均衡のとれた足音が部屋に入ってきた。
「クリスティーヌ、なんだか物音がしていたようだったけれど…」
マダム・ジリーの声である。
(…………)
(…………)
不毛な探り合いをやめ、ファントムとラウルは互いに視線を逸らしてクローゼットの外に神経を集中させた。
「はい」
クリスティーヌが平静を取り繕った声で短く答えた。
「夜更かしはよくないわ。早くお寝みなさい」
「わかりました、マダム・ジリー」
短い沈黙があり、均衡のとれた足音はドアの方角に去りかけて──立ち止まった。
「………クリスティーヌ?」
「え、な、なんでしょうか、マダム…」
「これはなに?」
ラウルとファントムは互いの躯を押しのけ合いながら隙間に額を押しあてた。
わずかな幅のそこからマダム・ジリーの手が見えた。
ほっそりとした指先はなにかを握っている。
蝋燭の灯りに浮かび上がるそれは、手入れのいい高価な男物の靴だった。
(……この愚か者がっ!)
ファントムがラウルの首に腕を廻し、締め上げた。
(なんという間抜けだ!!きさまのせいでクリスティーヌはこの寄宿舎から放り出される!)
(す、すまな…)
思わず謝りかけ、一瞬後に我を取り戻したラウルはファントムの腕を撥ね除けた。
(待て、おまえにとやかく言われる筋合いはないっ!!)
ファントムはラウルの裸足を靴の踵でおもいきり踏みつけようとした。
それだけは避けたいラウルと共に奇怪なステップを闇の中で踏む。
どう見ても怪しい二人組だったが、クローゼットの外ではか弱い彼らの天使が胸の前で両手を組み、必死の面持ちで口を開いていた。
「マダム・ジリー、それは……や、役作りのために、シャニュイ子爵から戴いたものなんです!」
「役作り?」
マダム・ジリーの意外そうな声を聞き、ラウルとファントムは目を見開くと無言で再び隙間に張り付いた。
「あ、あの、イル・ムートの時の…小姓役の演技…どうも今ひとつ、納得がいかなくて…!」
喋っているうちにクリスティーヌはだんだん開き直っていったようだった。
「少しでも芸の幅を広げないと…私、まだとても未熟ですもの、マダム・ジリー」
「まあ…」
マダム・ジリーの声が湿った。感動のかすかな波動がそこには籠っている。
「クリスティーヌ、素晴らしいわ」
(……クリスティーヌ…君、なかなかやるな)
(知らないのか。彼女は意外に口がうまいのだぞ)
男二人は感心半分心配半分でひそひそと語り合った。
いつのまにか隠れている者同士の馴れ合いの雰囲気が生まれている。
マダム・ジリーは靴を床に下ろし、ドアには向かわずにクリスティーヌの傍に近づいた。
「あなたは本当に勉強熱心ね。それだからこそ『あの方』にも見込まれたのでしょう……」
クリスティーヌの肩を抱いて寝台の端に座らせると、マダム・ジリーはじっと彼女を見つめた。
「あなたの才能は、本当に素晴らしいわ。今では私にもわかる」
「そんな…」
クリスティーヌは少し恥ずかしそうに俯いた。
マダム・ジリーはその頬にかかった髪を優しく掻きあげてやりながら続けた。
「最初はうらやましかったわ」
「……?」
「『あの方』はあなたを選んで熱心に歌を教えてくださった。でも私にはそちらの才能はなかったから…」
(どうやら長話になりそうだが…)
(早く出て行ってくれないだろうか…マダム・ジリー)
じりじりしながら見守るラウルとファントムの前で、だが事態は急展開を見せた。
「でも今では『あの方』の気持ちがとてもよくわかる」
「マダム・ジリー…?」
マダム・ジリーはゆっくりとクリスティーヌを引き寄せた。
胸に彼女を抱きしめ、甘く囁く。
「あなたの声は本当に天使のよう。その才能は聞くもの全てを虜にする、そう──『あの方』も、シャニュイ子爵も、観客も──そしてこの私をも」
「あの、マダ……」
(って、ど、どういう意味だ!!?)
(おいおいマダムおいおいおいおい!!!)
闇の中でラウルとファントムは驚愕の目を──闇の中なので軌道がずれているが──向け合った。
彼女の歌声の魅力は誰よりもラウルが、そしてラウルにも増してファントムが知っている。
そのせいで現在苦労しているのだから。
クリスティーヌの歌声は性別を越えマダム・ジリーをも魅惑するのか。
なんという凄まじき才能、これはすでにフェロモン以上の媚薬効果を持つまさに最終兵器である。
「クリスティーヌ……」
「え、あの…」
わけがわからずうろたえているクリスティーヌの頬に瞳を潤ませたマダム・ジリーが切なげな吐息を近づけてきたその瞬間。
ドアにノックの音がした。
「きゃっ!」
マダム・ジリーは、息を弾ませておき上がった。
半分押し倒しかけていたクリスティーヌの躯を急いでひき起こす。
「ど、どうしましょう…!ま、わ、私、どうして…こんな…!!」
ひどくうろたえたマダム・ジリーの目がとっさにこちらを見据えたことを知り、ラウルとファントムは思わずひしと抱き合った。
(ノー!マダム、ノオオォオオ!!)
(頼む、来ないでくれ!!!)
