558 :フランソワーズ :2006/01/14(土) 22:28:35 ID:FQ+hqWsr

パリのお店へ出掛けた日から、お母様はぼんやりと物思いに沈まれることが多くなった。

何かの拍子にふと眸が遠くを見つめ、心は他所の世界を彷徨っておられるのが分かった。

そんな時、私はただ黙ってお母様を見つめる。気がつくと、お父様もまた、そうしていら

した。

「フランソワーズ、おいで。馬に乗せてあげよう」

お父様と私は、静かに部屋を出て厩舎へ向かう。さっき見たお母様のことには触れず、私

はお父様との乗馬を楽しむ。


小さい頃からそうしてきた。私は美しくて優しいお母様が大好きだったけれど、お母様の

心の奥深くには、決して入り込むことのできない扉があるように感じていた。お父様も、

そのことをご存知だった筈だ。お父様は私をたいそう可愛がってくださり、私もお父様が

大好きだった。そしていつしか私たちは、口に出さない秘密を共有する者同士になってい

たように思う。きっとお父様は、その理由を知っていらしたのだろう。私には分からなか

ったけれど……、あの日までは。


お母様はその冬にお風邪を召され、年が明けてようやくベッドを離れることがおできにな

った。私はお父様とお母様に、南へ避寒に行かれることをお勧めした。お母様はパリを離

れられた方がいい、お父様と二人きりで、しばらく過ごされるのがいいと思ったから。そ

れに、私にはその間にしたいことがあった。メグ小母さまにお会いしたかった。お会いし

て、お母様の秘密について伺うつもりだった。


出発の朝、お二人を玄関でお見送りした。私はお父様に、内緒話のように話しかけた。

「お父様、お二人でうんと楽しんで、お母様の憂鬱を吹き飛ばしていらしてね」

お父様は私を抱き締めてくださった。

「ありがとう、フランソワーズ、私の可愛いお姫様。お土産は何がいいかな?」

「何も。その代わり、お帰りになったら子馬を飼ってくださる? 私も乗馬を習って、お

父様と並んで走ってみたいの」

「お転婆なお姫様だね、フランソワーズは。その話は帰ってからゆっくり相談しよう」

お母様にも抱きついて、小声で話しかけた。

「お母様、新婚の頃に戻られたみたいに、お父様にうんと甘えていらしてね」

「ま、この子ったら……。でも、ありがとう、フランソワーズ」

お母様は、頬を少し薔薇色に染められた。

「弟のことは私にまかせて。何も心配いらないわ」

お母様と離れるのをいやがってぐずり始めた弟の手をしっかりと握り、私はお二人の馬車

を笑顔で見送った。それが、お父様、お母様との最後のお別れになってしまった……。


お父様とお母様が、旅行中に馬車の事故でお亡くなりになってから、三カ月近くが過ぎた。

その間のことは、あまりよく覚えていない。初めは信じられなかった。けれども……、お

二人の棺が戻ってきた時、私は泣きじゃくった。私が旅行なんて勧めなければ良かったの

かと、自分を責めた。同行していた召使いの話で、お父様とお母様はとても仲睦まじく、

お幸せそうだったと聞いて、少しだけ心が慰められた。よく知らない親戚の人たちも現れ

た。お葬式はしめやかに行われ、お父様とお母様は敷地の奥にある墓所で、永久の眠りに

就かれた。


それから、大変なことが起こりそうになった。親戚の人たちが、私は修道院の寄宿舎に入

るべきだと言い出したのだ。私の言うことには、いっさい耳を傾けてくれなかった。いっ

そ家出でもしようかと思った頃、私と弟の後見人になることを名乗り出た方が現れた。正

確に言えば、その代理人という人が……。それからは、何がなんだか分からないうちに物

事が進んでいった。そしてとにかく、私は今までと同じ暮らしを送れることになった。私

は救われた。……十歳の女の子が経験するには、ずいぶんと目まぐるしい三カ月だったと

我ながら思う。



後見人となってくださった方にお会いする数日前、私はパリの街へ出掛けた。執事と厩舎

係をなんとか説き伏せての、久しぶりの外出だった。「エステルの店」の前で馬車を降り

た私は、一人でお店の前に立った。

……なんだか、あの時とはちょっと様子が違う。

お店を眺めていて気付いた。お店の名前の横に、黒いリボンが結ばれた深紅の薔薇の絵が

なかった。窓辺にも違うお花が飾られていた。少し不安になったけれど、私はお店の扉を

開けた。そこには、あの時の優しそうなマダムがちゃんといらした。

「こんにちは……」

「いらっしゃいませ、……まあ、あの時のお嬢様でいらっしゃいますね」

「覚えていてくださったの。嬉しい! あの……、今日はあなたにお話があって……」

「どうぞ、お入りくださいな。お一人でおいでになったのですか? お母様は……?」

「お母様は……、三カ月ほど前にお亡くなりになったの。事故で、お父様とご一緒に……」


マダムは息を呑み、手で口を押さえられた。

「申し訳ございません、不躾なことを……」

マダムは心から謝られ、お悔やみの言葉を掛けてくださった。少し目を潤ませていらした。

優しくしてもらい、私まで涙が出てきてしまった。

