674 :ファントム×クリスティーヌ(二年半後) :2006/01/24(火) 21:35:15 ID:/ZPBYf0g
北駅でクリスティーヌを見送ってから二年半が過ぎた。

私は長年ひとりで住み、そして最後のふた月ほどを妻と暮らした地下の住処を出て、

ひとりで住むのには広すぎるアパルトマンで暮らしている。

私の仕事はオペラ座付きの作曲家……ジリー夫人の口添えにより、

クリスティーヌとの結婚に破れた後だったにもかかわらず、

オペラ座と正式に契約を交わしてからもう二年あまりになる。


私の住む部屋は二階にあるので、それほど眺望がよいわけではないが、

向かいにあるふたつの建物の隙間からサン・ピエール教会の尖塔を見ることができ、

作曲の合間にその尖塔を眺めるのが私の唯一の気晴らしであり、慰めである。

今もその尖塔を眺めながらお茶を飲んでいるところだ。


そこへ呼び鈴が鳴る音がする。

せっかくのお茶を邪魔されたくないので無視しようかとも思ったが、

今日の午後は水売りに水を運ぶよう頼んでおいたので、

おそらくいつもの男が来たのだろう。


扉を開けてみると、果たしてそこには水売りが立っていた。

「こんちは、旦那、……運ばせてもらいますよ」と言って、

水売りがずかずかと上がりこんでくる。

私はできる限り他人との接触は避けたくて、この一年半ばかり同じ水売りに

頼んでいるものだから、最初のうちは怖々といった風だったこの小男も

今ではすっかり慣れたものだ。

何往復かして水瓶をいっぱいにした水売りに代金とかなり多めの心づけを支払う。

私のところに来るのに今ではすっかり慣れたようだが、そうはいってもこの男にとって、

私は積極的に商売したい相手ではないのは確かなはずで、

それでもここに来てもらうためには普通の人よりも多くのものを与える必要があった。


「いつもすいませんね、」と言いながら代金と心づけを受け取った男が、

「そういやね、旦那、ここに来る途中、旦那のことを聞いているご婦人がいましたよ、

……あれは多分、旦那のことだろうと……、この界隈に旦那みたいなお人って

そうはいねぇからね」と言って、帽子をちょっと取るような仕草をして出て行った。

私のことを聞いている女……、そう聞いて真っ先にクリスティーヌのことを

思い浮かべる自分をまずは嗤う。

おおかたジリー夫人に頼まれごとでもしたオペラ座の誰かであろう。


ふたたび呼び鈴が鳴る。

二度もお茶を邪魔され、今度こそ無視したいが、さっきの水売りがなにか

忘れものでもしたか、彼の言っていたご婦人とやらだろうと思い、席を立った。


扉を開ける。

…………そこには、クリスティーヌが立っていた。


ああ…………、クリスティーヌ…………。

時間と鼓動が止まる。


幾度夢見たか知れないあの美しいはしばみ色の眸がゆっくりと上がり、

あの愛らしい薔薇色の唇がゆっくりと動く。

「マスター……」

北駅で別れて以来、頭のなかで何度も何度も反芻した愛しい懐かしい声を、

私は二年半ぶりにこの耳で聞いた。


「マスター?」

クリスティーヌが怪訝そうな声音で私を呼ぶ。

「クリスティーヌ……、」

クリスティーヌの名を呟くように呼んだきり、私は夢にまで見た愛しい女を

眼前にして、その場で立ち尽くしていた。

何か言わなければと思っているのに、言葉が出て来ない。

「…………」

「マスター……、あの、お忙しいようなら出直しますわ……」

「あ、いや、これは……、失礼した……、」

時間が流れを取り戻し、心臓がふたたび動き出す。

クリスティーヌの白い小さな日傘を受け取り、彼女を部屋に招じ入れた。


客間というほど客などありはしないが、居間ではなく、普段使っていない客間に通す。

お茶を用意して戻ると、クリスティーヌが窓辺に立って外を眺めていた。

あいかわらず後ろ姿も美しい……、髪を上げているせいで

白く透き通るようなうなじがさらに際立って、なだらかな肩のラインもたおやかだ。

彼女もあの尖塔を見ていたのだろうか……。

「まぁ、マスター……、ありがとうございます、どうぞお気遣いなく……」

振りかえったクリスティーヌに椅子をすすめる。

脇の小卓に帽子を置いて椅子に掛けたクリスティーヌをつくづくと打ち眺めた。


二年半という月日は彼女をすっかりおとなにしていた……、どこへ出しても

恥ずかしくない、貴婦人のような佇まいにこちらがどきまぎしてしまう。

カップを持つ手つきも、口元にカップを持っていく仕草も、以前のクリスティーヌとは

違って、愛らしいというよりは優雅とさえ言ってよいような雰囲気がある。


しばらく黙ってお茶を啜っていたが、音もさせずにカップを置いたクリスティーヌが

意を決したように口を開いた。

「あの、今日はご挨拶に参りましたの……、わたし、今度イタリア座で

歌うことになりましたので……」

どこか探るような目つきで言うクリスティーヌを見て、

まさか、私の送った教師のことでなにか言いに来たのだろうかと思う。


クリスティーヌがウプサラからラニョンに着く頃を見計らって離婚証明書と扶養給付を

届けさせたが、そのとき使いにやった者から彼女があまりに悄然とした様子でいると聞き、

せめてなにかしらの気晴らしになればと思って、すぐに声楽の教師を手配したのだ。

……心のどこかに、私とクリスティーヌとの唯一の繋がりであった歌を

忘れて欲しくないという気持ちがあったことも確かではあるが……。


もちろん、私の名前は出していない。

パリで彼女の声に惚れこんでいた貴族がその才能を惜しがって教師を手配した、

ということにしてある。

教師といっても、かつて私がクリスティーヌに施していたような本格的なものではなく、

定期的に歌を歌うためだけのレッスンでよいということにしておいた。

実際の手配をしてくれた人間が、ごくたまに彼女の様子を報せてくれることもあったが、

基本的に私は彼女について知る権利などないと考えていたので、極力そういったことは

聞かずにいた。毎月の扶養給付も彼女の口座への振込みにしているくらいだ。

そうはいっても、余程のことがあれば報せてくるだろうから、

報せがないということは毎日をつつがなく過ごしているのだろうと思っていた……、

だから、まさか彼女がこのパリの劇場に戻ってくるなど思いも寄らなかったのだ。


「そうか……、それは良かった……。おめでとう。オペラ座ではなく、イタリア座なんだね……?」

「ええ、オペラ座には長期契約のカルロッタがいますし……、それに紹介してくれた人もあって」

クリスティーヌが私の目をじっと見つめるようにして言う。

「そうかね、おまえの歌は素晴らしかったからね、その才能を惜しんでいるファンも多かったんだろう」

「ええ……、」

そう言ったきり、口を噤んで俯いてしまったクリスティーヌが黙ってお茶をすする。

北駅で別れたときよりもずっとよそよそしい感じのするクリスティーヌを

どこか寂しい気持ちで眺めた。


「マスターは……、あれから、どうなさっておいででしたの……? 