「クリスティーヌ、私がここにいることは内緒よ!」
小さく言い捨てたマダム・ジリーがバレエダンサー特有の身のこなしで軽やかにクローゼットに駆け寄ってきた。
「え、でも、ああ!」
クリスティーヌが止めようとしたが遅かった。
クローゼットの扉をひっぱって開けたマダム・ジリーは中で固まっている男二人を発見して大きく目を見開いた。
だが、有能で鳴らす彼女らしく無駄な問答も悲鳴も省略し、有無をも言わせず肩を割り込ませてきた。
幸いなことに時代物だけあってクローゼットは比較的ゆったりしており、しかもマダムはほっそりしている。
勢いでクローゼットの扉がまたもや閉まり、クリスティーヌを巡る因縁の三人組は闇の中で向かい合った。
(………)
(………)
(………)
部屋にノックの音が再度鳴り響き、気も狂わんばかりになったクリスティーヌがそちらに駆け寄った。
ドアが開くと、お馴染みのスクラップ・メタル業界出身の支配人達が雁首を揃え、顔青ざめて立っていた。
「おお、ダーエ嬢!夜分遅く部屋まで押し掛けてまことにすまない」
「大変なんだ、窓の外を見たまえ!」
クリスティーヌを引きずって彼らは寝台の傍の窓に走りよった。
クローゼットの中の三人は慌てて隙間に額を押しあてて(どうでもいいことだが上からファントム、ラウル、マダム・ジリーの順である)、彼らの様子を窺った。
「まあ」
クリスティーヌの驚きの声があがる。
オペラ座は、この真夜中というのに黒山の人だかりに十重二十重に取り囲まれていた。
広場のあちこちにかがり火が焚かれ制式銃を抱えた警察官の姿まで見える。
群衆は花やハンカチを掴んだ手を振り上げて彼らのプリマドンナの名を熱狂的に叫んでいた。
「クリスティーヌ!クリスティーヌ!」
「ダーエ嬢!!あなたのファンです!」
「出せ!ダーエ嬢を出せ!!」
支配人フィルマンが額の汗を拭った。
「この有様だ。ここのところ毎晩近所からの苦情がひどい。今日も夕方からどんどん人数が増え出して、警察の応援を頼んだのだが全く効果がない」
支配人アンドレが両手を揉み絞った。
「やはりこうなったら、もはや軍隊を呼ぶしかないだろう、フィルマン!」
「だがそれは、このオペラ座始まって以来の恥ずかしい事態」
「ああ、私たちが支配人になってからというもの不祥事ばかりが頻発」
「これ以上異常事態が続けば我々は社交界からつまはじきにされる」
「それだけは避けたい」
「その通りだアンドレ」
二人は打ち合わせでもしていたかのような見事な流れで話を結論付け、揃って跪くとクリスティーヌの手にひしととり縋った。
「頼む、ダーエ嬢!」
「あなたならばあの暴徒を鎮められる!!」
「お、お待ちください」
あっけにとられていたクリスティーヌが不安げに手を振りほどいた。
「私に、そんな事ができるでしょうか…?」
(……君ならできる、クリスティーヌ!)
(大丈夫だ!天才たるこの私が保証する!)
(がんばるのよ!クリスティーヌ…!)
クローゼットの中の世界一熱いファン達からの応援が届いたものか、クリスティーヌはわずかにためらい、頷いた。
「…わかりました」
「おお!助かった!」
「ささ、では、この。私の外套を。急いで、ダーエ嬢」
アンドレが押しフィルマンが引き、クリスティーヌはあっという間に外へと連れ出された。
その直前、彼女は心配げにクローゼットに視線を向けたが無情にも音をたてて部屋のドアは閉まった。
クローゼットの中では三人組がほっと吐息をついた。
(だが、外がこんな騒ぎになっていたとは…)
(肉欲に溺れ騒ぎにも気付かぬとは。まったく情けない若造だ)
(なんですって)
マダム・ジリーの目が光る。
(そういえば何故あなた方はこんなところに隠れていたの)
(それを言うならあなたもだマダム・ジリー)
(君にはそういう趣味もあったのか。付き合いは長いが知らなかった)
(い、今のは気の迷いよ。魔が差したのよ。それより肉欲って子爵、どういう意味ですの!?)
(私だって未遂だ!)
(だが未遂とはいえ罪は罪。許せない。ラウル、きさまはなんという卑劣漢だ!!)
(( ここにいた おまえ/あなた が 言うか/言うの !?))
興奮した三人組は掴み合いを始めた。
空間が狭いぶんそれは抑えた、しかし激しく油断のならない戦いになった。
つかみ合う事数分。
ラウルの裸足の甲がマダム・ジリーのヒールで踏みにじられて腫れ上がり、ファントムのマントの前後が引っ張られてよれよれの逆になり、マダム・ジリーの編み込んだ美しい髷が歪んでも、頑として呪われたクローゼットの扉は開かなかった。
疲れきった彼らが息も絶え絶えになったその時、世にも妙なる透き通った歌声が遠くこの修羅場に流れてきた。
((( クリスティーヌ!!!)))
三人は呆然とその声を聞いた。
群衆のどよめきを圧し、透き通るその美声は彼らを簡単に虜にしていく。騒然としていた夜は静寂を取り戻し、ただただクリスティーヌの歌うアリアだけがパリの星空へと羽ばたいていく。
ファントムは、ラウルは、マダム・ジリーはその官能も欲望も渇望も羨望も、全てを溶かしていくような歌声を薄れいく意識の中聞いていた。
というのもいかにゆとりがあるとはいえ大人三人が格闘しても事足りるほどの空気の供給をそのわずかな隙間から賄えるはずはなく、クローゼットの空間は段々と酸欠状態になりつつあったのだがそれを何条彼らが知ろう。
ただただ彼らはうっとりと、少し頭が痛いけどこの至福を聞き逃さぬこと、ただそれだけを念頭において歌の魔力に身を任せ彼らのそれぞれの夢をクローゼットの闇に描き出していたのであった。
お役御免になったクリスティーヌが戻るのが早いか、それとも酸素の残量が消えるのが早いか。
オペラ座の夜は天使の歌を纏わせて、何も知らぬげに更けていった。
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