「ごめんなさい、私の方こそマダムにお気を遣わせて……。でも、もう大丈夫です。今日

は違うお話があって……、いえ、少しは関係あるけど、聞いてもらえますか?」


お店では落ち着かないからと、マダムのお部屋に案内していただいた。お店の方は、とき

どき手伝ってもらっているという女の人を頼んでくださった。

「お嬢様のようなお方にこんな狭苦しいところで、申し訳ございません。でも、こちらの

方が、お話しするには宜しいかと思いまして……」

「いいえ、とても落ち着ける素敵なお部屋だわ。突然に訪ねてきて、ごめんなさい。私の

ことはフランソワーズって呼んでください」

マダムが勧めてくださったショコラをいただきながら、私は自分の名前を名乗った。

「……承知いたしました、フランソワーズ様。私のことはエステルでけっこうでございま

す。で、お話とは……?」



私は、今までのことから話し始めた。

「両親が亡くなったら、普段は付き合いもなかった親戚の人たちが現れて、私を修道院の

寄宿舎に入れようとしたんです。跡継ぎの弟がいるから、女の私には財産を分けるべきで

ないって……。弟は可愛いけれど、私は絶対に、そんな所に入るのはいや! でも、私の

言うことなんて、聞いてもらえなかったわ……。

そうしたら、ある日、さる実業家の代理人という人が現れて、よくは分からないけれど、

その実業家の方が後見人となってくださり、私は今までどおり暮らしていかれるようにな

ったの。シャニュイ家のことは、三歳の弟が大きくなるまで、執事と代理人の人が管理し

て、悪いようにはなさらないって。親戚の人たちも帰っていったわ。きっと何か言い含め

られたか、お金を貰ったかしたのね」


「それで私は助かったのだけれど、後見人がどなたなのか、心当たりもなくて……。代理

人という人に聞いても、はっきりとは教えてもらえませんでした。ただ、両親の古い知り

合いで、今はアメリカで暮らしておられるのだとか。それで、思い出したの。以前にここ

へ伺った時、お母様とあなたが話していらしたことを。……ごめんなさい、少しだけ聞こ

えちゃったの。その方もアメリカに住んでおられると、おっしゃってましたよね? お母

様は安否を尋ね、涙を零していらした……。私には秘密になさりたいのだと思ったから、

お母様には何も伺わなかったわ。でも、深紅の薔薇を見てはっとなさったり、薔薇の刺繍

のハンカチも買ってくださらなかった……。それで、後見人になられた方と、その方は、

同じ人じゃないかしらと思いついたの」


エステルさんは、ただ驚いたように私の話を聞いていらした。

「……私ね、こう見えても察しがいいの。お母様とお父様はとても仲が良くて、お互いに

慈しみ合っていらしたわ。でも……、お母様はときどき、遠くを見つめてぼんやりなさっ

ていることがあったし、お父様はそれに気付かれても、ちょっと寂しそうなお顔をなさる

だけで、お母様を問い質したりなさらなかった。だから、過去に何かあったのかなと……」


「私ね、代理人の人にせがんで、後見人となってくださった方に、どうしても直接お礼を

言いたいので、一度でいいから会わせてくださいってお願いしたの。とても困ったご様子

だったけれど、雇い主であるその方に連絡を取ってくださり、ついにお会いできることに

なったんです。その時……、エステルさんもご一緒なさいませんか?」



「なぜ……私も?」

エステルさんは低い声でおっしゃった。

「だって、エステルさんもその方をご存知なのでしょ? だから、薔薇の絵を描いたり、

刺繍のハンカチを作られたのでしょ? きっとエステルさんも、お会いしたいのじゃない

かと思ったの……」

「後見人という方が、私の存じ上げていた方と、同じ人かどうかは分かりませんが……、

もしそうだとしても、私はお会いしません。その方も、それは考えておられないでしょう。

フランソワーズ様のお心遣いには感謝いたしますが……」

エステルさんは少し青ざめたお顔でそう言われ、唇を噛み締めて目を伏せられた。

「ごめんなさい、子供の私が出すぎたことを言って……。分かりました。私は一人でその

方にお会いします。そして……、エステルさんはお元気ですってお伝えします」

私がそう言うと、エステルさんは泣き笑いのような表情をなさった。

「……ありがとうございます。私からも、ご無事でなによりです、……これからもお元気

でと、お伝えください」


馬車に揺られて帰りの道を辿りながら、エステルさんの言葉を思い出す。

……エステルさんは、後見人の方をご存知なのだわ。そして本当は、お会いしたいのに違

いない。だって、エステルさんはきっと……。でも、理由は分からないけれど、その方と

はもうお会いしないと決められたのね。だから、お店から深紅の薔薇をすべて消されたの

だわ。エステルさんはお強くて、……寂しさに堪えていくと、決めておられるのね……。

これからお会いする後見人という方は、どんな人なのかしら。お母様のお心に、そしてエ

ステルさんのお心にも、強い何かを残された方……?


