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天使の歌(3)
:2005/11/04(金) 20:02:20 ID:aT2TkAYs
…次はあの身の程知らずの若造の首を締め上げてやるのだ。
縄では飽きたらぬ、我が手、我が指で引き寄せ、芯の骨が砕ける音を聞いてやる。
さぞかし心地良い響きだろう。
復讐の欲望に取り憑かれ、敵の居座るボックス席を睨みすえた彼の目に映ったのはすでに空っぽの豪華な椅子だけだった。
ファントムは仮面の下の暗い熱を湛えた目を大きく開き、慌てて下界を見下ろした。
観客の悲鳴の渦の中で舞台上でのブケーの死に様に右往左往する踊り子や裏方たちの後ろに、彼はクリスティーヌの豊かに輝き流れる髪を見た。
彼女はあの憎らしい男と手を取り合い、一心不乱に屋上への階段をのぼっていく。
嫉妬に萌えいや燃え狂いながら漆黒の仮面の男は凄まじい勢いで梯子を駆け上がった。
*
「待ってくれ、どうしたんだクリスティーヌ!」
ファントムの脳内では百度も命を失った男ラウルがようやく口を開いた時、クリスティーヌは屋内に通じる扉を必死の面もちで押さえつけていた。
閉じたそれを不安そうに一瞥し、彼女は幼馴染みの青年を振り返った。
「まだこれでは終わらない。彼は次は私たちを狙うわ」
「まさか」
「いいえ!」
クリスティーヌはむきだしの髪を振り、ラウルにしがみつく。
「彼から逃れることはできないのよ」
そういうわけでディープインパクト並みの凄まじい追い込みで屋上に辿り着いたファントムの目に飛び込んできたのは憎っくき青二才と抱き合う愛しの歌姫の姿であった。
たちまち心中高く燃え上がる紅蓮の炎。
…だがファントムは直情径行に飛び出しはしなかった。
ここは彼のホームグラウンド、石材の窪み、そして住んでいる鳩の血縁関係に至るまであまねく知り尽くしているオペラ座の屋上である。
わざわざクリスティーヌの疑いの視線にこの身をさらす必要などまるでない。
しゃくに障る幼馴染みなど指先一つで排除できる。
お茶の子さいさいといってもいい。
なぜなら彼はファントム、オペラ座の闇の帝王。
あのマダム・ジリーにジーニアスと呼ばれる男。
*
ファントムはじっと、抱き合う恋人たちの立ち位置を目測した。
彼の隠れている屋上中央にしては不自然に巨大な彫刻からおよそ九歩。扉から直線距離にして五メートル。
仮面の下で口元が抑えきれない暗い喜びに歪む。
あの場所なら簡単だ。
ファントムは身を寄せている彫刻の足の部分に掌を滑らせた。
どこをどう弄ったのか、裏側が厚み二粍ほどの板状となってスライドし、内部にいくつも並んだボタンが現れた。ボタンのひとつひとつに番号がついているようだがあたりは暗くてよく見えない。
だがファントムは配置を熟知しているらしく手元も見ずにそのうちの一つに指をかけた。
実はこのボタンは、押すと扉周辺の屋上を構成している石材のうち該当部分が音をたてて外れ、上に載っている物(者)を全ての床を突き破る勢いで奈落の底まで落とすしくみになっている(天才のやる事なのでなぜこんなしくみが必要なのか深く考えてはいけない)。
「ポチっとな!」
ファントムは低く呟いた。
だが、憎しみをこめ全力でボタンを押す直前、辛くも思いとどまった。
いけない。
クリスティーヌがまだ青二才と抱き合っている。
今奴を落とせばもろともに彼女も奈落の底に真っ逆様だ。
ファントムは震える指を外し、小さく首を振って気を紛らわせた。
…だめだ、このしかけは使えない。
あまりの失望に胸の底がうずく。
なんとか気を取り直して視線をあげると彼の最愛の歌姫は間抜けな若者とうっとりと見つめ合い、なにやら美しい愛の歌らしきものを歌い始めていた。
(なんだあの歌は!)
あんなもの作曲した記憶はないはずなのに。
自分の知らない歌を彼女が歌っている、しかも練習したはずもないのにあの若造が見事な歌声でデュエットしている。
なんだあの異様な巧さは。
どこまでも憎らしい男だ。彼女と二重唱できるのは私だけなのに。
しかも彼は認めざるを得なかった。
その歌は甘く優しく麗しい。
賞賛と嫉妬に苛まれ、ファントムは再び口を歪めた。
ああクリスティーヌ、君は私からどれほど遠ざかれば気が済むというのだ…!
