357 :クリスマスの休暇 :2005/12/22(木) 16:32:24 ID:Cxml+1G2


 もう一年近くもの間、クリスティーヌは彼女のマスターと師弟以上の関係ではなかった。

 「この生ぬるい関係を打破しようと思っているの」

 12月に入ったある日、クリスティーヌは親友のメグにそう告げた。

 驚いたのはメグの方である。

 毎夜毎夜、彼らは逢瀬を重ねていたのではなく、レッスンを重ねていただけだったのだ。

 それを知ったメグは、この美しい歌姫が哀れに思えて目頭があつくなった。

 「このクリスマスが良いきっかけになってくれるはずだわ。そう思わない?」

 「・・・そうね。健闘を祈るわ」

 メグは励ますようにクリスティーヌの肩を、ぽむとたたいた。


 クリスティーヌはクリスマスイブに照準を合わせていた。

 マスターのことだから、きっとクリスマスにも私をパーティーに行かせないようレッスンを入れているだろう。

 去年だってそうだったもの。

 「その日のレッスンが終わったらキスをするのよ。・・・クリスマスの宿り木が私を導いてくれるわ!」

 そして、そして、そのまま男と女の関係になったっていい。むしろ望む所よ。

 だがしかし、男女にはすれ違いがつきものである。

 クリスマスの計画の準備を着々と進めていたクリスティーヌは、己のマスターの言葉に愕然とした。

 「休暇が必要だ。クリスマスのね」



 計画実行の一週間前である。レッスンを終えたところで彼はクリスティーヌにそう言ったのだった。

 いつもと同じ静かな口調で。

 「まあ」

 予想外の展開にクリスティーヌはぽかんと口を開けた。

 「こういうことはもっと早めに言っておかなければならなかったんだが・・・どうも世間に疎くてね。

 毎夜のように私と一緒では飽きていることだろう。羽を伸ばしてくるといい。

 ただ、レッスンがないだけで公演は幾つかあるからゆっくりできないかもしれないが、

 パーティーや晩餐の招待を受けているなら、応じられるだろう」

 「まあ」

 「君にも一緒に過ごしたい相手があるだろうし、私も正直休暇が欲しいと思っていたところだ。

 体調に気をつけて、特に喉に注意を払うように。二十日から公現祭までレッスンはないから」  

 「・・・まあ」

 幾つもの蝋燭が掲げられていても彼の仮面の奥にある瞳の表情を、クリスティーヌは読めなかった。

 これはどういうことなのだろう?

 パーティーに晩餐、過ごしたい相手?何をほのめかしているのだろう、私のマスターは。

 彼はいつもの声で、いつもの物腰で、いつものように・・・事務的だ。

 そのことにクリスティーヌは傷ついていた。今晩の傷は特に塞がりにくいだろう。

 もうずっと、彼女が彼を選び取った時から、彼は恋人ではなく、夫でもなく、天使でもなく、友人でさえない。

 師としてしか(それ以上でもそれ以下でもなく)、クリスティーヌと接しようとしないのだった。

 だからこそ、クリスマスに奇跡を、自分の手で起こそうとしていたのに。

 今まではっきりと彼の口から聞いてはいないけれど、私との繋がりを徐々に絶ってゆくつもりなのかもしれない。

 休暇が欲しいと彼は言った。私を遠ざけたいのだろう。

 レッスンを終えて自室に引き取ったクリスティーヌはそんな考えに、ベッドに潜り込むと声が漏れないように涙を流した。



 思い当たる節はいくらでもあった。

 視線が合えば顔をそむけ、肩先指先が軽く触れるだけで「失礼」と小さく会釈する。

 ささいなおしゃべりも耳障りなのだろう、遮られ、私は歌うのみだ。

 それでも歌声は愛していてくれているに違いない。

 うっとりと、笑顔で「素晴らしい」と褒めてくれることがある。

 ただ、嬉しくなってしまった私が笑顔を返すと、やはりその目は私を避けるのだ。

 歌声以外の私に、彼は興味など無いのだろう。私は私の歌声に嫉妬する。

 いっそ潰れてしまえばいい。潰れてしまえ私の声。そしてマスターに見限られてしまえばいい!

