390 :ありがちギャグ :2005/05/05(木) 01:14:07 ID:ATtk8rlb


その日、クリスティーヌは地下に在るある一室にいた、ハタキを持って。

はじめてこの地下に案内されたのは数日前。何度か上と下とを行ったり来たりしながら、

彼女なりに今までの歌の指導も含めた様々な恩を少しでも返せないだろうかと考えた結果、

たどり着いたのは「地下の掃除」という案だった。

この結論が出る前には、女の子らしく「料理」という手段も考えたのだ。何しろ彼女の

師の食生活は誰がどう見ても偏ったものであったので、その改善も兼ねての名案である。

然しながら何度か実際に試みてみた結果、丁重にお断りされて(何となく懇願されたような気も

する)しまった、という背景がある。

「…やっぱり嫌いなお野菜とか入れちゃったのがいけなかったのかしら…?」

そういえば差し入れる前、完成品を一目見た親友は何だか不思議な顔をしていた、などと

思いに耽りつつクリスティーヌはハタキをひらめかしていた。

 
ここは天下のオペラ座地下5F、師と仰ぐ「音楽の天使」の隠れ家にある一室。

引きこもり創作系人間のご多分に漏れず、どのエリアもその散らかりっぷりは相当なものだ。

彼の定位置であるオルガンやデスク周りは当然のごとくかなりのものであったが、それに

引けを取らないのがこの「実験室」である。

曰く昔集めた大変に珍しい器具や薬品がしまってある部屋だそうだ(彼女には、はたして

物置とどう違うのか良く判らなかった)。

確かに不思議な形のガラスの入れ物?や美しく透き通った様々な色の小瓶が乱立していて、

この地下の独特の雰囲気により拍車をかけていることは間違いない。師には色々危険なものもあるので

無闇に立ち入らないようにと言われていた。

そんな部屋に掃除という理由があるとはいえ、主が創作活動に没頭して全くコチラに気付かない隙に

入り込むというのは、明らかに確信犯の行動である。

パンドラだろうとデリラだろうと駄目だと言われればそこを突破してみたくなるのが人の性というものだ。



とまれ、そんなことで今クリスティーヌはこの実験室にいる。果たしてどこから手をつけたらよいものか

思案に暮れる彼女は、ふと机の上に置かれたままのガラス類に目をとめた。

ガラスの中できらめく薔薇色、海色、琥珀色…。

「…混ぜてみたり、とかしちゃったりして……」

些細な誘惑。激昂する天使の姿が一瞬浮かぶ。

然しながら、「開けるな」は「開けたい」、「食べるな」は「食べたい」、「見るな」は「見たい」、

表裏一体。

「……なんとかなるわよね、きっと」

どこから来るのか解らない妙な楽観主義論に基づき、ちょっとだけ…とばかりに手近な2つを

ビーカーに開けてみる。

「・・・・・・」

得も言われぬ不気味な色。

「どうしようかしら・・・何処かに捨てるとこなんて…」

地底湖に流すためには瓶を持って部屋から彼のいる外部まで出なければいけない。しかし

まさか床の上に捨てるというわけにもいかないし・・・。

「…ほかの液で薄めてみたら……!」


「・・・・・・・・・・・」

後悔とは後から悔いること。人間越えてしまってはいけない一線があるのだ。ああ、余計なことなど

しなければ、いやそもそも勝手に訳の判らないものなど触らなければ・・・!

――――もはや後戻りなど出来ない。

ごぼごぼと泡の立ち始めた瓶を前に、クリスティーヌは思わず現実逃避を始めかけていた。



「クリスティーヌ!?いったい何をして・・・・・」

地下に蔓延し始めた異臭に流石に気づいて、一体全体何事かと部屋の主が駆け込んできた。

「きゃッ!!」

驚いたクリスティーヌは思わず瓶をとり落としてしまった。弾みで未混入の瓶まで巻き込み、

床の上で中身が一緒くたになる―――――!!


カッ!

眩い閃光、強烈な風圧、猛烈な煙幕

(一体何だと言うのだ・・・・!)