メグ小母さまの言葉が蘇ってきた。

「私もね、そんなに詳しく知っているわけじゃないのよ。クリスティーヌとは小さい時か

ら姉妹のように育ってきたけれど、彼女には夢見がちというか、私にはよく分からないと

ころがあったから……。あのお店のことはモード誌で見つけて、一応クリスティーヌに知

らせたのだけれど、余計なことだったかしら。フランソワーズ、私もあなたみたいに知り

たがり屋で、好奇心旺盛な子供だったけれど、世の中には知らずにいた方がいいこと、詮

索しない方がいい秘密もあるんだわ。今はそう思うようになったの」


「でも、これだけは覚えておいてね。あなたのご両親は、ラウルとクリスティーヌは、幼

い恋人同士で、再会した後もそれは深く愛し合い、お互いに慈しみ合ってきた。それは確

かよ。誰にだって秘密の一つくらいあるわ。クリスティーヌのそれは、きっと哀しいもの

だったから、心の奥に封印したのだと思う。それをラウルも理解しているのよ」


お母様が胸に秘めておられた哀しい思い出……、それを探り出そうとするのはもう止めよ

うと思った。それでも、お父様とお母様の古い知り合い、数日後にお会いする後見人とい

う方に、私は強く惹きつけられていくようだった。



当日がやって来た。お昼すぎに代理人の方が、馬車で迎えにいらした。執事に見送られ、

私は後見人の方が待っておられるという屋敷へ向かった。

「ご主人様は、先ごろ少し体調を崩されましたし、外出をあまり好まれないのです。あな

たを部屋へご案内したら、私は下がらせていただきます。ご主人様がおいでになるのを、

そこでお待ちください」

その屋敷は、今回のために用意なさったのだという。お茶とお菓子を用意し、私に椅子を

勧めてくださった後、代理人の方は部屋を出ていかれた。


私が通された客間の窓はカーテンが半ばまで引かれていて、部屋は薄暗かった。上品な調

度が整えられ、正面の壁には大きな姿見がある。気持ちを落ち着かせようと、私はお茶を

一口飲んだ。

……まだ、おいでにならないのかしら。そう思った時、どこからか声が聞こえてきた。

「初めまして、マドモワゼル。……君がフランソワーズだね?」

びっくりして辺りを見回した。

「どなた……? どこにいらっしゃるの?」

「ああ……、驚かせてしまったね、すまない。私は後見人となった者だ」

低くて深みのある、落ち着いたお声がそうおっしゃった。

「まあ……、あの…、はい、私はフランソワーズ・ド・シャニュイと申します。このたび

は私と弟の後見人になってくださり、そして、私が修道院へ行かなくてすむようにしてく

ださり、本当にありがとうございました」

考えてきたお礼の言葉を、私はなんとか言うことができた。でも……、まさか、こんな形

でお会いするとは、思ってもみなかった。

「あの……、お姿を現してはいただけないのですか? 私は、直接お会いして、お礼を申

し上げたかったのですが……」

「……私は、少し変わった様子をしているので、君を怖がらせてしまうかもしれない。こ

のままで話をした方が、良いのではないかと思ったのだ……」

「そんな……、私はお会いするのを心待ちにしてきたのです。どうかお姿を現してくださ

い。それに……、今のお言葉を伺って、もう心の準備をしました。私はそんなに怖がりじ

ゃない。むしろ弟よりもずっと勇敢だわ」

そう言って微笑んでみせると、お声の主も低く含み笑いをなさったようだった。

「そうなのか? ……では、そちらへ伺おうか。少し待っていてくれたまえ」


ゆっくりした足音が聞こえ、客間の扉が開かれた。そこには、お父様よりも背の高い、大

きな男の方がいらした。その方の眸を食い入るように見つめてしまう。蒼とも碧ともつか

ない不思議な色の眸で、吸い込まれてしまうような心地がした。

「やはり驚かせてしまったようだね、すまない……」

「あ、違うんです。あなたの眸があんまり不思議なお色で……、見とれてしまったの。ご

めんなさい、失礼なことをしてしまって……」

その方はお父様よりもお歳が上のようで、黒いフロックコートをお召しになり、クラヴァ

ットもやはり黒だった。そして……お顔の右側に白い仮面を付けていらした。先ほどおっ

しゃったのは、このことだと思う。本当は少し驚いたけれど、私は心の準備をしていたし、

……もう長いこと付けていらっしゃるように、仮面はお顔になじんで見えた。何か事情が

おありなのに違いない。私は好奇心が強いけれど、尋ねてはいけないことがあるのを知っ

ている。



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