「依頼人の秘密をやすやすと喋ってしまうなんて、碌でもない男だな……」

私がそう言うと、クリスティーヌが「あなたがラウルに頼んでくださったことも知っていてよ」

とすすり上げながら言った。


「ラウルにももう一遍聞いたのよ、もしやと思って……、

ううん、本当にあなたがわたしのためにそんなことをして下さるのか、やっぱり自信がなくて……。

だって、わたしはあなたをあんなに苦しめたんだもの……。

そうしたら、ラウルが本当にそれは自分じゃないって。

自分よりももっと私を想っている人がいて、その男と約束しているから誰だかは書けないけれど、

その人に頼まれて音楽教師を探したんだって。

最初は話も取りあわずにいたけれど、その人が何度も何度も頭を下げてきたって。

自分に頼むのは相当な勇気が要ったろうにって……」


「うちのパトロン殿も存外に口が軽いのだな……」

もう一度すすり上げてクリスティーヌが私の首筋に顔をうずめた。

「わたし、あなたがまだわたしを愛してくださっているってわかって本当に嬉しかった……」

「愛しているに決まっているじゃないか……」

ほつれて肩に落ちかかった髪をそっと手繰り、顕わになった肩先にそっと口づける。


「でも……、二年前、わたしがあなたのそばに置いてほしいと言ったとき、

あなたはうんと言って下さらなかったわ……、あなたはわたしを愛してくださっているけれど

、同じくらいわたしを憎んでいらっしゃるんじゃないかって……、

わたしのことを許してはくださっていないんじゃないかって……」

クリスティーヌの眸からこぼれた涙が私の首筋を濡らす。

「それは私が言うことだよ、クリスティーヌ……。

それに、あの時はおまえにもう私との暮らしを強要したくなかったから……、

離れる方がおまえのために良いと思ったのだ……。おまえが私を愛してくれていたとしても、

互いに顔色を窺い合って暮らすのはあまりにおまえが可哀相で……。

それに、あの時、おまえはああ言ってくれたけれども、それは私への愛ゆえではなくて、

同情とか哀れみとか……、そんなものから言ってくれているのだと思っていた……。

おまえに恨まれ、憎まれることはあっても、よもやあんなことがあった後でも

愛してくれているなんて思ってもみなかったから……」

「愛しているって言ったわ、あのとき……」

どこか咎める口調で言ってから、クリスティーヌが私の肩から顔を上げ、私の眸を見つめる。

……私たちは互いに見つめあい、互いの眸に赦しがあることを探り当て、

そして、互いにいたわりあうように唇を重ねた。


「おいで」と言って、彼女の胴に手を掛け、私の上に抱え上げる。

「マスター……」

横抱きに抱え上げたクリスティーヌがもう一度私の首にしがみつき、肩に頭をもたせてくる。

「こちらを向いてくれ、クリスティーヌ……」

私の方に向き直ったクリスティーヌの髪を指先ですべて後ろに垂らす。

「ああ……、私のクリスティーヌだ…………」

そこには、かつて私の生徒であった頃と変わりなく愛らしい様子のクリスティーヌがいた。

髪をおろし、恥ずかしげにうすく微笑んで睫毛をそっと伏せたクリスティーヌがたまらなく愛しい。

そのままもう一度私の肩に頭をもたせて、「マスター……」とつぶやくように私を呼んで

胸のあたりに唇を押し当ててくる。

彼女のやわらかく温かい唇の感触に、抑えていた欲望が湧き上がってくるのを感じていた。


クリスティーヌの背を支えながら、もう一方の手でゆっくりと彼女の腕を撫でる。

二の腕のやわらかい肉付きのあまりの心地よさに、いまだにその感触を覚えている

手のひらが反応する。

胸を覆ったままのシーツの隙間から、目に見えて激しく上下し始めた乳房の隆起が覗き、

その隙間に顔をうずめたい衝動がふつふつとこみ上げてくる。

なにより己の大腿に感じるクリスティーヌのやわらかい臀の感触が、

その臀がさきほどから微かに捩られている感触がたまらなく淫らで、

すぐにもその臀や臀から続く太腿やその腿の間にある、

あの最も秘められた場所をも隠しているシーツを剥ぎ取って、

臀にも大腿にも、もちろんあの温かく潤って私を待っていてくれるはずの泉にも思うさま口づけし、

そしてその潤みのなかに己のすべてを埋め込んでしまいたい欲望が身のうちを駆けめぐる。

私の喉もとに鼻先をくっつけたまま、しどけなく吐息を洩らし始めたクリスティーヌの

甘く芳しい体臭がたち昇り、あまりの陶酔感に眩暈がするほどだ。

逸る欲望を抑えて彼女の髪にそっと口づけを落とす。


しかし……、しかし、私はやはり彼女を抱くことはできなかった……、

私を愛していると言ってくれ、私のところに戻るためにプリマドンナになったのだと言い、