 「・・・そうよ・・・そうだわ。見限られる前に出来る努力はしておかなきゃ。しないで後悔するよりやって後悔するほうがいいもの」

 そう思いつくと、傷が癒えたわけではないが、すうっと気が楽になった。

 今までマスターを完全に失う事を畏れて何もしてこなかったけれど、だらだらと終末を迎えるよりもここではっきりさせよう。

 きちんと気持ちを伝えて、マスターの気持ちを聞こう。勇気がしぼんでしまうような、その後のことは考えてはいけない!

 涙で濡れた頬をぐいぐいと拭い、計画に少々変更を加えて実行に移すことを決心した。




 さて、エリックは地下の隠れ家よりも深い後悔の底にいるところだった。

 いらいらと薄暗い中を行ったり来たりしても、心の中は落ち着かない。

 出来ることならクリスティーヌの休暇など取り消してしまいたい。

 愛する者と過ごすクリスマスとはどんなものだろう?

 エリックは神を信じることはやめてしまっていたが、人との繋がりに飢えているので、

 家族が集うというクリスマスに憧れを持っていた。認めたくはなかったが。


 「クリスティーヌに会えないことに慣れなければ」

 低く小さく呟いた。

 エリックは、彼の歌姫の手を放して自由にすることをずっと考えていた。

 今更な感はあるが、クリスマス休暇はその第一歩であった。

 クリスティーヌがエリックを選んだとき、嬉しさと同時に彼は自分のしたことを畏れた。

 彼女の持てるもの全てを奪ってしまったのだから。

 若く美しく、天使の歌声を持つ女性の夢を、希望を、その将来を、摘み取ってしまったのだという罪悪感が彼の心を重くした。

 けれどもクリスティーヌの傍にいたかった。傍にいてほしかった。

 ・・・たったそれだけの為に今まで彼女を引き留めていたのだ・・・。

 普通の男のように愛する人の恋人になることを、夫になることを望んでいたけれど、自分がまともでないことを彼はわかっていた。

 そしてクリスティーヌが、歌姫としての成功以上に、あたたかな家庭を望んでいることもエリックは知っていた。

 私に出来ることではない。

 クリスティーヌがいつかの幼い日に祈っていたのを彼は聞いたのだった。



 「ママになりたいわ。素敵な優しい人と結婚して、何人も赤ちゃんを産むの。そうしたら、子ども達は私みたいに寂しい思いをすることはないんじゃないかしら?

 パパ、音楽は好きだけれど・・・それだけでは寂しい・・・」

 その声はエリックの心を揺さぶった。

 彼も寂しかった。考えないようにしていたが、音楽だけを友として過ごす日々のなんと単調で孤独なことか。

 ただでさえ闇の中で暮らす身だというのに、足先から寂しさという波にひたひたと侵されてゆく感覚のなんと恐ろしく気持ちの悪いものだろう。胸がむかむかして、背中にはびっしょりと汗をかく。

 そんなエリックの耳にクリスティーヌの音楽の天使をよぶ声がして、彼は耐えきれず応えたのだった。


 「ここにいる。私はここだ・・・クリスティーヌ」

 ふっと昔の記憶が蘇り、エリックはまたひとり呟いた。

 クリスティーヌが子供のままでいてくれたなら、ずっと天使でいられたのに。

 少女から娘に、娘から大人の女へとかわってゆくクリスティーヌを嬉しさとともに眺め、誇りに思うと同時に、エリックの彼女に対する眼差しも変わっていった。

 父親のように慈しむ気持ちは、いつの頃からか一人の男として女を愛するものに取って替わり、独占したくてたまらなくなったのだった。

 一連の事件の後でもそれは変わらない。ただ、更に深くクリスティーヌのことを想い、クリスティーヌの幸せを考えるようになった。

 彼女は幼なじみの求婚者ではなくエリックを選んだが、愛ゆえだと思うことは出来なかったので、

 クリスティーヌが自分の元から離れる時のことを考えて必要以上に接することはしなかった。

 すこしでも距離が近づけば、また同じように掠って奪って、彼女を追いつめてしまうことになってしまうだろう。

 それでもレッスンの時間は至福の時であった。すぐ傍にいるのに、その姿を瞳を見つめず、触れず、言葉も交わさないけれど、そこにクリスティーヌがいるだけでどれ程嬉しかっただろう。衣擦れの音、息づかい、ほのかな香りに少年のようにときめいたものだ。

