身体を温める事によって、少しだけ気持ちが落ち着く。

この時期、もし私が夜戻らなければ、ようやく混乱の内にも平静を取り戻しつつあるオペラ座をまた騒がすことになるだろう。

それだけは避けなければいけなかった。

少しの間雨が止むのを待って、もし止みそうもなければ、例え土砂降りでもこの屋敷を出よう。

そう決めてから浴室を出ると、私の身に付けていたものは見当たらず、女物の部屋着が置かれていた。

それは、私が以前に用意したものだった。

彼からいつでもこの屋敷に人が…それも夫婦が住める状態にしておけと指示があったから。

その衣装を身に着けることには抵抗があったが、裸のままでいるわけにもいかない。

一つため息をつき、意を決して袖を通して浴室を出た。

誰の為の部屋着だったのか。

答えをよく知っている私は、今更ながら胸が痛んだ。


「ジリー…」

放置したままの食料を整理しようと食堂へ向かうため、真っ暗な居間に足を踏み入れると、暗闇からふいに声をかけられる。

「あ…こちらにいらしたの…明かりもおつけにならないで…」

驚いたせいで、非難するような声を出してしまう。

「…君は夕方にしか来ないからわからないだろうけれど、この屋敷は光が入りすぎる。日中は心が休まる暇もないよ。夜くらい暗闇の中にいてもいいだろう?」

そう言う彼の声は、暗闇に良く似合った。

そのある種官能的と言ってもいい声音に、返す言葉をなくす。

「ああ、そうだ。君の洋服は乾かしてある。明日の朝には着て帰られるだろう」

「…必要な事を済ませたら、すぐに帰るつもりです」

「どうやって?言っておくが、雨は今晩止まない」

彼は予言するように言い切る。

長年私達を縛り付けてきた主従関係にも似た繋がりが、彼の言葉は全て真実だという錯覚を私に引き起こす。

「…どうしておわかりになるの?とにかく、帰りますわ。どうやってでも」

それを振り払うようにして伝える。

マッチを擦る音がして、ランプに明かりが灯る。

彼は肘掛椅子に揺られ、グラスを片手にこちらを見ていた。



「そうやって髪を下ろしているところを見ると、別の名前で呼びたくなるね。マダム・ジリー」

洗面台に置いたはずのピンがなくなっていたので、私は生乾きの髪をたらしたままにしていた。

彼の声に危険な響きを感じ、身じろぎする。

と同時に、アルコールの匂いがぷんと鼻をつく。

「かなり呑んでいらっしゃるのね。もし、お話があるのなら、正気のときに伺います」

この半月程の隠匿生活で、お互いが…少なくとも私はひどく疲れていた。

気付かないうちに、声に刺が混じる。

「正気?」

ゆっくりと椅子から立ち上がった彼に、腕を掴まれる。

乱暴なものではなく、妖しく柔らかく、まるで誘うような仕草だった。

背の高い彼に視線を投げかけられ、私はそれを逸らすことが出来なかった。

「マダム・ジリー…私が正気だったことなど、ないのだよ」

「いいえ…!」

彼が言い終わらないうちに、否定の声を上げていた。

驚いたのだろう。さらに深く、探るような眼で私を見つめる。

その視線から逃れようと私は横を向いた。

確かに彼は嘘をついていない。

エリックの狂気はオペラ座を焼いた。

クリスティーヌ・ダーエがカルロッタの代役を務め、拍手喝采を浴びたあの夜からずっと、彼は狂気に犯されていた。

けれど、あなたは。

「…いつも正気でしたわ、私といる時は」

愚かなことを口にした。

愚かで、醜い、決して口に出してはいけないことを。

この言葉が、彼にとって意味のわからないものであって欲しいと願う。

「…触れるなと言ったのはあなただ」

彼の声は、絞り出しているかのように掠れていた。

堪らなくなって、私はきつく眼を閉じる。

やはり、覚えていたのだ。

この人はあの夜、恐らく初めてこの世に芸術というものがあると知ったのだろう。

誰かに傷つけられたものではなく、何かを得ようとして出来た傷跡を確かめたかったのだ。

私は、その指に恐怖を感じて、彼を突き放した。

その先にある、暗闇が怖かったから。

そうしておきながら、心の奥底で彼の狂気が禁を破り、再び自分の肌に触れる事を求めていた。

どうしようもなく愚かで醜いのは、他の誰でもない。

私なのだ。



「そうね、その通りだわ…。よしましょう、言い争いなんて」

動揺を押し隠そうと、私は腕を振り払い、彼に背を向ける。

「誤魔化さないで言ってくれ。触れるなと。それが私達の間の決まりだと」

再び彼の方へと向き直させられ、肩を強く揺さぶられる。

彼の眼に狂気はなく、懇願の色が浮かんでいた。

けれど、その眼で彼自身も知らないうちに、私を追いつめ、昔に引きずり戻そうとしているのだ。

私はこんな形でもう一度、あの辛い一幕を演じないといけない。

遠い昔。

少女だった自分の、甲高く、残酷な声が聞こえるような気がした。

――触れては駄目…触れたらもう来ないわよ?

