767 :ファントム×クリス 恋の試練 :2005/11/19(土) 22:35:47 ID:+nGnBwib

「彼からもう3日も連絡がないの!どうしたらいいと思う?私、捨てられてしまったのかしら」

バレリーナたちがリハーサルまでの時間を潰している大部屋に、若い踊り子の泣き声が響く。

「何かわけがあるかも知れないじゃない?…それとも思い当たるふしでもあるの?」

「彼は優しかったわ。でも、一昨日の夜に他の女と夜の街を歩いているのを見た人がいるの」

その言葉に、彼女を取り囲んでいた女の子達が一斉に抗議の声を上げる。

そんな騒ぎも泣き声も、クリスティーヌ・ダーエの耳には届いていなかった。

恋の試練なんて、自分とは無縁のものと思っているから。

「あの子の話、ちゃんと聞いておきなさいよ。クリスティーヌ。あんたって何かあぶなっかしいんだから」

一人大鏡の前に座り自身の髪をすいている彼女を見咎めて、メグ・ジリーが声をかける。

「私には関係のないことだもの」

意地悪やお高く止まっての発言ではない、本心からそう言っているようなクリスティーヌの口調に、メグはため息をつく。

そんなわけないじゃない。

そう彼女は思う。

どこか浮世離れした彼女の友は、ここの所蕾が開くように日に日にさらに美しくなっているように見える。

彼女の意志がどうであれ。

若い女の子が自分の魅力に無自覚なのは、とても危険なことだから。

「きゃ…」

メグはクリスティーヌの髪を一房握ると、自分の方に引き寄せ、額をくっつけるようにして彼女に告げる。

「お嬢さん、お嬢さん。気をつけな。ぼんやりしていたら罠にかかるよ。あんた近いうちに、恋に落ちるよ」

「メグったら」

メグの冗談めかした忠告も、彼女の胸を掠りもしなかった。

なおも言い聞かせようとしたメグは、次の瞬間はっとしたように叫ぶ。

「クリスティーヌ!大変、また遅刻だわ」

二人はバタバタと、何時の間にか誰もいなくなっていた大部屋を後にした。



メグのあの言葉は予言だったのではないかと、今でもクリスティーヌは思っている。

その日は本当に色々な出来事が起こった。

我侭な歌姫が舞台を放棄し、彼女が代役を勤めた。

幼い頃に夏の日を一緒に過ごした幼馴染がパトロンとして再び現れ、彼女を夕食に誘った。

それから、音楽の天使が現れ、彼女を鏡の裏へと導いた。


一夜明け彼女は今、その天使から受ける罵倒が止むのを激しい恐怖と後悔の中待っていた。

音楽の天使が、仮面の下に隠している素顔を見たかった。

その欲望に動かされ、何の躊躇もなく彼の仮面を剥ぎ取った次の瞬間、手加減なしに突き飛ばされ、呪いの言葉を降り注がれる。

何が起こったの?

あんなに優しくて美しくて、私の事を何でもわかってくれていた声が、私を突き飛ばすなんて。

彼女はブケーが女の子達を怖がらせる為に、常日頃言っていた言葉を思い出していた。

この人は、エンジェルじゃない。オペラ座の怪人なんだわ…。

昨夜はあんなに煌いて自分を招いていた世界は、今やただの薄暗く不気味な地下になってしまった。

自分そっくりに見えて気絶をしてしまった人形は、ただのマネキンで、生涯を捧げて仕えようと誓っていた音楽の天使は
オペラ座の怪人と言われる一人の男で、今自分に呪いの言葉を吐いている。

お父様!

ばかな子供は騙されました。

あなたがいなくなったこの世界は、こんなにも醜く冷たい。

やっぱりこんな世界は嫌…。

みんな嫌い、大嫌いなの。

クリスティーヌは耳を抑えて蹲り、自分の意識の中に落ちていこうとしていた。



けれど地下よりも暗いその意識の中に、幽かに声が響く。

それは毎夜彼女を魅惑し続けた、天使の歌声ではない。

威嚇し懇願する一人の男の声だった。

その声は今まで聞いたどんな歌よりも囁きよりも、彼女の心を揺り動かし、暗い淵に蹲っていた意識を覚醒させる。

彼女は手元に転がっていた仮面を手繰り寄せ、顔を庇いながら傍らに座り込んだファントムに手渡す。

クリスティーヌは自分自身に問い掛ける。

人が隠していることを、あんなやり方で暴くことが、どうして許されると思ったの?

そこにどんな傷跡が現れるのかわからないのに。

私は…。

どうして自分のことしか考えられないの?

どうして自分のため以外に涙を流せないの?

溢れて止まらなかった涙がひいて行くのがわかる。

クリスティーヌは、雛鳥が初めて眼を開いたときのような表情でファントムを見つめた。

仮面を剥がして深く傷つけたであろう、自分に背を向けて立っている一人の男を。

人と深く交わることなく、天使と過ごす時間だけに囚われ。

私は今までしなければいけないことを、どれだけさぼって来たのかしら?

「マスター…」

掠れた声が地下に、か細く響く。

「…まだ、そう呼んでくれるのか?」

かすかに温もりを取り戻したような声色だった。

クリスティーヌは頬に溜まった涙が飛び散るほどに、何度も何度も顔を上下させる。

その気配にファントムはやっと振り向き、視線は合わせないままに言う。

「もし、私が怖くてそう言うのなら…」

クリスティーヌの首が、今度は左右に振られる。

「…そうか、ならいい…なら」

ファントムはその言葉を、呆然としているように繰り返した。

「クリスティーヌ…歌えるか?」

「…今日の舞台は、口のきけないページボーイの役なんですの…」

そう答えてから、クリスティーヌはほっとしたように続ける。

「良かったわ。じゃなきゃとても歌えない…」

質問に素直に答えたあと、自分の言葉に改めて彼女は安堵していた。

歌えないというクリスティーヌの言葉に複雑な気持ちを抱きながら、ファントムは告げる。

「私はお前には…そうか、いや、いい。さあ戻ろう。愚か者どもが探し始める」



地上へと続く階段を、クリスティーヌは手をひかれて登る。

昨夜、彼女の存在を確かめるように何度も振り返ったファントムだったが、今日は一度も振り返ってはくれない。

何故だか泣きたい気持ちになり、クリスティーヌは唇を噛む。

ほんの昨日まではまるで自分が、特別な存在であるかのように自惚れていた。

仲間の女の子達がどんなに騒いで、恋のために涙を搾り取られていても、遠い世界の出来事だと思っていた。

自分は肉の身体を持たない、声だけの音楽の天使に生涯を捧げる運命なのだからと。

――私が死んだら音楽の天使を送ってあげるよ

大好きなお父様が、そう私に嘘をついた。

多分、残された私が世界に絶望しないように。

この世界で生きていくという事は、そんなに価値があるの?

この人とそれを確かめたい。

ファントムの手の平に重ねられた、クリスティーヌの手に力が篭る。

本当は、突き飛ばされた時に捻ったらしく手首が痛かった。

けれど、触れ合う心地よさにとても放す気になれない。

どうして女の子たちは、肉の痛みに耐えてまで恋の試練へと飛び込んでいくのか。

それが少しだけわかった気がした

私はもう心を決めたわ。

マスター。

クリスティーヌはファントムを、後ろから穴が開く程にじっと見つめる。

項を焼くような熱い視線に、とうとう彼が振り向くまで。

あなたは私を愛してくださるかしら?

もう後戻りは出来ない。

二人の行く手には、身を焦すような恋の試練がいくつも待ち受けていた。

                                        


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