こつこつと階段を上がってくる靴音がする。ひとつ上の階に住む代訴人の奥方だろうか、

いや、あの靴音は……、まさかと思って顔を上げるとクリスティーヌが数段、

階段を降りたところに立っていた。

「クリスティーヌ……?」

クリスティーヌがもう一段階段を昇って、私を見下ろした。

「マスター……」

クリスティーヌが私を呼ぶ。

「…………」

「マスター……」

もう一度私を呼びながら、クリスティーヌも階段に膝をつく。

「マスター……、マスターはもう、わたしのことなど、お忘れになって……?」

私と同じ高さになって、様子を窺うようにおずおずと私を見たクリスティーヌの

眸を見て、私は思わず叫んだ。

「忘れるわけなどないじゃないか! ……愛しているとも! 

愛しているとも……、愛しているに決まっているじゃないか……、

愛していないわけがないじゃないか……」

涙で声がつまってしまい、最後のほうは呟くように語尾がかき消えてしまった。


クリスティーヌが小さい鞄からポマンドールを取り出した。

銀細工の蓋を開けるとかすかな薔薇の香りがした。

なかから小さくたたんだ紙切れを取り出し、広げる。

それは私が彼女に届けさせた離婚証明書だった。

涙をこぼしつつ、彼女の手の動きをじっと見ていると、

広げた証明書を縦に細く割いていく。

いくつかの帯にわけられたそれを横に持ち替え、さらに小さくちぎっていった。

ばらばらになった紙片が彼女の小さい手からこぼれ落ちていく。


最後の紙片を捨てたクリスティーヌの腕が伸びてきて、私の首筋に絡みつく。

そして……、そして私は、彼女の優しい声が私の耳元でこう言うのを聞いた。

「わたし、今でもあなたの妻よ…………!」


クリスティーヌの言葉が胸に落ちるまで、どのくらい掛かっただろうか。

わたし、いまでも、あなたの、つまよ……、わたし、いまでも、あなたの、つまよ……、

わたし、今でもあなたの妻よ……。

「クリスティーヌ…………」

彼女の名を呟いたきり声も出ず、ただただクリスティーヌの顔を見つめた。

「わたし、今でもあなたの妻よ」

もう一度同じ言葉を繰り返した彼女の頬を滝のように涙が流れ落ちていくのを、

どこか遠いところで起こっていることのような気がしながら見る。

ついさっき、階段を落ちていった紙片の幾枚かが下から上がってくる

かすかな空気の流れにのってホールを舞っている。

その白い小さい紙片が舞う様子を、まるで天使の羽根が天から降ってきたようだと

思いながら、溢れる涙で霞むその光景を不思議な気持ちで眺めた。


彼女の髪、彼女の額、彼女の頬、彼女の耳、彼女の首筋、彼女の鎖骨、彼女の腕、彼女の指……、

かつて私が責め苛んだ箇所に口づける。

口づけながら、悔恨の涙が溢れ、彼女の身体に落ちていく。

彼女の指の一本一本に口づけをおくると、クリスティーヌがその指で私の頬を撫でてくれた。

その手に、己の手をそっと重ねる。睫毛を顫わせながら私を見上げたクリスティーヌと目が合い、

私たちは互いに視線を絡めながら近づいていき、先に眸を閉じたクリスティーヌの唇に

私はそっと自分の唇を重ねた。

甘く、やわらかく、温かい彼女の唇……。

ああ……、何度この唇を夢見たことだろう。

私に愛を囁き、私に向かって微笑み、私に口づけをくれる唇……。

私が永遠に失ったと思っていた唇……。

今でも私の妻だと言ってくれたこの愛らしい唇…………。

その唇が今、私の唇と重なっているのだ……。


唇を触れ合わせるだけの優しい口づけを幾度か繰り返す。

彼女の温かい舌に触れたくて、そっと彼女の唇を舐めてみる。

戦慄くように彼女の唇が顫える。そして、開かれた唇の間から深く舌を挿しいれた。

優しく舌を絡め、そっと舌先を吸う。クリスティーヌも私の舌に優しく舌を絡めてくれ、

やはり舌先を吸ってくれる。

初めての夜にも私たちはこうして少しずつ互いの唇を許しあっていったのだったなと思い出した。


深い口づけにうっとりと私を見上げたクリスティーヌの乳房にそっと触れてみる。

「ああ……、マスター……」

恥ずかしそうに声を上げたクリスティーヌの白い乳房がかすかに顫える。

「クリスティーヌ……、愛している……、愛している……」

クリスティーヌの乳房にそっと頬を寄せながら呟く。

私の涙が彼女の白い乳房に移って、肌を濡らしながら下へと落ちていく。


透きとおるように白く、はりつめて重量感をたたえた乳房、蒼く浮き出た静脈、

あいかわらず色づきの薄い乳暈、そしてその頂で硬く熟した小さい果実……。

かつて地下で抱いたときと変わらず初々しいクリスティーヌの乳房にそっと唇を寄せた。

いくつか口づけを落とす。

なだらかな腹に口づけ、そして、薄い繁みにも口づける。

クリスティーヌがかすかに顫え、目を上げると彼女の視線とぶつかった。

