「あの、あのこと・・・」

「もうあんな事は二度としないよ、神に誓って。シャニュイ子爵を愛しているのだろう?

わかっているよクリスティーヌ・・・知っているよお前の気持ちは・・・

ただ、ただお前がパリに戻るまでの間、私に守らせて欲しいのだ。

それだけで良い、どうか私の最後の我が儘を聞いてくれないか。一緒にオペラ座に戻って欲しい。

何でも私に出来る事があったら・・・」 

「マスター・・・」

「クリスティーヌ・・・・・お前を愛している・・・」

クリスティーヌは恥ずかし気に下を向いていたが、しかしわすがに頷いたかのように見え、

少しずつ顔を上げるとソファを立ち、私のそばに近づくと膝を折る。

私の手をそっと取り、口元に笑みを浮かべている。彼女の手は小さくて、暖かかった。

「マスター、スウェーデンにようこそ」

私はクリスティーヌの手を大事に、大事に握り締めた。顔を背け下を向き、

涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。

その小さい白い手に口付けしたい衝動を、私の頬に持っていきたい衝動を、必死に堪えながら

私は力を入れず優しく握り締めた。



「オペラ座が最近、経営が芳しくないことは御存知でした?

私には難しいことはわからないんですけど、皇帝陛下が失権されて国内が不安定っていうのも

あると思うんですけど。貴族の方々の寄付もあまり集まらないし、チケットの売り上げも良くないって

支配人様がおっしゃってましたわ。」

「フィルマンの方だろう、あいつは金に細かい嫌な奴だからな」

夕食をとりながら、クリスティーヌはクスッと笑う。

「うふふ・・・それで、お父様が昔作曲しておきながら、まだ未発表のままのものがある事を思い出したんです。

どれほどのものがあるかはわからなかったんですけど、とにかくマダムや支配人様から、

その楽譜を持ち帰って来るようにとの指示でしたの。

真新しい曲でもあれば、またお客様が戻って来るのではないかって。

・・・あまり支配人様たちは期待していないみたいですけどね。」

「なるほどそういう事だったのか。で、見つかったのか?」

「いえ、まだ、そんなに。どこかにまだ沢山あるはずなんですけど。

ここに来る前はすぐに見つけられると思ってたんですが、お父様はあちこちにしまい込んでしまった

みたいでなかなか・・・すぐパリに帰るつもりでしたのに。

それにここを出てから10年も経っているので見つかった分もひどい状態ですわ。色褪せてたり破れていたり・・・

途中で書くのをやめた曲もいくつかあるんです。」

「私に見せてみろ。完成させてやる。」



「マスターはこの部屋を使って下さい、お父様とお母様の部屋だったんです。

オルガンもバイオリンも今は使えるかどうかわかりませんが・・・

ベッドも古いんですけど大きいですから・・・シーツは洗ってあります」

「有難う、クリスティーヌ」

クリスティーヌの両親のものだったこの部屋の端にはダーエ氏が愛用したであろうオルガンと、

クイーンサイズの古めかしいベッドにサイドチェスト、ぎっしり本が詰められた本棚やデスクが置かれていた。

食後のお茶も入浴も済ませ、数日ぶりにベッドで休める。自分で思っていたより旅に疲れていたようだ。

「ではお休みなさい、マスター」

「お休み、クリスティーヌ・・・・・お休みのキスをしてもよいか?」

「え、ええ・・・」

そっと両肩に手を掛け、彼女の頬に唇が触れるか触れないかほどの軽い口付けをする。

その間もクリスティーヌは堅く体をこわばらせて、やや顔を横に背けながら震えていた。

「クリスティーヌ、お休み」

廊下に出ようとしたクリスティーヌだったが、立ち止まり、しばしあってから俯き加減でこちらに向き─

「マスター・・・あの、私はあの事で怒っているとか、そういうわけではないんです。

でも、まだ、怖くて・・・怖いだけなんです。

マスターの気持ちは私もよく・・・わかっています・・・・・

こうして会いに来てくださって、・・・あの・・・、今って私、少し嬉しいんです・・・いえ、とても・・・」

胸が熱くなった。私は許してもらえたのか?そうなのか?

「お休みなさいマスター!」

そう言ってバタンと扉を閉め、タタタッと階下に下りていく音が聞こえる。

はた、はたと床に涙が落ちる。私は泣いた、嬉しくて泣いた。

もう二度とクリスティーヌを傷つけるような行動は取るまい。そう誓ってここまで辿り着いたのだ。

クリスティーヌ、お前のためなら私はいつでも死ねるよ─



次の日から私はダーエ氏の遺した楽譜を新しく書き起こす作業にとりかかった。

作曲途中のものは完成させ、ひとつのオペラ作品になれるものはそう組み立てながら進めていく。

長い間弾く者が不在だったオルガンも、少し調律しただけで十分につかえる状態にあった。

クリスティーヌは屋敷の中の掃除などをしながら、まだ見つかっていない楽譜を

探すのに多忙を極めていた。

私がダーエ邸に到着して数日後、ここに来るまでに通過した国でまた内乱が勃発したと、

先の戦争で負傷したのであろう首に数十針もの縫い傷のある初老の男性が毎日

届けてくれる新聞で私たちは知った。

楽譜がある程度見つかったのならすぐにでもパリに戻ったのだが、女性を連れてそのような危険な

地域を通る長旅は良しとしないと判断し、戦況が変わるまでスウェーデンに滞在することにした。

作曲以外にもしなければならない事はたくさんあった。

暖炉の燃料である薪の確保、荒れ果てた屋敷の外壁や庭、柵の修理などあらゆる雑事ごとを

こなさなければならない。

無理に居候している身でクリスティーヌに少しでも負担をかけさせる訳にはいかなく、

何でも私に出来ることはやらなければならない。

外に出ている事が圧倒的に多くなり、そのうちマスクもウィッグもただ仕事の邪魔をする

暑苦しいだけの道具と化してしまい、ほとんど必要としなくなってしまった。

ある時には2人で美しい樹氷を見に森を散歩してみたり、馬車で町へ買い物に出かけたりもした。

何日も吹雪く時はオペラ座でしていたように歌のレッスンをし、トランプの手品を見せてやり、

チェスで勝負をし負けた方が紅茶を淹れる罰ゲームに興じ、共に食事を作ったりもした。



2人きりで祝うクリスマス・・・ささやかだがいつもより豪華な食事に酒、クリスティーヌの手作りのケーキ、

賛美歌を歌い、プレゼントの交換・・・

クリスティーヌは私に万年筆を、そして私は、金のベビーリングのネックレスを贈った。

この日から彼女はネックレスを肌身離さず着けてくれているようになった。気を遣ってくれているのだろう、

優しいクリスティーヌ・・・

生まれて初めての経験であり、そして最後の経験となるであろう1人ではない今年のクリスマスを

私は死ぬまで忘れないだろう。

いつか別れの時が来るかもしれない、来るだろう、しかし・・・

今だけ、今だけはどうかこの大切な時間を、この孤独な化け物の生涯の思い出として過ごさせて欲しい。


新しい年が始まり、あの地下での出来事から3ヶ月以上が経過した。

ずっと気になっていた事がひとつある。クリスティーヌにいつ問いかけようかと機会を伺っているのだが、

未だその一言を発する勇気が出せずにいる。



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