もうもうたる白煙に巻かれながら、ファントムは何とか身を起こした。ある意味悪意すら

潜んでいるのではないかとさえ勘繰ってしまう殺人的メニューよりは、掃除の方が幾分

マシであろうと判断した自分の迂闊さを思わず呪う。

あちこちすりむいた程度で幸い大きな怪我は…

そこまで思考がたどり着いてはじめて、重要なことに気付く。

クリスティーヌ、彼女は無事なのか、まさか顔に怪我など負ってないか、あるいは煙で

大切な喉をやられてはいないか―――――!

「・・・・クリスティーヌ!!」


彼が異変に気付いたのは次第に晴れた視界に広がる光景の所為ではなく、自分の上げた

その声の所為だった。

「・・・・・・・?」

確かに、自分が発した声のはずだ。そもそもここには自分と彼女の二人しか居はしないのであるし、

彼女の無事を確認するために彼女の名を呼んだのだ、自分が。

だが、その場に今しがた響いた声は、焦りを含んではいたが高く涼やかな声。低い自分の声ではない。

自分の声ではない然し良く知った声。高く涼やかで深みのある美しい声・・・・・。

考えをぐるりとめぐらせて、初めて目の前の光景を見やる。わだかまる黒い塊、見慣れた黒い服、

黒いマント、黒い髪(仮)・・・・・・!

薄いグリーンの瞳が此方を見返した。

「…――――――――――!!!!」

一拍の間を置いて、二人の天使は声にならない絶叫を上げたのだった。


「・・・・・・取り敢えず状況を整理しよう」

ショックを引きずりつつも、なんとかファントムは口を開く。どんな状況に陥ろうと、

愛しいエンジェルの手前取り乱す訳にはいかない、という意地のみが唯一彼を支えていた。

…最近精神的に疲弊する状況に置かれることが以前にもまして増えたような気がする。

昔は良かった、とまで言ってしまう気は毛頭無いが、果たして今の環境も如何なものだろうか・・・

せっかくの支えも虚しく、意識はその防衛機能として思考をあさってに追いやろうと薦めてくる。

現状に頭が追いついてこないことも理由の一つであったのだが、それにもまして強烈なのは、

目の前のもう一人の姿だ。

「ゴメンナサイ…わたし…わたしどうしたらいいんでしょう……マスター…」

泣き腫らして瞳を真っ赤にし、ぺたんと座り込んでしまっている、黒ずくめの男。

「とりあえず、涙を拭きなさい・・・・お願いだから・・・・・」

今まで自分の容姿を心地よいものであると感じたことなど一度も無かった。しかし、涙を流して

おとめちっくに震える自分の姿、というものがこれほどまでに強烈なものだとは。

いらない心的障害がまた一つ増えたことだけは間違いない。


「…この状況がそう長く続くとは思わないが、差し当たっての問題はもうすぐ夜が明けて

 しまうことだな」

ハンケチなど差し出しつつ、(クリスティーヌの中の)ファントムは話を進めようとする。

「…?どうして長くは続かないのですか?エンジェル。」

「突発企画物、というのは大体そういう物なのだよ、クリスティーヌ。だが、夜が明けても

 君が部屋に帰ってこないとなると…」

「……わたし、今日早朝レッスンが……!」

――――どんな理由が在ろうとも、今後レッスンを疎かにするようなことをしたら…

わかっているわね?クリスティーヌ・・・

先日の失踪の際に発せられた彼女のもう一人の厳格な師の言葉が、まるで今この場で言われたかのように、

クリスティーヌの脳裏にありありと浮かんできた。

顔面を蒼白にするクリスティーヌ(仮)の前で、一方ファントム(同)も苦々しい思い出を

振り払おうとしていた。

彼女、マダムとは長い付き合いではあるのだが、どうにも頭が上がらない。通常は対等の付き合いでは

あるし、いざ純粋な力勝負となれば彼にしても伊達に長々とアウトローをしているわけではない。

している訳ではないのだが、彼女が放つ致命的な一言(しかもそういう場合、大抵彼女は静かに微笑を

浮かべている。杖を片手に。)にはどうにも抵抗しがたい。

本能というやつかもしれない。


「どうしたら・・・・?エンジェル・・・・」

再び泣き出しそうな気配のクリスティーヌを見やり、ファントムは返事を搾り出す。

「…今日一日は君はここにいたまえ。私が君の代わりにレッスンを受けてこよう。

 帰ってきた後、何とかもとに戻る方法を調べる。明日朝までに解決しなければ・・・

 それはまたその時だな」


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