「…もう一度、そんな事を口にするのなら死んだ方がましですわ」

抑えていた感情が私の中から放たれる。

その言葉に力の緩んだエリックの手の平から肩を抜き、深く彼の胸に潜る。

エリックはその重さに耐えられないかのように、私を抱き締めたままがっくりと身を折り、床に膝をつく。

「ジリー、ジリー…君こそ正気じゃない…」

彼は垂らしたままの私の髪に5本の指を差し入れ頭をかき抱き、耳元に強く囁く。

「触れてもいいというように聞こえるよ?」

その声は命令をする事に慣れた尊大で危険な男のものではなく、どこか呆けて頼りないあの時の少年のものだった。




明かりのないエリックの部屋で抱き合う。

闇の中だというのに、彼は迷いのない手で私の身に纏ったものを脱がせて行く。

ベッドに全裸で横たわると、輪郭を確かめるように、頬から首、胸から腰、そして数年前からもう踊ることが出来なくなった脚へと、両の手の平でなぞられる。

華奢な体型の少女達に取り囲まれて暮らしているおかげで、自身の身体に脂肪をつけるような事は極力抑えて来た。

それでも、確実に年月は私の身体から若さを抜き取っている。

エリックもそれを感じているだろう。

そう思いながらも、壊れ物を扱うような優しい愛撫に身体は少しずつ高ぶっていった。

「あっ…」

ふいに冷たい唇が胸に押し当てられ、思わず声が出てしまう。

そのまま頂きを口に含まれ、舌先でねっとりと転がされる。もう片方の乳房も彼の手の平に包まれやわやわと揉まれ、すでに硬くなった頂きを摘まれる。

「んっ…ああっ…」

快楽が羞恥を忘れさせる程に高まっていたけれど、それと同時に私はひどく怯えていた。

もう顔も名前もおぼろげにしか覚えていない、初めての男と過ごした夜よりも、今夜のほうが怖かった。

「姿が見えないのならせめて声を、もっと聞かせてくれ…」

苦しそうな声がして、怯えもまた私の中から消え去る。

私は声を頼りにエリックの頭を捜し当て、髪に指を差し入れる。

エリックは何時の間にか、仮面をとっていたらしい。

顔を撫でる感触で、そのことがわかった。

「ごめんなさい…エリック…ごめんなさい」

明かりの元で抱き合うには、私はもう女としての輝く季節を通り過ぎていた。

それが申し訳なくて、悲しくて、涙が溢れる。

「泣かないで…辛いならやめよう。私なら、いいんだ」

その涙の意味を違えて、エリックが私から身を離そうとする気配がする。

「違うの…お願い。ちゃんと、最後まで抱いて。あなたが、そう出来るのなら」

そう言い終わらないうちに、彼は私をきつく抱き締めてくる。

「愚問だよ、ジリー…正気じゃないほど、欲しい」

それまでの優しいけれど、どこか手探りのような愛撫とは違う激しさで、首筋から胸へとキスをされる。

「ああっ…いやっ…」

迷いのない動作で片足を抱えられ、思わず悲鳴のような声を上げてしまう。

それでも彼の手は止まらずに、太ももの内側を撫でたあとに、その付け根へと向かう。

私のそこはもう触られるのを待っていたかのように、熱く濡れそぼっていた。

エリックの指が触れた時に、甘く痺れるような感覚が全身を駆け巡る。

「んぅっ…エリック…」

もう充分だった。

長い間にどうしようもなく遠く離れていたあなたが、今はこんなにも近くにいる。

「きて…」

その言葉に、彼はゆっくりと上体を起こし、腰を脚の間へと割り込ませる。

私の中に入って来た彼自身の熱さと硬さで、先ほどの言葉が嘘ではないと信じることが出来た。

暗闇が肉体の輪郭を取り除いたのか。

