184 :ファントム×クリス(クリスティーヌの告白)::2005/12/08(木) 22:11:30 ID:Mo3i/3Mf

エリック、と私を呼ぶ声を幾度か聞いた。

あれは母だろうか、それとも地獄から私を呼ぶ悪魔の呼び声だろうか……。




目覚めたとき、ベッドの横にはジリー夫人とクリスティーヌがいた。

まだ朦朧としているところに、ジリー夫人が屈みこんで

「良かった……、一時はどうなることかと……」

と安堵した様子で言う。私は一体どうしたのか……。

「約束の期日になっても一向にオペラを持ってこないし、

どうしたのかと思ってきてみたのよ……、あなた、ここで死にかけていたのよ、エリック?」

先刻の安堵した様子から、いつもの厳しい顔になって咎めるように言う。

そうか、私を呼んでいたあの声はこの人の声だったのか…………。

「さ、後はあなたがたで……、ね」

そうジリー夫人が言って、クリスティーヌの肩に手をおく。

「これまで通り、砂糖水を与えて……、それから小麦粉を溶いたのを……、

しばらくしたらオートミールにしていいわ、すぐはだめよ、いいわね」

クリスティーヌの方に身を屈め、小声で指示を与えると、

私の方を見遣って「では、ね、エリック」と言ってジリー夫人が出て行った。



涙で汚れた頬をしたクリスティーヌを見る。

もう二度と会うことはないと思っていた私の妻………。

無理やり奪い、穢し、傷つけて放り出した私の天使………。

この愛しい顔をもう一度見られただけで、私はもう死んでしまってもいい………。


「なぜ、戻ってきた」

何をどう言ってよいものかわからず、素っ気ない言い方になってしまったが、

そう冷たい口調ではなかったことにまずは安堵した。

「マダム・ジリーからお知らせをいただいて……、それで……」

「私が死にかけているから、ということか」

この期に及んでまだ優しい物言いのできない自分に心底うんざりしたが、

弱っている所為で聞きようによっては優しく聞こえるかもしれないくらい

小さな声しか出なかったので、やはりきつい口調にはならずに済む。


「マスター……」

クリスティーヌの眸からはらはらと涙が零れ落ち、そして突然、私のベッドに突っ伏し、

嗚咽を洩らしながら叫んだ。

「マスター……、マスター……、ゆるして、ゆるして…………!

……こんなにまであなたを苦しめていたなんて……、

……マスター、ゆるして……、ゆるして……」

私の脇に身を投げ出し、激しく肩を上下させているクリスティーヌの頭に手を置く。

ああ、この小さい頭を私は何度撫でてやりたいと思ったことか……。

「クリスティーヌ……、おまえが謝らなけりゃならないことなど、

なにひとつないじゃないか……、なぜおまえが謝る必要がある……? 