そして明らかに私に抱かれるのを待っているらしいクリスティーヌを愛しく思えば思うほど、

彼女を己の欲望のままに抱いてしまうのはどうしてもできなかった。

目を閉じて欲望を抑えこもうと必死に闘う。

クリスティーヌをこうしてこの腕に抱いて、その温かい肌に触れているだけで私には充分なはずなのだ。

たとえ私のためであったとしても、結果的に彼女はいまやイタリア座のプリマドンナであるわけで、

この秋に初目見えしようという彼女の邪魔だけはしたくない。

ああ、しかし、この肌のすべらかさ、この肌の芳しさ、この肌のなまめかしさといったらどうだろう……。


もう一度、哀願するような口調で私を呼ぶ。

「クリスティーヌ…………、おまえを愛しているよ……」

彼女の眸をじっと見つめて言うと、一瞬、眸を輝かせ、そして私の目を見つめた後、

眸に失望の色を浮かべてクリスティーヌが俯いた。

「やはり、愛してはくださらないのね…………」

はた、という微かな音がして、見るとクリスティーヌの眸からこぼれた涙がシーツに染みを作っていた。


ぽたぽたと続けざまに涙のこぼれる音がして、クリスティーヌを抱き寄せると

私の胸を強く押して彼女が私の膝から降りた。

「ごめんなさい、お邪魔をして、……もう、もう、わたし、お暇いたしますわ……!」

椅子の背に掛けたドレスや何かを掴み、身体に巻きつけたシーツがほどけかかっているのも

省みずに扉の方へと走り去ろうとする。

「待て、待ってくれ! クリスティーヌ!」

ドレスを抱えている腕を掴むと無理にこちらに向かせて抱きしめる。

私の腕のなかでもがくクリスティーヌの身体からシーツがはがれ落ち、

私の手でドレスをベッドに放り投げると、腕のなかには愛しいクリスティーヌだけがいた。

泣きじゃくる彼女をもう一度強く抱きしめる。


「おまえを愛していると……、何度言えば信じてくれるかね? 

おまえを愛している、……この世の誰よりも、おまえだけを、

おまえ唯ひとりを……愛していると何度言えば信じてくれる……?」

「……だって、でも……、でも、愛してはくださらないのでしょう……?」

「私がおまえを抱かないのか、ということなら、答えはそういうことになるな……」

「…………どうして……?」

「おまえを愛しているから。おまえを愛しているから、

私はもうおまえを抱くことはできないのだ」

戦慄く唇を噛んだクリスティーヌに優しく言う。

「私がどれほどおまえを欲しがっているか、おまえにだってわかるだろう……?」

さっと顔を横に背けた彼女の耳が紅く染まっている。

「可愛い、愛しいクリスティーヌ……、私がどれほどおまえをほしがっているか……、

だが、それ以上に私はおまえが大事なんだ、もう、決しておまえに私のことで

辛い思いをさせたり、苦しめたりしたくない、だから……」

そこまで言ったところで、クリスティーヌが私を見上げた。


その眸にはまだ涙が残ってはいたが、なによりもその強く鋭い眼光に思わずたじろぐ。

床に落ちたシーツを拾い上げ、その美しい裸体を私の目から隠して、彼女がふたたび私を見据えた。


「マスターは……、あいかわらず独りよがりで、思い込みが激しくて、

人の話に耳を傾けようとはなさらないのね……、

あなたは……、あなたは、ご自分が思うようにわたしを愛することができればそれで満足なのね、

わたしがあなたを愛していようと愛していまいと、そんなことはあなたには何の関係もないのね、

わたしが今日、ここへ来るのにどれだけ勇気が要ったか、あなたに想像できて? 


あなたに追い返されるんじゃないか、目の前で扉を閉められるんじゃないか……、

……いいえ、あなたはきっとまだわたしを愛してくださっているはず、

ビアンカロリさんを寄越してくださったのがあなたなら、

きっとわたしをまだ愛してくださっているはず……、そう思い込もうと努力して努力して、

厚かましいと思われるのも覚悟してここへやって来たわたしの気持ちが想像できて? 


あなたはわたしを追い返しはしなかったけれど、わたしへの関心もないみたいだった……、

わたしがどんなにがっかりしたか……、イタリア座で歌うって言ってもちっとも嬉しそうには

してくれなくて、わたしは自分の思い上がりに恥ずかしくなって、

あなたの顔なんてまともに見られなかったわ……、

下まで降りて、それでもどうしても諦め切れなくて、せめてあなたのお部屋の扉の前に立って、

本当はわたしたちふたりが一緒に住むはずだったおうちの前で、

ここに住んでる奥さんみたいな気持ちになれたら少しは気が済むかしらと思って階段を上がって……、

そしてあなたの姿を見つけたときの喜びがあなたにわかって? 