わたし、まさかマスターがこちらにお住まいだとは思いませんでしたわ……」

注ぎ足してやったお茶を半分ほど飲んだところでクリスティーヌがふたたび口を開いた。

「いや……、もう、あの地下には住めないし、といって、私はそういくつも色んな部屋を

見て廻って契約するということはできないからね……、だからこちらに住むことにしたのだ……」

そう答えたが、半分は真実であり、半分は嘘だと言えた。


地下にそのまま住むことは確かにできなかった。

あの居場所を多くの人に知られてしまったし、またクリスティーヌのために様々な仕掛けも

すべて解除してしまっていたので、もうあそこに住んでいる意味はない。

それに、オペラ座付きの作曲家として契約するにあたって、

その地下に住んだままというわけにもいかなかった。


しかし、本来はクリスティーヌと新婚生活を送るはずだったこの部屋に

ひとりで住むのはあまりにつらく惨めで、本当は別の部屋にしようかとも思ったのだ。

ただ、私のもとにあるクリスティーヌの思い出の品といえば、彼女が置いていってくれた

手編みのレースのほかは、ふたりの結婚式で彼女が着た花嫁衣裳とヴェール、

それからこの部屋に用意した何着ものドレスや帽子、靴といったものしかなく、

それすら彼女が袖を通したものというわけではなかったが、

それでも思い出の品といえばそれらしかなかった。

別の部屋に住むということにした時、レースはともかくとして、

花嫁衣裳や袖を通すひともないドレスを持っていくべきか、処分するべきか、

どうにも判断のしようがなく、それでしかたなくこの部屋に住むことにしたのだった。


この部屋に住んで以来、時折、彼女のクロゼットを開けては花嫁衣裳を手に取って

眺めたりしていた。

そして、そのたび、その衣装を着けて私の隣に立っていたクリスティーヌの

俯いた愛らしい横顔やこの衣装を解いていったときのクリスティーヌの初々しい様子などを

思い出し、激しい後悔に苛まれていた。

私は、この世でたったひとり心の底から愛しいと思い、

そして、やはりこの世でたったひとり私を愛してくれたクリスティーヌを

己のつまらない猜疑心と際限のない嫉妬心とで永久に失ってしまったのだ。

それでも……、激しい後悔に苛まれたとしても……、

窓から見えるサン・ピエール教会の尖塔や次の間のクロゼットにおいた花嫁衣裳と

ヴェール、彼女がとうとう一度も袖を通すことのなかった幾枚ものドレス、

そして、私のベッドに掛けられた彼女の手編みのレースといった、数少ない彼女の

ゆかりの品々を見ながらクリスティーヌのことを想わない日など一日としてなかった。


そのクリスティーヌがいま、目の前に座ってお茶を飲んでいる。

ああ、私は何度この部屋にいる彼女の姿を想像しただろうか。

己が穢し、傷つけたことで失ってしまったこの部屋の女主人を、

私はそれこそ日ごと夜ごとに想像していた。

この部屋の窓辺、この部屋の椅子、この部屋の食卓……、あらゆるところにクリスティーヌはいて、

私の想像のなかの彼女はいつも優しい笑顔で私を見つめ、優しい声音で私を呼んでくれる。

しかし、現実のクリスティーヌはやはりどこかよそよそしい風で、

「そうでしたの……、でも、あの地下のお住まいよりこちらの方がずっとよろしいですわね、明るくて」

などと言ったりしている。


もう、おまえには私への愛情などひとかけらも残っていないのだろうか……。

この部屋はおまえと私のふたりで住むはずだった部屋……、

おまえとて、それは知っているではないか……。

なのに、そのまるで他人事のような言い方は一体どうしたことなのか、

おまえはこの部屋に来て、なんとも思わないのだろうか……。

やはりおまえは私を恨んでいるのだろうか、いや、恨まれて当然か……。


北駅で別れて以来、二度とクリスティーヌに会うことはないだろう、

仮に彼女の住む家がどこだかわかっていたとしても、決して彼女の姿を見に行ったりは

すまいと心に決めて、事実、彼女の様子を報せてくれようとするシャニュイ子爵の好意も断って、