謝らなければならないのはこの私じゃないか……」

顔を上げずに激しく頭をふって彼女が言う。

「いいえ、いいえ……! あなたにああさせたのはこのわたしです、

わたしが、わたしがあなたを苦しめて、だから…………」

幼い子どもの頭を撫でるようにクリスティーヌの頭を撫でる。

ああ、ようやくこうしておまえの頭を撫でることができたよ……、

それだけで私は充分幸せだ……。


「おまえはなにひとつ悪いことはしていないよ、なにもかも私が悪かったのだ、

私が嫉妬深く、狭量だったから……、謝っても許されることではないが、

本当にすまなかった……」

こうしてクリスティーヌに詫びることができただけで、私には充分すぎるほどだ。

もう二度と会うこともない、許しを請うことも、

詫びることすらできないと思っていたのだから……。

「私が死にかけていると聞いて、戻ってきてくれただけで、充分だ……」

私はもう溢れてくる涙を抑えることができなくなっていて、しかも唇から音を紡ぐのが

これほど大変なことであったかと思うくらい苦しくて、ついさっきまで意識も

なかったのだから当然かもしれないが、これ以上言葉を続けることができなかった。


私の苦しい息遣いに気づいたのか、クリスティーヌが顔を上げ、

涙を拭ってベッド脇のテーブルにあった水差しを取った。……あの水差しだ。

布に水を垂らし、私の口元に持ってくる。

甘い。
味という感覚があったことを初めて知ったような気がするほど、

私はもう何日も食べ物を口にしていなかったことを思い出した。

そして、私は、クリスティーヌの姿を見ながら、

ふたたび意識が遠ざかっていくのを感じていた。


それからしばらく、私はクリスティーヌに看護されていた。

あれ以来、ふたりとも言葉数は減って、時折言葉少なに今日は暖かいだとか涼しいだとか、

オートミールの味はどうだとか、そんな当たり障りのない話をした。

会話と言えるほどのまとまった話ではなかったが、そうやって何気なく言葉を交わしていると、

あたかも世間並みの夫と妻として暮らしているような心持ちがし、

最後にこうしてふたりで穏やかに日々を過ごせただけで私にとっては充分すぎるほど幸せで、

この先、この思い出だけで生きていかれるような気さえした。


私たちが当たり障りのない話題でしか言葉を交わさないのは、

世間の夫婦のように話すべきことがないからというわけではなく、

話すとすればいやでもあのひと月のことを、

そしてこれからのことを話さざるを得ないから……、

だから話すべきことから目を背けてしばしの夫婦生活をしているだけ……、

ただそれだけであることは、何も言わなくてもふたりとも充分に承知していた。


日が経つにつれ、私の身体も目に見えて回復して軽い食事ならどうにか取れるようになった。

一日の大半をベッドで過ごしてはいたが、時折身体を清めて着替え、

湖の周りをクリスティーヌに手を引かれて散歩することもあった。

黙って手を繋いでいるだけで喜びが胸に溢れ、しかし、あのひと月の非道を思い出しては

悔恨に苛まれた。どうあってもあの暗黒の蜜月を私たちふたりの間から……、

少なくとも私自身のなかからなくしてしまうことはできない。

クリスティーヌに懺悔し、彼女の裁きを受け、彼女を自由の身に……、

この恐ろしい怪人たる夫から解放してやるべきときが刻一刻と近づいてきていた。


そして、今朝、私は断固たる決意のもと、朝食後のクリスティーヌをベッド脇に呼んだ。

まだ身体は本調子ではなかったが、横になっていながらであれば辛い話題にも

耐えられる程度には回復していたし、これ以上彼女を自分のもとに留めておけば、

どうしても彼女を手放したくなくなってしまう。

そして、この行き場のない後悔を彼女自身にぶつけるのだ……、おそらく、私という男は。

そうなる前に彼女を解放してやらなくてはならない。


「クリスティーヌ、話がある」

「ええ……」

「クリスティーヌ……、」

「マスター」

突然、クリスティーヌが私の言葉を遮った。

「マスター、どうか先にわたしの話を聞いていただけないでしょうか? 

わたしはどうあってもあなたにお話しなければならないことがあるんです」

「…………」

「マスター、聞いていただけますか?」


クリスティーヌの話というのがどんな内容であるか、おおよその見当はついた……、

おそらくここでこのまま夫婦として暮らすことはできない、どうか自分を解放してほしい、

そういう話であろう。彼女にそう言わせてしまう前に私から話をしたいと思って呼んだのだが、

どうしたものか……。どう返事をしたらよいか迷っていると、返事のないのが返事と思ったか、

クリスティーヌが話し始めた。


「マスター……、あんなになるまであなたを苦しめて、本当にごめんなさい……。

どんなに謝ってもゆるされることではありませんけど、

でも……、でも、どうか、……ごめんなさい……」

話し始めた途端、みるみるその眸に涙がたまってきたクリスティーヌの頬を、

溢れ出した涙が濡らしていく。

「どうして……、どうしておまえが謝る必要がある? 