恥ずかしそうに目を反らしたクリスティーヌの身体に手を掛け、ゆっくりとひっくり返す。

白い背中に手を這わせる。なめらかな肌理細かい肌がしっとりと吸いつくように手に触れ、

手で触れたあとを追うようにして背にも口づける。

細くくびれた腰にも、真白く張りつめた臀にもそっと唇を寄せる。

ふっくらと盛り上がった丘に私の涙がこぼれ、ゆっくり下へと落ちていく。

かすかに腰を捩ったクリスティーヌの臀のまるみに沿って唇を這わせ、

そして、そのまま大腿の裏、膝裏、ふくらはぎへと唇を移していった。


「クリスティーヌ、こうしておまえのひとつひとつに口づけできて、

とても嬉しかったよ……、おまえの身体にこうして優しく触れたかった…………、

その願いがかなったのだ、私はもう何も思い残すことはないよ……」

そう言いながら起き直ると、クリスティーヌを抱き起こし、強く抱きしめた。

彼女のやわらかい乳房が私の胸に押しつけられる。

彼女の甘い香りがふわりとたち昇り、その香りに包まれて抱きしめあっているだけで、

クリスティーヌへの愛しさと感謝とが募ってくる。

あれほど酷いことをしたこの私をまだ夫だと言ってくれたクリスティーヌ……。


だが、まだ彼女が私から解放されていないというのなら、

まだ私に囚われたままでいるというのなら、今度こそ私から解放してやらねばならない。

彼女はこの秋からイタリア座のプリマドンナになる身なのだし、

それが、私がクリスティーヌにしてやれる唯一のことだから……。


クリスティーヌが寝室に行きたいと羞恥に顫えながら言ってくれたとき、

私はもう一度だけ彼女の美しい裸体を目に焼き付けたいと思い、

かつ初めての夜以外はただ苛むだけだった彼女の身体に優しく触れ、

口づけて赦しを請いたいと思ったのだ。

そして、彼女とじかに肌を触れ合わせ、その柔らかさを、

その温もりを身体中で記憶したいと思ったのだ。

それ以上のことは私には許されていないのだから……。



「マスター…………、どうして……?」

私に抱きしめられたまま、悲しげに声を上げたクリスティーヌを

さらに強く抱きしめて言う。

「ありがとう、クリスティーヌ……、

今でも私の妻だと言ってくれたおまえの気持ちは本当に嬉しかったよ……、

もう二度と見ることはないと思っていたおまえの顔を見られただけでも充分嬉しいのに、

こうして私に身をまかせてくれて……、おまえには感謝してもしつくせない、

本当にありがとう……」

もう二度と触れることはないと思っていたクリスティーヌの肌に触れることができただけで、

私にとってはもう充分だ。そう思っても自然と涙がこみ上げてきて、彼女の肩先にこぼれる。

「ありがとう、クリスティーヌ…………」


クリスティーヌの眸からこぼれたらしい涙が私の肩にも落ちてくる。

温かい涙が幾粒も肩先にこぼれ、それが胸にまで伝って彼女自身の胸をも濡らす。

「どうして……? どうして……? マスターはもうわたしのことなど……」

「愛しているよ……、今でもおまえを愛している……、

いや、前よりずっと強くおまえを愛している……、

おまえは私のたったひとつの希望で、私の宝物なんだ、離れていてもそうなんだ、

おまえが幸せになってくれることが私の唯一の望みなんだよ……」

クリスティーヌが私の胸を強く押し、己の身を引き剥がすと、私の目をじっと見つめて聞いた。

「じゃあ、なぜ……、なぜ、わたしを愛してくださらないの…………?」

涙を溢れさせているクリスティーヌの髪をそっと撫で、それからもう一度彼女を抱きしめる。


「私はもうおまえを抱くことはできない、

……おまえはイタリア座のプリマドンナになるんじゃないか、

そのおまえに私のような者がくっついていたらおまえが世に出る妨げになる……。

今日、私に会いに来てくれただけで私には充分だ、もうおまえは私の生徒じゃないし、

私に気を遣う必要はないんだよ……、さっき破ってしまった離婚証明書も書き直そう」

クリスティーヌが私の腕のなかで激しくかぶりを振った。

「そんな……! あなたの、あなたのところに戻るためにイタリア座のプリマになったのに……、

あなたのところに帰るためにパリに戻ってきたのに……、」

そう言った後、彼女は激しく嗚咽しながらベッドに崩れ折れるように手をつき、

そのまま泣きじゃくり始めた。


「クリスティーヌ……、それでイタリア座に……?」

泣きじゃくって上下する肩に手を置き、そっと尋ねる。

「そうよ! あなたに会うために、あなたのところへ帰るために…………!」

彼女の手を取り、ふたたび起き直らせると、嗚咽したままのクリスティーヌを胸に抱き取る。

強く抱きしめる。

しゃくり上げる彼女の耳元でもう一度聞く。

「私のために…………?」

嗚咽したままクリスティーヌが大きく頷いた。