ラウルが笑い声をたてた。
クリスティーヌのほっそりとひきしまった胴を抱き上げ、彼女の澄んだ声に合わせてくるくると踊り始めた。
ああ憎い。
若造が憎い世間が憎い憎いったら憎い。
地下水路を使ってせっせと通っていた場末の行きつけの売り場から、買うのを忘れていた時に限って超高額当選の宝くじ券が出ていた事を知った三年前のあの日よりも憎い。
ファントムは罪もない彫刻を音をたてず殴りつけた。
その衝撃でスライドしていた部分が閉まり、別の場所がぱかりと開いた。
うつろにそれを見たファントムの目が光る。
この操作盤は別のしかけのためのもの。
今まさにあの恋に舞い上がった洟垂れ小僧がクリスティーヌを抱いてくるくる回っているあの空間に有効なものだったではないか。
ファントムはパネルにとびついた。
ボタンとラウルの位置を見比べ、にんまりする。
実はこれは空間に蜘蛛の巣のように電磁場を形成し、それに干渉する物体の存在を感知した途端美しい響きとともに足元の石材を抜いて干渉者は奈落の底(略)という、これもまた設計者が何を考えているのか底なしに謎なしかけである。
エロパロ板二次作品内の主人公とはいえテルミンに先駆けることおよそ半世紀にしてこんなものを作りあげているあたりが天才の仕業としかいいようがない。紙一重だが。
「一網打尽だっ」
ファントムは呻き、今まさにボタンを圧さんとして己の呻きの意味に気付き愕然とした。
ラウルはさっきから彼の歌姫にくっついて離れず、しかけを発動させれば今回も必ずクリスティーヌにその被害はもたらされることをファントムはついうっかり忘れるところだった。
彼の天使をこんな事で失うわけにはいかない。
いかないったらいかない。
おおクリスティーヌ、暖かく愛しい彼の生き甲斐。
「だめか…!」
ファントムは拳を握りしめ、罪もないパネルにたたきつけた。
降り積もった薄雪の上に膝から崩れ落ちる。
むなしく、わびしい。
この場ではどうしてもあのにやけた子爵(←ラウルファンの皆様、ファントム視点ゆえいちいち失礼な表現で申し訳ありません)を滅ぼすことはできぬのか。
いっそのこと一気に駆け寄り、屋上の縁から景気よく背中を蹴り飛ばしてやりたいが、とにかくクリスティーヌが巻き添えを食う可能性がある以上とうていそんな真似は彼にはできはしないのだ。
ファントムは泣いた。
涙はあとからあとから頬を伝い、ファントムの仮面の内側に筋を描いた。
……だが、泣くなど敗者のする事だ。
ファントムは決然として顔をあげた。
何もせず、ただひたすらに身を揉んで泣き続けることなどできはしない。
なぜなら彼はファントム、このオペラ座で朝寝夜更かし引きこもり、タイムカードを打ちもせずに月二万フランをせしめる男。
誇りがある。
レオナルド・ダ・ヴィンチのごとく多方面にあふれる才能が、そして情熱と執念と強運と自負心がある。
ファントムは黒いマントの内側から一冊のテキストを取り出した。
『念力に目覚める方法』
最後の手段だとは思っていたものの、『ブードゥーの呪い』『恐怖!丑の刻参り』とともに先日通信販売で購入していたこの本がついに役立つ時がきたのだ。
催眠術だってゴンドラ操作だって投げ縄だって身につけた彼である。
念力などその気になれば軽いものに違いない。
念力パワーで奴とクリスティーヌをまず物理的に引き離す。
全てはそれからだ。
ファントムは張り切って本を開いた。
歌い終わって唇を閉ざした恋人を、ラウルは賞賛のまなざしで見つめた。
クリスティーヌは愛に満ちた微笑を湛え、彼の手にひかれて扉に向かった。
恋人たちの後ろで扉が閉まり、本に夢中になりつつもようやく天使の歌声が失せたことに気付いたファントムが顔をあげた時にはもはや屋上には二人の影も形もありはしなかった。
ただ目の前に心をこめてクリスティーヌに贈った真紅のバラが転がっているだけである。
若造に夢中になった彼の天使が落としていったものらしい。
彼はそれにとびついて泣いた。
敗者だのなんだの言ってらんない。
悲しいと涙がでるのはファントムがまだ人間であるしるしだ。
「おのれっ」
あまりの理不尽に目の前が暗くなったファントムはマントを翻らせて立ち上がった。
「呪ってやる!今日という日を後悔させてやるぞ!」
さきほどの麗しいメロディーを思い出しながら彼は怒りの歌声を響かせた。
すぐに耳コピができるあたりがさすがにジーニア(略)、彼は屋上を疾走し、天を見上げながら激情にまかせてこれまた巨大な別の彫刻に飛び乗ろうとした。
そして足を滑らせた。
薄い雪が積もっている時点でよそ見をしながら足場の悪い彫刻なんぞに飛び乗るのは危険千万と気付くべきだがそんな世間の常識を彼に求めるのは酷というもの、なぜなら彼はオペラ座の天才にして紙一重の男。
そのままななめ前方に華麗な弧を描いて吹っ飛んだ果て、彼のマントは音もなく闇に溶けていった。
同じ高さなら途中の床を全てぶち抜きながら奈落の底に落ちるよりはマシであろうかいやどう考えてもそういう問題でもない。
だがおそらくは大丈夫。
なぜなら彼はオペラ座のファントム。
永遠にクリスティーヌとラウルと我々の心の中に住む男。
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