「なんだこんな所でうたたねなどして・・・風邪をひくぞ」

午後のお茶を一緒に飲む為に外から戻ると、クリスティーヌは納戸で楽譜を探していた合間に

小さい頃のアルバムを見ていたのか、そのまま冷たい板張りの床の上で寝息を立てていた。

抱き上げて彼女の部屋のベッドに運び、上掛けをかぶせると─そっと頬に唇を寄せる。

これくらいなら罪にならないだろう・・・

「地下で抱き上げた時より少し重いぞ、ずっと踊っていないからな。おっと、起きていたら

首を絞められるかもしれん・・・・・」

独り言を呟きながら階下に下り、キッチンでお茶の準備をする。

クリスティーヌが目を開けて、胸元のネックレスをいじっている事を私は知るはずもなかった。



「この海なんです、ラウルが風に飛ばされた私のスカーフを取りに・・・」

そう言ったところで彼女はハッと両手を口に当て黙ってしまう。

「ごめんなさい・・・」

「いや、いいんだクリスティーヌ。そうか、ここなのか、シャニュイ子爵と子供の頃知り合ったのは。

気にしていないよ、私はお前の事を何でも知りたい。もっと話してくれないか。」

ようやく冬も終わりに近づきかけ、まだ肌寒いが穏やかな天気の今日、バルト海の浜辺で

私がスウェーデンに着いた日以来初めて子爵の名前がクリスティーヌの口からついて出た。

パリから届けられる子爵からの手紙を何度か受け取っていたようだが、お互いその内容については

一切話題に出さなかった。

胸の奥の痛みをごまかす様に私は表情を曇らせてしまったクリスティーヌに、私はつとめて平静に振舞う。

どちらがたくさん飛び石が出来るか競争をして、下手な方にまた何か罰ゲームを与えようと提案してみる。

ところが意外にもクリスティーヌはとても上手であった。

無邪気に喜んで、さあ家に帰ったらマスターに何をしていただこうかしらとイタズラっぽく微笑む彼女を

たまらなく愛しく思うのだが、きっとこの海で子爵に上手に飛ぶように教えてもらったのだろうか、と

彼女に気づかれないようにさらに焦げ付く胸の痛みを抑えるのに必死だった。



岩場には北欧独特のたくさんの珍しい生態物がいた。

クリスティーヌはほとんど知らないものばかりのようだった。

しかし私は彼女がスウェーデン出身だと知り合った頃から聞いていたので、書物などで

国に関するあらゆる知識を得てきた。

クリスティーヌにとっては、見るものすべてが珍しいようで、私の話に熱心に耳を傾け質問攻めにしてくれた。

バレエを見せてあげる、と靴を脱ぎ裸足になり、ハンニバルの鎖代わりだと、

拾ったお化けのように長い海草物を両手に持ち、振り回しながら踊る。

「海水が目に入る」と彼女の靴を持って逃げる私を大笑いしながら呼ぶ。

「マスター!見てー!見てくださらないとこれで首を絞めますわ!」

大胆にもロングスカートで足を高く上げ、側転を繰り返すので、私は他に人が見ていないかハラハラして

絶えず周りを確かめた。

浜辺の端から端まで踊り続けるクリスティーヌを、私は今迄と変わらず、憧れと羨望の眼差しで見つめていた。




夕方が近くなり、先ほどの岩場もすっかり満ち潮で侵されもうどこにあったのかわからないほど

浜辺に海水が溢れてきた。

拾った貝殻をいくつか持って、話しながら並んで歩いて家路につく。

会話が途切れてしばし沈黙が続いた時、お互いの手の甲同士が触れ合う。

どちらからともなく、手をつないだ。

しばらく軽く握り合った後、指と指を絡めてまた軽く握り合う。

胸が高鳴る、前にしか視線を向けられない。肌寒いのに、体の中心から熱くなってくる。

クリスティーヌはどんな顔をしているのだろう・・・

「あのねマスター・・・・・私はまだ・・・マスターやラウルが思っているほど大人じゃないんです・・・

その、だから、あの選ぶとかそんなの、わからなくて・・・何をどうしていいか、まだわからないんです・・・・・」

「クリスティーヌ・・・」

下を向きはにかんだような困惑したような顔、まだ何か言いたそうに震える唇が見える・・・

絡めた指に少し力を入れてみる。

「ゆっくり、ゆっくり帰ろうか、クリスティーヌ・・・」

「はい、マスター・・・」

クリスティーヌの指にも少し力が入った。冷たかった2人の指先が温かくなっていった。



「素晴らしい曲ばかりだったよ、クリスティーヌ。さすがはお前の父親だな。

ムッシューにとっての音楽の天使は誰だったのかな?この曲などは

お前の母親に捧げたものじゃないのか」

「弾いてみせてマスター!」

就寝前のひととき私は毎晩クリスティーヌに、父親のオルガンで、その持ち主の遺作曲を弾いて

聞かせてやる。

既にダーエ氏の楽譜はすべて私の手によって新しく書き直され、いつオペラ座に持ち帰って

誰に見せても良い状態にまでまとめてあり、支配人達やマダムの驚く顔を見るのを待つばかりだった。

若き日のダーエ氏が、愛する女性─クリスティーヌの母親に贈ったと思われる曲を弾き始める。

クリスティーヌは私の隣に椅子を持って来て腰掛け、目を閉じて懐かしげに聞いている。

ほとんど母親の記憶が無い彼女の為に、私が出来る事はこうして音楽の中に母の思い出をわずかでも

見つけてやれることだった。

しばらくはそんな母を慕う娘の可愛い姿をチラチラと見ながら鍵盤を叩いていたのだが、

彼女が肩を寄せ、そっともたれかかってくる。

彼女の髪から湧き立ってくる香りに体の中心が熱くなる。思わずごくっと唾を飲み込んだ。

しばらくして、私は右手だけで弾きながら、左手をそっと彼女の左肩に回す、嫌がらない─

私の肩に頬を擦り寄せるクリスティーヌ、彼女の肩を撫で、頬と頬を寄せ合い、左手を腰に回し─

とうとう私は右手も鍵盤から離し、両手で抱きしめてしまう。拒絶しない─

「マスター・・・・・」

「・・・嫌、だったら・・・・・」

「マスター・・・まだ罰ゲームをしてもらっていませんわ・・・」



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