しばらくして、落ち着いてからクリスティーヌがぽつぽつと話し始めた。

「……あなたにどうしても会いたくて、オペラ座と契約すれば、あなたに会えると思って……。

この一年、ビアンカロリさんに頼んで本格的なお稽古をしてもらうようにして、

……謝礼は別にお払いしたのよ……、あなたが毎月、扶養給付のほかに使い切れないほど送って下さるから……、

そしてオペラ座に戻る準備をしたんです。

でも、どうしてもオペラ座には空きがなくて、ラウルがなんとかしてくれようとしたみたいですけど、

カルロッタの契約は長期だったので、歌手で戻ることはできそうになくて……、

それでラウルがイタリア座のパトロンをしているお知り合いに掛け合って下さって……。

本当はあなたの新作で歌う歌手として戻りたかったのよ……」

私を見上げたクリスティーヌをそっと抱きしめ、

「私に会うためにプリマの契約をしたというのか……」と呟いた。

「しかし……、私に会いたかったのなら、パリに出て来ればよかったじゃないか……」と言うと、

「そんなの……、むりよ……、あなたにどんな顔をして会えるというの……?」と眸を曇らせ、

身を捩って私から離れると、深く俯いてしまった。


ベッドに背をもたせかけたまま、私は、身体を起しているせいで隣りにいながら

私に白い背を見せているクリスティーヌを眺めつつ、彼女がふたたび話し始めるのを待った。

じっと俯いたまま上掛けの上に掛けてある例のレースに指を這わせている。

彼女自身が編んだ細かいモチーフに沿って指を這わせるクリスティーヌの横顔は、

一見すると冷たいような、見ようによっては戸惑っているような、

あるいは逡巡しているような掴みどころのないものだった。

声を掛けてよいかもわからず、私はただただ彼女の白い背を見つめていた。



クリスティーヌがふたたび顔を上げて口を開くまでにどのくらいかかったのだろうか。

シーツを巻いた胸が大きく上下し、息を整えて話し始めようとしているクリスティーヌの

ほつれた髪が揺れ、寝室に入った時に私が抜き取り忘れたらしいピンが引っ掛かっている。

そのピンをそっと抜いてベッド脇の小卓に置くと、それを合図にしたのか、

ようやくクリスティーヌが重い口を開いた。


「初めてビアンカロリさんが訪ねてみえたとき、きっとマスターが寄越して

くださったんじゃないかと思ったんです。……でも、マスターのお稽古とは全然違っていた……、

だから、マスターじゃなくて、ラウルなんじゃないかって……。

それに、あなたがわたしのためにそんなことをして下さる道理もないと思って……。

ラウルに手紙でお礼をいうと、ラウルから残念だけれどそれは自分じゃないって返事が来ました。

それで、わたしはビアンカロリさんが言うように、

本当に誰かわたしのファンだったという人がお稽古をしてくれているのかと思って……」

そこまで言って、クリスティーヌは大きく息をつき、それからちらりと斜め後ろの私の眸を見た。

そして、瞬きとともに視線をはずし、また前を向いて話し始める。


「あれは……、ちょうど去年の今ごろでしたわ、わたし、ちゃんとした……、

マスターにしていただいていたようなお稽古をしたくなって、ビアンカロリさんにそうお願いしましたの。

そしたら、ビアンカロリさんはこう言ったんです。いいんですかって。

変だなと思って問い詰めると、依頼人からは本格的な歌の稽古はするな、

ただ歌を歌う時間だけを作ってやってほしいと言われている、きつい稽古はきっとあなたに

悲しいことを思い出させるに違いないから決してしてはならないと強く言われている、

それでもいいのかって。歌のお稽古でわたしが悲しむに違いないなんて……、

そんなこと、ただのファンだっていう方が言うわけないじゃありませんか……。

そのとき、ようやくわかったんです、ビアンカロリさんを寄越してくださったのは

やっぱりあなただったんだって。

わたし、あなたと離れていても、あなたにずうっとずうっと守られていたんだって……!」


クリスティーヌが涙を溢れさせた眸で私の方に振りかえった。

身体の向きを変え、私の眸を見上げる。唇が戦慄いている。

そして、クリスティーヌの腕が伸びてきたかと思うと、

その腕で私の首にしっかりとしがみつき、声を上げて泣き出した。

「わたし、それから、どうしてもマスターのところに帰りたかった……、

あなたの腕にもう一度抱かれたかった……、あなたの…………」

濡れた睫毛が私の肩先に触れ、こぼれた涙が肩を伝って落ちていく。

彼女の温かい涙が己の肌を伝う感触をさっきも含めて私は幾度か味わったことがあったが、

そのときの涙は私が泣かせた哀しい涙だった。

……この涙を流させているのも、やはり私なのだろうか……。



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