私は現実のクリスティーヌのことには、毎月の扶養給付の支払いと音楽教師への謝礼以外には

一切関わらないようにしてきていた。

だからといって、こうして目の前にいるクリスティーヌのあまりに他人行儀な様子に接して、

私の心が傷つかないということはないのだ。

……私はまだ、いまでもなお、強くクリスティーヌを愛していたから……。


「イタリア座へは、ビアンカロリさんのお友達という方が紹介してくださったのですけど……、

マスターはビアンカロリさんをご存知ですかしら……?」

突然、クリスティーヌが言い出した。

ビアンカロリ……、私が手配した声楽教師がそんな名前のはずだった。

しかし、私がしたのはシャニュイ子爵に頼んで教師の手配を頼んだことだけで、

つても何もない私としては身を低くして彼に頼むしかなかったのだが、

彼がクリスティーヌのために探し出してくれる人物について、よもや間違いなどあるはずもない、

きっと最も適当な人物を探し出してきてくれるはずだという思いもあり、

自らその教師に会ってみることなどしなかったから教師の名前など一度聞いたきりだったような気がする。


「さぁな……」

そう答えると、クリスティーヌがじっと私を見つめて、

「あら、そうでしたの……、マスターはビアンカロリさんをご存知かと思っていましたわ」と言った。

「どうして私がそんな男のことを知っていると思うのかね?」

やや皮肉っぽく聞くと、クリスティーヌも同じように「いえ、別に」と答える。

「マスターは今やオペラ座付きの作曲家だとお聞きしましたので、

同じ世界の方のことですし、ご存知かと思っただけですわ」


よそよそしい態度に思わせぶりな話し様……、クリスティーヌは一体ここへ何をしに来たのだろうか。

少なくともビアンカロリという音楽教師を送ったのが私であるということには

うすうす気がついているようで、しかし、確信がないせいかも知れないが、

彼について特別なにがしかの文句なり礼なりを言いたいというわけでもなさそうだった。


「では、わたしはそろそろおいとま致しますわ……、

お仕事のお邪魔を致しまして申し訳ありませんでした」

そう言ってクリスティーヌが立ち上がる。

扉のところでパラソルを渡すときに、ほんのわずかに彼女の指先が触れた。

ああ、もう二度と触れることのないと思っていた彼女の肌……。


扉の外でクリスティーヌを送り出す。

「マスター……」と言って彼女が手を差し出した。

その手を取り、口づけたかったが、握るに留めておいた。

クリスティーヌは差し出した己の手を握る私の手をじっと見つめたあと、

「どうぞ、マスターもお元気で……」と言って階段を降りていった。


彼女の姿が消えるまで、私はじっと階段を降りていくクリスティーヌの後ろ姿を見つめていた。

ホールになっている階段室に彼女の靴音が反響し、天井近くに設けられた窓から射す薄日が

彼女の背を照らす。帽子の羽飾りがすげなく揺れる。

もしも、もしも彼女がふり返ってくれたなら、一度でいいからふり返ってくれたなら……、

そう思いながら、白い石造りの階段を一段一段と降りていく彼女の姿を

北駅で列車を見送ったときと同じくらい哀しい気持ちで見送った。

一度もふり返ることなく階段を降りていったクリスティーヌの姿が消えた瞬間、

私はその場にがっくりと膝をついた。


イタリア座で歌うのか……、私がもしも普通の人のようであったなら、

おまえの歌う姿を見に行くこともできるだろうに……、オペラ座ならともかく、

イタリア座ではどうすることもできないではないか……。

おまえの将来を思えば、おまえがこのパリにいるとわかっても、

私はおまえの住むところを探し出したりはしないし、イタリア座へも決して近づくまい。

だが、この同じパリの空の下にいるとわかっていて、

おまえの姿を見ることすらできないとは何というつらい戒めだろうか。




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