599 :クリスティーヌの独白 :2005/11/07(月) 00:05:03 ID:rmkuh0NJ

傷だらけのラウルが操る小舟に揺られ、私たちは地下の世界を後にした。

“オペラ座の怪人”が住まう、絶望と孤独に彩られた彼の監獄を。


小さなゴンドラが水路の角を曲がる瞬間、ふと後ろを振り返った私の目に映ったのは

哀切に満ちた眼差しで私達を見送る一人の男の姿だった。

青緑色の目がこの上なく優しい光をたたえていたのを、今でも覚えている。


あの瞬間、どうして彼が私たちを解放する気になったのか。

妄執じみた狂気さで私を捕らえたその手で、殺したいほど憎んでいた相手をも

その手中に収め、私たちの運命は彼の掌で弄ばれる木の葉も同然だった。

恋人の命を楯に、残りの人生を共に過ごせと迫る彼への憐憫の情にかられ、

涙を流しながら口付けた私に応えてくれたものの、抱き返すことも無く婚約者の方へ

押しやると、全てを忘れてここから出て行けと泣きながら告げた男の顔が

脳裏に焼きついて離れない。

私は彼に指輪を返し、あの日の出来事に、そして私の師に別れを告げた。


地上の世界に戻ってから程なくして、ラウルと私は結婚式を挙げた。

オペラ座炎上による混乱が冷めやらぬ中、あの街で永遠の誓いを結ぶには事件の当事者である

私たちには辛すぎた事もあり、どこか遠く離れた地でひっそりと式を挙げたいと共に願い、

朝早くの汽車で私たちはパリを旅立ったのだった。

ラウルは御家族の反対を押し切って、ただ一人愛する私を妻にしてくれた。


それから数十年の歳月が過ぎた。

優しい夫と可愛い子供にも恵まれ、私の人生は大変に幸せなものだったと思う。

幼い頃から憧れていた相手が私の事を愛してくれ、思いもよらぬ幸福の中で私の孤独は

拭い去られ、暖かく満ち足りた暮らしの中で心安らかな日々を送ることが出来たのだから。


それなのに、ふとした時、あの歌声が恋しくてどうしようもなくなってしまう自分が居る。


礼拝堂の壁越しに聞こえてきた威厳に満ちたあの声も、初めて私を地下に誘い

この世のものとは思えぬほど甘く優しい声で歌ってくれたあの歌も、もう二度と聴くことは

ないのだと思うと、胸の奥が焦げるような苦しさを覚え、独りでに涙が零れてしまうのだ。

そんな私の様子に気付いた夫は、「君が悪いんじゃない。こうするより他無かったんだよ」と

私を抱き締め、事ある毎に暖かく包み込んでくれた。


時は流れ、夫も私も既に人生の黄昏を迎える年齢となった。

あの頃のようにもう若くは無いが、夫に対する気持ちは今も昔も変わる事は無い。

ただ時間だけが、私たちの周りを駆け抜けていったような気さえする。


天使が私の頭上で羽を広げている。

ああ、この天使と共に天上の世界へと羽ばたけば、あの歌声を再び耳にする事が

出来るだろうか。

死を目の前にして尚、人間とはこんなにも心穏やかで居られるものなのだと初めて知った。


お父様や懐かしい人々の待つ世界へ、私は今旅立とうとしている。

愛する夫と子供達に見守られながら。



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