778 :デッサン :2005/11/20(日) 07:39:41 ID:fqX1bRDP

暖炉の薪がはぜる音に混じって、サラサラとした音が響いている。

木炭が羊皮紙の上を滑らかにすべる音が耳を撫でる。

薄布を一枚だけ纏った私はソファにしどけなく横たわり、じっと注がれる

男の視線を受け止め、ただひたすら動かないように意識を集中していた。


「…君の姿を描かせてはくれまいか?」

早めの夕食の後にワインで喉を潤しながら談笑している最中、少し躊躇い

がちに彼が言い出した。

彼は作曲の他にも絵画や建築を得意としており、それらの才能が凡人の

ものでは無いことは素人の私でも知っている。

彼の棲家であるこの家は、彼の造り出した大小さまざまな美術品で溢れ

かえっており、初めて訪れた時にはその多彩さに息を飲んだものだった。

「まぁ、私を描いてくださるの? 私なんかでモデルが務まるかしら?」

「他の誰でもない、君を描きたいんだよ。クリスティーヌ」

そう答えながら、どこからともなく現われた淡い紫色の薄布を差し出して

くる。

いつもながらこの人は、一体どこからどのようにして物を出したり隠したり

するのだろう?

以前に一度、不思議な手品の仕掛けについて尋ねてみた事があるのだが、

「マジックの種を明かしてしまっては面白くないだろう?」と笑って

返されてしまい、それ以来彼の魔法について質問するのは止めにしている。

受け取った薄布に首を傾げ、「これを、どうすればいいのかしら?」と

尋ねると、彼はやや困ったように明後日の方向を向き、「つまり、その…」

と言葉を濁してしまった。

つまりは、生まれたままの姿の私を描きたいという事なのだろう。

絵画の素材として女性の裸体を描くのは、そう珍しい事では無い。

「いいわ」

あっさり返事を返すと、今度は彼の方が戸惑ってしまう。

「クリスティーヌ…その……本当にいいのかね?」

「ええ。マスターには日頃からお世話になっているのだし、少しでも

お礼が出来るのならば」

自分から言い出しておきながらおろおろと所在無げに慌てる彼を背に、

私は衝立の向こうへ姿を隠した。


「マスター、あの…準備が出来たのだけど……」

恐る恐る衝立から顔を覗かせると、肘掛に片肘をついたまま瞼を伏せて

物思いに耽る彼の姿が見えた。

私の声に気付くと、目を開いて立ち上がる。

自ら快諾したとはいえ、男性の前に生まれたままの姿を晒すのは初めての

事で、緊張で顔が火照り、唇は慄き、足が震えて上手く歩けない。

右でで胸元を、左手に抱えた薄布で脚の付け根を隠しながら一歩ずつ

足を進める。

彼がどんな目で自分を見つめているのか、確かめるゆとりすらなかった。

「では、こちらへ」

大きく息を吸い、促されるまま暖炉の側に用意されたソファへと腰を下ろす。

脚を固く閉じ、直立したまま腰掛けていたら、ふと彼がこみ上げて来るもの

を隠そうともせずに笑い出した。

「クリスティーヌ、緊張しているのだね? 大丈夫だから力を抜いて楽な

姿勢にしなさい」

二人掛けのソファに体を横たえるよう指示されたので言う通りにすると、

片肘を取って横向きに寝そべる姿勢を作らせてくれる。

薄布が、腰の周りを僅かに隠すべくふわりと掛けられた。

暖められた空気が、むき出しの肌に心地よい。

「マスター、笑うなんて酷いわ」

思わず上目遣いで軽く睨みつけると、「すまなかった。君があまりに

可愛らしいものだから」と、悪戯を咎められた子供のような目で彼が

言い訳をした。

それっきり笑顔を引き締めた彼は、私からやや離れた正面の位置に椅子を

据えると、神妙な面持ちで木炭を手に取って描き始める。

「簡単なデッサンだから、そう長くは取らせないよ」

私はこくりと頷き、再び大きく呼吸した。


二つの眸が、イーゼルに据えられた羊皮紙と私を行き来している。

夫でもない男の前へ無防備な姿を晒しているというのに、何故だか恐怖や

嫌悪は無かった。

むしろ、彼ほどの芸術家がさほど美しくも利発でもない私を絵画の題材

として求めてくれる事に不思議さを感じる。

世の中には、私より美しく聡明な女性がいくらでも居るというのに。

「あの…」

「何だね?」

「どうして、私を描きたいと仰ったの??」

ややあってから手を休め、「これはまた、可笑しなことを訊くお嬢さんだね」、

瞼を伏せながら唇の端を軽く吊り上げた。

どうにも可笑しいという時に、彼がよく見せる表情だ。

「だって、私よりきれいな女の子なんてたくさん居るわ。オペラ座

の中にだって…」

コーラスガール仲間の中には、その美しさや器量を武器に自らの道を

切り開く者も少なくない。

誰よりも踊りの上手なメグは、ソリストとして花を咲かせる日もそう

遠くは無いだろう。

けれど私には、ただこの人が与えてくれた歌声の他に持つべきものが

何も無いのだ。

「クリスティーヌ…」

いつの間にか側までやって来た彼が跪いて私の両手を取ると、己の手で

包み込みながらこう囁いた。

「君は誰よりも美しい」

真剣な眼差しで射すくめられ、身動きが出来ない。

「髪も目も唇も…」

そう言って私の髪に手を入れると、さも愛おしそうに撫でてくれる。

「白雪のように初々しいこの肌も…」

「あ……」

歌うように囁きながら、大きな手が肩先からうなじを優しく行き来する

感覚に、我を忘れて溺れそうになる。

何か続きを言いたそうだったが、言葉を切ると再び私の両手を包み込み、

揃えられた指先に軽く口付けを落としてくれた。

夢見心地から急に現実に引き戻され、自分がどこで何をしていたのかを

ようやく思い出す。

男の人に「美しい」などと褒められたのは生まれて初めてで、嬉しさと

恥かしさの余り顔から火が出そうだった。

幼い頃に憧れていた相手と再会して、「可愛いロッテ」と呼んで貰った時

にも人知れず胸を高鳴らせたものだが、その時の喜びとは全く違うものが

私の胸を満たしてゆく。

頬を染めたままの私に優しい視線を注ぎながら、彼がイーゼルの前に戻った。


彼の画布の中で、一体私はどのように描かれているのだろう。

ふと顔を上げた私の視線に、気付いた彼が微笑む。

「描きかけだが…見てみるかい?」

「いいえ、まだいいわ。…完成したら見せて下さる?」

「もちろんだとも、マドモワゼル。いずれは色を付けて仕上げよう」

「本当??」

嬉しくなって思わず身を起こすと、「モデルは動いてはいけないよ」と

諭されてしまった。

「…ごめんなさい」

数日後には次回公演のリハーサルが始まるため、地上に戻らなくてはならない。

次の公演が終わって再会できる頃には、あの言葉の続きを聞くことが出来るだろうか?

そう思いながら、彼のモデルを務め上げるべく意識を引き締める。

師と対面しながら歌を教えて貰えなくなる事を寂しいと思い始めている自分に、

今頃になってから初めて気付いた。



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