「…然し、これは思いのほか、キツイな…」

地上への道中、息を切らしながらファントムは独りごちていた。

地下に篭って十数年、このオペラ座において彼の知らぬところなど無い。とくにこの

地下―プリマ楽屋間の秘密通路など、殆ど毎日往復している基本中の基本コースだ。

だが、いつもの自分の身体とは違い、若い女性の身での徘徊がここまで大変であるとは

思ってもみなかった。…通常なら実感することも無いはずの感想だったが。

(…まず朝一でダンスのレッスン、朝食後午前中は新演目の通し稽古…)

普段のストーキングの成果を遺憾なく発揮し、ぶつぶつとスケジュールを確認していく。


「あの、エンジェル…大丈夫ですか?ほんとに無理しなくても……」

出かける際に、当人にはそう心配されたが、彼女に成りすますこと自体はさほど難しいことではない、

寧ろ妙な自信すらあった。元々演技、といった芸術的才能の類には事欠かない彼であったし、

なにより長い間彼女を傍で「見守ってきた」という実績がある。

大丈夫だから安心するように、とだけ彼女には伝える。

「……そうですよね。わかりました。無理しないでくださいね。あ、それから

 みんなやラウルともケンカしたりせず仲良くしてくださいね」

その二つのお願いには途方も無い矛盾が含まれているとファントムには思えたのだが。

「・・・ああ、約束しよう。君も夕べは眠れなかったことだし、今日はゆっくり休むといい。

 …間違っても、あちこち、片付けようとしたり、うろうろしたりは…ア、いや別に迷惑とかでは

ないのだが…ええと、疲れを溜めると声にも良くない。無理をしてはいけないよ」

自身のことより、彼女の方、なによりこの地下の方が心配ではあった。

一瞬、微妙な間が空いたように感じたが、クリスティーヌは笑顔で答えた。

「・・・・はい、わかりました。気を付けて。行ってらっしゃい、エンジェル!」


その言葉を聞いたときの彼の心境は、一体どんな物であったか。

ファントムにとって、これまでの人生において誰かと接し、暮らした経験など皆無と言っても

差し支えない程のものだった。

それがどうだ。愛しい人から気遣いの言葉をかけられ、笑顔で見送られるとは!

咄嗟に「行ってきます」の返事が返せなくなるほどの、大きな衝撃。

笑い出したくなるような、それをも通り越し泣きたくすらなるような、渦巻く複雑な感情。

もっとも、その笑顔は愛しい天使自身のものではなく…自分のものであったという事実が

また別の意味で、彼を泣きたい様な気分にさせていたのではあるが。

敢え無く現実引き戻され、前方に視線を戻す。黒々とわだかまる暗い廊下が延々続いて行く。

「…そもそも、辿り着けるのだろうな……?」

暗い通路の真ん中で、ファントムは一つ大きな溜め息をついた。



一方その頃、クリスティーヌは今日一日この地下でどうやって過ごそうかしら、と

ぼんやり計画をまとめようとしていた。

おなかも空いたことだし朝食でも作ろうかとも思ったのだが、出掛けに、それだけは…と

なぜだか頼まれてしまったのだ。

代わりに、といって何処からか彼が用意した高価そうな菓子をつまみつつ考える。

やはり、また音楽の天使を怒らせてしまったのだろうか。

「……わたしって、どうしていつもこうなのかしら…」

先ほど行ってらっしゃいと見送った際にも、彼はなんだかギシりと音さえ立てて硬直したように

見えたのを思い出し、クリスティーヌもまた独りため息をついた。

朝ごはん代わりを軽く済ませ、その後片付けのついでに散らばった楽譜をまとめるなど

かんたんに掃除を行った。さすがに夕べの教訓を生かし、あまり危険な橋は渡らないようにする。

あちこちに落ちているデザイン画を拾おうとしたときに、鏡に映るその姿と目があった。

鏡に近づいていき、そのカバーを完全にめくりあげる。

目の前に映る一人の男。薄い翠色の目をした端正な顔の半分を覆い尽くす白い仮面。

「・・・・・・・」

ゆっくりと慎重に、クリスティーヌは手をかけその仮面をそっとはずした。



現れる悪魔の顔。

最初に目にしたときには、あまりの驚きで声すらあげることが出来なかったその事実。

鬢のあたりに何か光るものを見つけ、クリスティーヌは引き抜いてみる。

数個見つけたそのヘアピンを全てはずし、頭部に手をやり完全に取り払った。

白金の髪の毛がさらり、と零れ落ちる。初めて間近でみる天使の素顔。

皮膚は縮み浮き出た血管が行く筋も走り、グリーンの瞳をおおう瞼は引き攣れている。

「…!」

それとは別に、瞼の上、額にうっすらと傷があることにクリスティーヌは気がついた。

よくよく見ると、それは額に留まらずこめかみ、耳の上、頭部や整った左半面にまで

無数に存在している。殴打の痕だろうか。

一見して新しい傷ではないようであったが、それは逆にどれほど長い年月を経ても、

完全に癒えることなど無いのだという現実を表しているようにも思える。

一体、今まで彼はどれほど険しい道を歩んできたのだろうか。たった独りきりで?

クリスティーヌ自身も、決して恵まれた子供時代を過ごしてきた訳ではなかった。

それでも、辛いとき彼女の周りにはいつも大切な親友や義母、そして天使の姿が在った。

彼の傍にも誰か居てくれたのだろうか?

しばらく鏡の前に無言で立ち尽くした後、クリスティーヌは仮面を片手に呟いた。

「・・・・・ところで、これ、どうやって嵌め直したらいいのかしら・・・・?」


さて、その日の夜。1日の日程を何とか消化して、ファントムはクリスティーヌの個人楽屋で

ソファーの上に倒れこんでいた。朝早くから地上への長い道のりを上ってきて、その後間髪入れずに

怒涛のレッスン。まさに息つく暇もなし。

だが、それだけならばきっとここまで消耗しきらなかったことだろう。彼は今朝のゴタゴタで

一つ失念していたのだ、人ごみに囲まれるのが大の苦手だということを・・・。

20年近い引きこもり生活はやはり伊達ではなかった!…何の自慢にもならないことだが。

ただでさえ人付き合いが不得意であるのに、周りを取り囲むのはハイテンションな年頃の娘たちだ。

パニックを起こさなかったのは我ながら奇跡に近い。

いつもなら、今ごろこの楽屋へと愛しい天使を迎えに来ているだろうに。何故今日自分は

これほどの目に会っているのだろうか・・・

もう、しばらく、外界との接触はいい、存分に篭っていたい…

とばかりにソファーの上で丸まるファントムの耳に、突然ドアのノックが飛び込んできた。

「クリスティーヌ、居るかい?入るよ?」

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