おまえは何にも悪くないじゃないか、悪いのはこの私じゃないか……」

「いいえ……、わたしがちゃんと自分の気持ちに向き合って、

初めからあなたのもとに置いていただいていれば、あなたと一緒にいることを選んでいれば、

そうすれば、あなたをあんなに苦しめることはなかったのです……」

ますます溢れてきた涙を拭おうともせず、クリスティーヌが言葉を紡ぐ。


「わたしは……、わたしは、あの優しい人を裏切ってでもあなたと一緒にいたかった……。

あの人と一緒にいる方がいいとわかっているのに、わたしの心はいつもあなたを求めていた……」

嗚咽を呑み込むように喉を鳴らして、それでも先を続けるクリスティーヌを

どこか不思議な気持ちで眺める。


「わたしがどれほどあなたに惹かれていたか……、

マスカレードの夜、わたしはあなたにあの切り穴の奥へ連れ去られたかった、

父の墓所に参ったときにも、わたしはあなたに逢えるような気がしてあの場所に行ったのです。

あのまま墓所に入れば、わたしはあなたのものになれる……、

そう思って、いえ、そのときにははっきりそう考えたわけではなかったけれど、

そんな風に感じて、胸が高鳴りました。

ラウルが来て、あなたと争いになったときも、わたしの目はあなただけを追っていた……、

あなたが勝って下さることを願っていた……、あなたが勝つということがどんなことなのか、

よくわかっていたのに……。

わたしは、……わたしは、あなたに無理やり連れ去られたかった、

……自分からあの人を裏切ることなどできなかったから……」


一瞬口を噤み、しゃくり上げるようにして涙をこぼす。

はらはらと彼女の頬を落ちていく涙を見ながら、この涙は私が流させている涙なのだろうか、

そうではないのだろうかと取りとめもないことを考えていた……、

ふと我に返って何か言おうと口を開きかけたが、クリスティーヌが大きく息を吸うと、

ふたたび話し始めた。


「そういう自分の気持ちに正直に、最初から素直にしたがっていれば、

あなたをあんなに苦しめずとも済んだのです。

……そして、とうとう、わたしはあの人の目の前で自らあの人を裏切ってしまいました。

あの舞台でわたしは、われ知らず、はっきりとあなたを選んでしまっていた……。

ああ、あの階段であなたと見つめ合っていたときの胸の高鳴りを、あの眩暈のような陶酔感を、

わたしは一生忘れないと思いましたわ……。

橋の上であなたの腕に抱かれたとき、わたしは自分の居場所が他のどこでもない、ここなのだと、

わたしがずっと求めていたのはこの腕なのだと、ようやく自分で認めることができたのです。

あなたに抱かれて、あなたの腕のぬくもりを感じて、わたしは本当に本当に幸せでした。

そのすぐそばで、あの優しい人が、ラウルが苦しんでいることなど忘れてしまうくらいに……。

父を亡くして以来、初めて自分があるべき自分になれたような、

自分がいるべきところに自分がいるような、そんな気がしました。だから……」


ここまで一息に話すと、クリスティーヌは生唾を飲み込むような仕草をして、一瞬俯いた。

「だから……、だから、わたしはあなたに素顔で言ってほしかったんです、

わたしを愛していると。

初めて地下に連れて来られたとき、あなたはわたしに、この顔を直視できるか、

それでも私を思うことができるかって尋ねました。

わたしはやっぱり怖くて、とてもあなたのお顔を……、ごめんなさい……、

直視できないと思いました。

でも……、でも、聖堂でのお稽古がなくなって、あなたの声を聞けないようになって、

どんどん日が経っていって、わたしはあなたのことばかり考えるようになって……、

あなたのお顔もはっきり思い出せるのに、それでもあなたが恋しくて、

恋しくて恋しくてどうしようもなくなって……」


そこでクリスティーヌが瞼を閉じ、眸に溜まった涙を押し流した。

彼女の頬を流れる涙が蝋燭の灯りを吸い取って鈍く光っていた。

その涙を拭ってやろうと手を伸ばしたが、それより先に彼女自身の指先が涙を払ってしまった。


「でも、わたしはあなたが怖かった。

……いえ、本当に怖かったのは、あなたに惹かれていく自分自身だったかも知れません。

ラウルにあなたのことを話したとき、どれほど安堵したことでしょう。

ラウルに話したことで、あなたから解放されたような気がしました。

でも、そんなのは無駄なことでした。いえ、無駄どころか、ひどい過ちでした。

ただ、あの人を巻き込んだだけ……。

あの人は必死でわたしをあなたから守ってくれようとしているのに、

わたし自身はあなたにどんどん惹かれていく……。そんなの、矛盾していますもの……」


また、大きく息を吸い込み、話し始める。

「だから……、あなたにあのときに聞かれた答えを、わたしは舞台で、

あの橋の上で答えたんですわ……、あなたはわかって下さらなかったけれど。

橋から落ちていくときには、わかって下さったと思っていたんです、