わたし、わたし……、やっぱりあなたが私を愛してくださっていたってわかって

本当に本当に嬉しかった……、その喜びがあなたにわかって? 


わたしがどんなに恥ずかしいのを堪えてベッドに連れていってってあなたにねだったか、

あなたはちっとも想像なんかしてくれないのね、

二年半前、あなたの前でさんざん……、さんざん……、…………、

……わたしがあなたとベッドに行きたがるのは当然だとでも思っているの? 


……それでも、あなたがわたしを抱えてベッドに連れていってくれたときは本当に嬉しかった……、

あの初めてのときみたいにあなたは優しくて、

あなたにキスしてもらっているだけでわたしは本当に幸せで……、

なのに、あなたはただ、わたしに触れたかっただけですって? 


だったらベッドへなんて連れてきてくださらなくてよかったのよ……、

……あのまま、わたしたちはやり直せるって思ったわたしが莫迦だってことなのね、

わたしが思い上がっていただけなのね、マスターは、あなたは、あのことがあっても、

ちっともお変わりになっていらっしゃらない……、何もかもひとりでお決めになって、

わたしの気持ちなんて考えてもくださらないんだわ、

マスターは、やっぱりわたしのことを本当には許してくださっていないのよ、……マスターは、」


激しい勢いで言い募っていたクリスティーヌは、突然、声を奪われたように口を噤み、

どこか意識もない人のように失われた言葉を探したままぽかんと宙を見つめているみたいに見えた。

眸から大粒の涙をぽろぽろとこぼし、シーツを胸の前で掴んだまま拳がぶるぶると顫えている。

息遣いも荒いまま、肩が大きく上下していた。


こんなに興奮しているクリスティーヌを見るのは初めてだった。

あのあどけない、夢見るような少女だったクリスティーヌのどこに

こんな激しい一面が隠されていたのだろう……?

しかし、今こうして思い返してみると、あの頃のクリスティーヌにも今と同じ、

激しい一面を垣間見せた瞬間があったなと思う。

『勝利のドン・ファン』での彼女の歌いぶりからして、

とても私が教え導いてきたあのあどけない少女とは思えぬ気迫だったし、

その後、地下で共に暮らせと子爵の命を担保に迫った私に、

いま流している涙は哀れみの涙ではなく憎悪のそれだと告げたときにも怖い眸をしていた。


そして、自分は私を愛しているのだと、それを私が信じようと信じまいと

それは私の側の問題であって、自分の関知するところではないと冷たく言い放ったこともあったが、

その時の眸も氷の刃のごとく鋭いものだった。……今にして思えばあれは本心であったのだろう。

当時の私は、私を愛していないことへの申し開きなどしたくない彼女の開き直りのように

思い込んでいたが、あれは自分を信じようとしない私への怒りの発露だったと、今になればそう思える。


クリスティーヌを抱きしめようと腕を伸ばした。

しかし、そこで意識を取り戻したように私の腕から逃れるように後ろに身を引いた

クリスティーヌは、私に鋭い一瞥を投げかけた後、何も言わずにベッドの上のドレスを抱え、

呆然とする私をひとり残して寝室から静かに出て行った。



一瞬、呆気に取られたままその場に立ち尽くしていた私は、

今、まさにこの瞬間が己の運命を左右するとてつもなく貴重な一瞬なのだと気づいた。

猛然と次の間の扉を押し開け、泣きじゃくりながらペチコートを着けている

クリスティーヌの肩を掴んだ。

「すまなかった! すまなかった、クリスティーヌ……! 

私は、私はおまえの気持ちを考えていたつもりだったが……、

本当には考えていなかったのかも知れない……」

「かもしれない、ですって?」


語気も鋭く言い返したクリスティーヌの眸がかつて地下で見たときと同じく

氷のように冷たいものだったので、私はもう私の運命を左右する唯一無二の機会を

逃してしまったのだと思い、とてつもない失望感がこみ上げてきた。

「いや……、すまなかった……、私は、……私はおまえの気持ちを

ことごとく踏みにじっているのだな……、…………すまなかった」

最後はもう彼女の眸も見られなくなっていて、肩先に向かって最後のひと言を

絞り出すように言ってから、私はクリスティーヌの肩をもう一度だけそっと撫でて踵を返した。

「マスター!」

咎める口調でクリスティーヌが私を呼ぶ。

彼女の腕が私の胴に絡みつき、背に彼女のやわらかい乳房が押し付けられるのを感じた。

そして、クリスティーヌのえも言われぬほど優しい声が尋ねる。

「わたしは、もう一度、ベッドに連れていってっておねがいしないといけないの……?」




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