 ・・・もう十分だ。十分過ぎるほど私の我が儘に付き合ってもらったじゃないか。

 エリックは自嘲した。




  3
休暇を好きに過ごすように言われたクリスティーヌは、それを拡大解釈することにしたのだった。

 「私がマスターのところに行けばいいのよ」

 クリスマス前夜、クリスティーヌは青ビロードのドレスをまとい、髪をゆったりと結い上げた。

 少しでもきれいに見えますように。

 持ち物を何度も点検して、最後に、宿り木の小枝を手提げ袋にそっと忍ばせた。


 地下室への道順はよく覚えていたけれど、水路を渡るための小舟を用意するのはメグに手伝ってもらったがなかなか骨が折れる作業だった。

 前日に小ぶりのツリーとその飾り、晩餐のこまごまとしたもの等はもう積んである。

 クリスティーヌは舟の操作もお手の物で、さくさくと目的地へと進んでいった。

 「・・・門前の小僧習わぬ経を読むってやつね・・・ふふ」

 緊張しているためか、妙な独り言を言ってしまうクリスティーヌだった。

 隠れ家へ着いてぐるりと周りを見渡したが、人の気配はなかった。所々まだらに蝋燭の炎が揺れている。

 ・・・お出掛けかしら?でもそれならかえって好都合だわ。

 暖炉のそばにコーヒーテーブルずるずると引きずってくると、自分で持ってきたクリーム色のテーブルクロスを広げた。

 暖かい料理を持ってこられないのを残念に思いながら、クリスマスのビスケットや数種類のチーズ、小さなパイ、ワインや食器をテーブルに並べる。

 それからツリーを抱えてその近くに置くと飾り付けをし、ツリーの足下にリボンをきれいにかけた小さな箱を置いた。

 中身はガラスのペーパーウェイトだ。高価ではないが、ラピスラズリのような深いブルーに金色の点が散り、夜空のように美しい品だった。

 なかなか良い出来映えだ。支度を整えたクリスティーヌはにっこりした。

 こんなことをして押しつけがましい図々しい女だと思うが、やりたいことをやってしまおう!と開き直っていた。

 マスターが嫌がるなら自分で片づけて帰ればいいことよ。それだけだわ。



 クリスティーヌは少しの間そこで大人しくしていたが、だんだんと耐えきれずに立ち上がり辺りをうろつき始めた。

 お行儀の良いことではないわね。そう思いつつ、エリックの私室の扉の前に立っていた。

 ノックをして返事がなかったが、用心して音を立てないようにゆっくりとドアを開けた。

 蝋燭が一本、サイドテーブルの上で小さくなりながらも灯りを掲げている。

 そのささやかな灯りが、寝台に横たわる人影を浮かび上がらせていた。

 部屋着姿でも寝間着姿でもなく、黒っぽい外出着を身につけたまま、仮面をつけたままでクリスティーヌの探す人がそこにいた。

 一瞬、死を想像したクリスティーヌだったが、近寄って微かに胸が上下するのを確認できるとほっと息をついた。

 「・・・良かった」

 仮面をそっと取り去る。ひきつったような皮膚、血管は浮き出ているし、唇はめくれあがっている。

 どんな顔をしていてもいいから、素顔のマスターと向かい合いたいとクリスティーヌは思っていた。仮面ひとつで彼がとても遠くにいるように感じられるからだ。

 同じ場所同じ時間に一緒にあっても、仮面がこれ以上踏み込むなという標のような気がするのだ。

 久しぶりに見た本当のエリックは、まばらな睫を濡らし、頬にも涙を流したようなあとがあった。

 「夢を見たのかしら?それとも泣きながら眠ってしまったのかしら・・・?」

 愛しさが込み上げてきて胸から溢れる。頬を撫でてキスをしたいと思うが、クリスティーヌは躊躇した。

 いくらなんでも気持ちも態度も押しつけ過ぎじゃないの?けれど、宿り木のことを思い出して、乳白色の小さな実をつけた小枝を取り出して握った。

 クリスマスだわ。

 クリスティーヌはエリックの上にかがみ込むようにすると、彼の唇に自分のそれを押しあてた。



 柔らかな感触を唇に感じたエリックは、ふっと目を開け、こぶしひとつ分ほどの距離に人があることに驚いた。

 最初に目に入ったのは、彼の愛してやまない茶色のビー玉のような瞳だった。

 「・・・クリスティーヌ・・・?」

 「・・・クリスマスおめでとう、マスター」

 目覚めると思っていなかったのだろう、クリスティーヌも驚いたように声が震え、掠れていた。

 エリックはゆっくりと体を起こして周りを見渡した。

 夢をみているのだろうか?それとも我知らず地下から這いだしたのだろうか。いいや、ここは私の部屋だ。

 「何故ここに?」

 そう言うと同時に仮面が外されていることにエリックは気付いた。

 「君はよくよく私の仮面を取るのが得意なようだ。君は私の領域にずかずかと入りこみ過ぎる!