息もつけない程の快楽の中、私はエリックと一つの生き物になったような感覚を味わい、そのまま意識を闇に溶かしていった。



朝の光の中、シーツがゆっくりとひきはがされる。

それがわかっていながら、私はぴくりとも動けなかった。

冷たい外気に肌が晒されていく。

「悪いけれど、そのまま眼を閉じていてくれないか。仮面をしていないからね」

彼の声は優しかったけれど、まだ私を拘束する力を持っているようだった。

暗闇の中での逢瀬と決めていた筈だったのに、明るい光の中、私は一糸纏わぬ姿で彼の前に横たわっていた。

「…あなたは美しいな、ジリー」

そんな筈はない。

私は、目を閉じたまま静かに首を振った。

「本当だよ。…地上の女は大概美しいものだと思っていたが、中でもあなたは特別に美しい」

彼は私が驚いて眼を開けなくても済む位の刺激で、足の甲と変形した爪に触れる。

微かな吐息を感じた次の瞬間、唇がそこに押し当てられるのを感じた。

「どうしてここを離れられないのか、私自身にもわからなかった。全てを捧げた音楽も愛も、あの夜に息絶えていたというのに…。今、やっとわかったよ。君の爪先を確かめなければ、どこへもいけなかった。何も決められなかった。生きることも、死ぬことすら…」

まるで憑き物が落ちたかのような、穏やかで優しい、そして寂しい声だった。

そしてもう一度、爪先に唇の感触を覚える。

「…生きて…償って」

私は眼を閉じたまま、そう告げる。

返事はなく、沈黙が張り巡らされる。

たまらずに眼を開け、上体を起こした。

彼の姿を見ようとしたのに、素早く身をかわされ、後ろから抱きすくめられる。

裸の背中に当たる感触で、彼がもう衣服を身に着けていることに気付く。

手の平で両目を覆われてしまい、私はまだ闇の中だ。

「…お願い…連れて行って、エリック」

本気でそう願った。

「ありがとう…」

次の瞬間、息が出来ない位に強く抱き締められ、今ではもう誰も覚えてもいない少女時代の名を呼ばれた。




腕の戒めを解かれて、振り向くともう彼は部屋を出ようとしていた。

あの夜に、私が被せた黒いマントを身に付けている。

「エリック?待って…すぐに仕度をするから、すぐに…」

呼び止めても、彼の歩みは止まらない。

裸のままシーツを巻きつけて、ベッドから降り私も彼の後を追う。

その間は、ごくごく僅かなものだったのに。

開け放たれた廊下には、誰もいなかった。

「…エリック…」

まだ屋敷を出てはいない。

そんな筈はない。

彼は身を隠すのがとても上手いから。

でも、今ならまだ、彼を見つける事が出来る。

屋敷中を駆け、扉をあけ、カーテンを開いて行く。

その度に、昨夜の雨が嘘だったかのように、眩しい光が降り注ぐ。

彼の言ったことは本当だった。

日中のこの家は、あまりに光に満ちている。

これでは誰も隠れることは出来ない。

本当に、誰も。

すっかりこの屋敷から闇を追い出してしまってから、やっと私はそう認めた。

事実を受け止めるのに、それだけの時間がかかったのだ。

ここにはもう、エリックはいない。

建物中の光が集められているかのようなふきぬけのホールに、私は子供のようにへたり込む。

変形した爪先にまだ、彼の唇の感触が残っていた。

陽光が降り注ぐ中、シーツを一枚巻きつけたままの姿で、私は一人声を殺して泣き続けた。




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