だから、あなたはわたしをあなたの場所に連れて行ってくれるのだとばかり……。

でも、違っていた。……違っていてもいいんです、今は、もう。

あのときには、わたしの気持ちもわかってくれずに無理やり花嫁衣裳を着せようとしたのには

心底がっかりしたし、あなたを選んだ自分に腹も立ちましたけれど」


クリスティーヌがほんの少し笑い、しかしすぐに表情を戻した。


「ラウルが来なかったら、わたしたちはきっとあの場で最初の喧嘩をして、そして仲直りして……、

でも、あの人が来てくれて、わたしはやっぱり後悔しました、あの優しい人を裏切ったことを。

もう、あのときには、自分はどうしたらいいのか、どうしたいのか、よくわからなくなっていました」


「あなたが、自分を選ばなかったらあの人を殺すと言ったときには、

自分が……、なんというか……、そう、自分が選択から逃れられたような気がしました。

わたしがあの人を選べば、あの人は殺され、わたしはあなたのものになる。

わたしがあなたを選べば、あの人は命が助かり、わたしはあなたのものになる。

だったら、選ぶ道はひとつしかありませんもの」


「なのに、……わたしはあなたを選んだのに、わたしは……、わたしは……」

そこまで言うと、クリスティーヌは両手で顔を覆って激しく泣きじゃくり始めた。

私はそっと腕を伸ばし、彼女の髪に触れてみた。数日ぶりに触れる妻の髪だった。

私が目覚めた横で彼女が激しく泣いていた折に触れて以来、こうした接触はしないでいたので、

そのひんやりとした手ざわりをどこか懐かしいような気持ちで髪を指で梳いてみる。

クリスティーヌが落ち着くまで、そっと頭を撫で続けた。


「わたしはどうしてもあなたを忘れることはできないって、あなたを愛さずにはいられないって、

よぅくわかったのに、だからあなたのそばにいることを選んだのに、

わたしは心のどこかにあの人もこともしまっておいたんです。

あなたに初めて抱かれた夜も、最初のうちは自分の罪深さに恐れ慄いていました。

あの優しい人には指一本触れさせなかった己の身をあなたに捧げることができるのが嬉しくて、

そんな風に思っている自分が許せなくて、……でも、あなたの温かい手に触れられると

あっという間にそんな罪深い気持ちもどこかにいってしまって……。

ああ、あの夜ほど幸せだったことはありませんわ……、わたしの生涯で一番幸せだった……。

わたしはとてもとても幸せで、本当に幸せで、ようやくあなたのものになれた喜びで

胸がいっぱいだったのに、……なのに終わってみると、あの人にすごく申し訳なくて、

あの人のことを考えていました」


あの折のことだ……。

しかし、あのとき、クリスティーヌは私に抱かれて幸せだと思ってくれていたのだ、

喜んでいてくれたのだ……。

なのに、私はつまらない猜疑心でいっぱいで、婚約者を捨てたばかりの彼女の心情など

思いやりもしなかったのだ。

心優しい彼女が婚約者を捨てたその数日後に、まるでなにごともなかったかのように

新しい男と結婚生活を始められるはずなどないではないか……、

私は、今になって思えば至極あたりまえのことなのに、

なぜこんなことにも気づかなかったのだろうか。

そうだ、やはり心のどこかにクリスティーヌを疑う気持ちがあったからだ。

彼女が本気で私を愛することなどないと、あの若くて美丈夫な婚約者よりも私の方を愛して

くれることなどあり得ないと、そう思っていたから彼女を信じることができなかったのだ……。


「あのとき、あの人の名を呟いていたなんて、自分ではわかりませんでしたけど、

あなたはそれをご覧になったんでしたわね……」

クリスティーヌが私を見て尋ねるように言う。


「二日目の晩、あなたが私を無理やりに……なさったとき、わたしは思わずあの人を

呼ぼうとしてしまった……、どこかで、あなたが冷たいときにはあの人が慰めてくれるような、

そんな甘えた、都合の良い思いがあったのだと思います。

でも……、だから、あなたにどんなにひどいことをされても仕方ないんだって思おうとしました。

わたしが悪いのだからって……。

でも、わたしはちゃんと自分の思いをあなたにお話すべきだったんですわ……、

わたしはわたし独りの気持ちしか考えられなかった、

わたしさえ我慢すればいいなんて、思い上がっていたんですわ……。

そのことで却ってあなたを苦しめていたのに……。

あの夜、どうあってもあなたはわたしを信じてはくださらないのだと、

どうあってもあなたはわたしを許してはくださらないのだとわかって、

わたしがいるだけであなたを苦しめ、傷つけてしまうのだとわかって、

わたしは……、わたしは………、

……マスター……、本当に本当にごめんなさい……」




back  next












SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送