 ここへは何をしに?哀れなエリックを慰めに?からかいに?」

 無防備な姿を晒してしまったことに、いつもそんな姿を見てしまうクリスティーヌに、彼は憤りを覚えた。

 実際、眠りに入る前、家族が集うというクリスマスという日に、暗い地下にひとりだという事実に堪えきれず、寂しさを押さえきれず、涙を流した後だったので尚更であった。

 クリスティーヌは、青とも翠ともつかない彼の瞳が遠い北の海のようにひどく冷たくて、ふるふると首を横に振るのが精一杯だった。

 エリックは冷笑を浮かべたままだ。

 「若い女性が男の寝室にいるとはどういうことだろうか。君は男のベッドを暖める趣味があるのかな?

 それなら私もあやかることにしよう。慰めにきてくれたのだろうから!」

 そう言うや否やエリックはクリスティーヌの手首を握り、ぐっと引っ張った。

 彼女はぐらりとベッドに倒れ込み、今度はエリックが被さるようにしてクリスティーヌを見下ろした。  彼の瞳は怒りと欲望でぎらぎらと光っている。

 「青髭公の城へようこそ。好奇心を満たすために秘密の部屋を開いたのは君だ。罰を受けねばね・・・なに、殺しはしない」

 にやりと歪めた唇を彼は舌で濡らした。



 「私が大事に育てた歌姫だ。私が作り上げた芸術品だよ、君は。

 天使の声、加えてその美しさ、・・・生かして楽しむべきだろう?」

 エリックは指でクリスティーヌの顔の輪郭をなぞった。まとめられていた髪からはピンが抜け落ちて 栗色の髪が白いシーツの上に乱れている。

 「ベッドの上には男と女だ。となれば、すべきことは何か解るね」

 エリックは、指をクリスティーヌの顔から首へと滑らせ、胸のふくらみにたどり着くと力まかせにそれを掴んだ。

 「・・・っ」
 ちぎられるような痛みにクリスティーヌは呻き、目を瞑った。

 「いつの間にかすっかり女の体だ。私を苦もなく受け入れてくれるだろう」

 エリックは耳元でそう囁くと、くっくと低く笑った。そして、乱暴にスカートの襞を押しやり、幾枚も重ねられた下着を剥ぐようにして、目指すものをさぐりあてた。

 目を閉じて声もたてず、体を硬くしているクリスティーヌを無視して、エリックは一言の声も一片の優しさも見せず、いきなり己のいきり立ったものを彼女の中に沈めた。

 ぎりぎりと体を裂かれるような痛みにクリスティーヌは耐えていた。

 どうしてこんなことになってしまったのだろうと考える余裕などなく、ただただ怖かった。

 この行為が、マスターの瞳が、声が、冷たい手が。



 エリックはクリスティーヌを傷つけたかった。

 エリックの涙を見たのだ、仮面を取ったのだ、この女は!私の世界に許可なく入り込んだのだ。

 守ってくれるものもなく、自分で自分自身を守ってきたエリックの隙間なく塗り固めてきた自尊心はクリスティーヌの前ではひどく脆いもので、彼にもそれが良くわかっていた。良くも悪くもクリスティーヌはエリックに強く影響する。

 自尊心という壁が壊れれば、傷つきやすいままのエリックがそこにいる。自分が傷つく前に傷つけてしまえ。

 「・・・君が望んでここへ来たのだ」

 クリスティーヌの中は固くきついものだったけれど、エリックは彼女の肩を押さえつけたまま、欲望 のおもむくままに動き、頂点に達するとその中で全てを解き放った。

 それが済むと、彼は着ていたシャツを脱ぎ、ぬめぬめとした体液をそれで拭き取った。

 衣装箪笥から新しい着物を取り出して身なりをきちんと整えてから、寝台の上でぼんやりとしている クリスティーヌに、凍えさせるような声で言った。





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