330 :ファントム×クリス(仲直り編) :2005/07/26(火) 20:48:26 ID:Fs4NxR5J

クリスティーヌとひどい別れ方をしてから二週間が過ぎた。

「ハンニバル」の追加公演も今夜で終わりだ。

あれから一度も彼女の歌を聴いていない。

楽屋はおろか、オーケストラピットの下にすら行くことはできなかった。

彼女の声、彼女の顔、彼女の仕草……、今となってはすべてが悔恨と

悲嘆のもとでしかなかった。

しかし、やはりどうしても第三幕のアリアだけは聴きたい……。


彼女の歌には悲しみだけでなく、ある種の強さのようなものがあり、

それが私の心を顫わせる。


 Think of me waking, silent and resigned.…………

 There will never be a day when I won’t think of you……!


ああ、私とて後悔で眠れない晩が幾夜続いたことだろう。

そして、おまえのことを思わない日は一日としてなかった……!


ひと目、ひと目でいいからクリスティーヌの顔が見たい……。

私に向けられた笑顔でなくてもよいから、最後に彼女の笑った顔を見たい。

悲しみと怒りに満ちた顔ではなく、喜びに輝くおまえの顔を心に焼きつけられたら、

それだけを日々思い出しながら暮らしていける……。


そうだ、私がおまえに望むものは、おまえがいつも笑って暮らせること、

私のものになどならなくてもよい、おまえが誰と暮らしていようが構わない、

おまえが健康で幸せで笑っていてさえくれたら、それだけで私は幸福だったのだ……。


公演が終わり、彼女の楽屋へと向かう。

あれだけの成功を収めた彼女の楽屋にはおそらく大勢の人々がいるだろう。

もちろん、そのなかにはパトロンの子爵もいるに違いない。

子爵に向けられた笑顔であっても、この際、我慢しよう……。

おまえが幸せなら私は喜んでそれを受け入れる。


楽屋に近づくにつれ、鏡のそばにクリスティーヌがいるのが見えてきた。

どうやら、部屋には彼女ひとりしかいないようだ。

何故だ? 大勢の人々から賞賛を浴びているはずだのに……。

鏡の前で立ち止まり、クリスティーヌの様子を窺う。

彼女は鏡の前にうずくまり、なにやら金属の破片のようなものを鏡と床の間の

隙間に差し込もうとしている。


壁に凭れたまましばらく見ていると、金属片を床との隙間に差し入れるのは

諦めたらしく、金属片をそこらへんに放り出すと、化粧机に向かって歩いていく。

投げ捨てられた金属片を見てみると、それはどうやら柄の折れたスプーンらしかった。

ずるずると重いものを引き摺る音がして、彼女が化粧机の前にある椅子を鏡の前に

引っ張ってきた。

椅子の上に乗ると、今度は鏡の飾り縁の上をまさぐるようにして手を往復させている。


この頃にはもう、クリスティーヌが何をしたいのかがわかってきた。

彼女は鏡を動かす方法を探しているのだ。

何故だ? 私を捕らえるために手引きをしようというのか?

誰を? 警察か? それとも子爵か?

──── おまえにこの鏡の秘密はわからないよ、クリスティーヌ……。

第一、この通路を通って無事に私の住まいにたどり着こうと思ったら、

私と同道するか、とんでもない強運を持っていなければならない。


鏡の上に手を伸ばしていることに疲れたのか、鏡の上にはそれを動かす

秘密の装置はないと諦めたのか、椅子から降り、そのまま椅子に腰掛けた。

じっと鏡を見つめる。

鏡を透かしてこちらが見えるわけはないのに、彼女に見つめられているような

気がして落ち着かない気持ちになる。


ふと彼女が立ち上がり、鏡に寄りかかった。

鏡の表面に左の頬を押し付けるようにして凭れている。

彼女の右手が肩の高さに上がり、そのまま鏡の表面をゆっくりと撫でている。

左手は己の右肩を抱くようにしたかと思うと、ゆっくりと二の腕を上下にさすり、

時々、腕を掴む仕草をする。

その動きは……、私が彼女を抱いている時にする仕草に似ていた。

彼女を横抱きに抱いている時など、私はよく彼女の腕をさするようにして撫でるのだ。

そして、己の手に感じる彼女の肌が本物であるのか、彼女を求める余りに己が

作り出した幻想なのではないかと不安になり、撫でながらついぐっと掴んでしまう、

それは私の悲しい癖だった。


そう思って見てみると、右手で鏡の表面を撫でる仕草は、彼女がよくする私の胸を

撫でる仕草そのものだった。

クリスティーヌは…、私の自惚れでなければ、鏡を私に見立て、私に抱かれている

つもりになっているのではないだろうか……?

鏡を動かそうとしていたのは、私に会いに来るためだったのだ……。

彼女への愛しさと、自分が求められていたことを知った喜びが胸のうちに

湧き上がってくる。


……いや、そうではないかも知れない、あれほどひどいことをした私を、

彼女の信頼と愛情を踏みにじった私を、彼女が許してくれるわけはない……。


希望と絶望とがないまぜになり、心臓が早鐘のように打っている。


ふと彼女の動きが止まったと思うと、肩を顫わせ、唇を戦慄かせて泣き出した。

黒い隈に縁取られた眸から大粒の涙がいくつも零れ、滝のような流れとなって

彼女の頬を濡らす。

そして私は、彼女が「マスター……」と私を呼ぶ声を聞いた。

クリスティーヌは、私を許してくれたのだろうか、

だから私を呼んでくれているのだろうか……、

そう考えていると、彼女が鏡を強い力で叩き出した。


両手を握り締め、小さい拳で何度も鏡を叩く。

「マスター、マスター! うう……」

鏡を通して彼女の手を取れるわけはないのに、咄嗟に彼女の拳を

受け止めようとして手を伸ばす。

「マスターの嘘つき……! どこで私が呼んでも聞こえるって言っていたのに!

それとも、聞こえているのに返事をしてくれないの? マスター、マスター……!」

早く止めさせないと、彼女の可愛らしい小さな手を傷めてしまう。

だが、本当に彼女は私を求めてくれているのだろうか……?

「マスター、マスターの声が聞きたい、マスターの顔が見たい、ううぅ……!」

子どものように泣き叫びながら、床に崩れ折れた。


クリスティーヌ……、と呼びかけてみる。

うなだれていた彼女の顔がさっと上がり、私の姿を探すように虚空を見わたす。

彼女の眸に溢れる喜びの色が私を有頂天にさせる。

ああ、やはりクリスティーヌは私を求めてくれていたのだ……!


鏡を動かすのももどかしく、それでもどうにか動かして楽屋に入ると、

クリスティーヌが私に飛びついてきた。

「マスター、マスター……!」

「クリスティーヌ……!」

互いの身体に腕をまわし、ふたりの間にほんのわずかでも隙間があっては

ならないというように強く抱きしめあう。

しばらくそうしてから、ようよう互いの身を離し、見つめあう。

そして、私たちはどちらからともなく近づき、口づけを交わした。

唇を舐め、激しく舌を絡ませ、互いの唾液を交換する。

私たちは、永遠か一瞬か判然としないほど長い間、互いの唇を求めあったが、

ようやく唇を離すと、ふたたび見つめあった。

ふと気づくと、静かに涙を流している彼女の顔が滲んで見えている。

目を閉じて目に溜まった涙を押し流すと、ふたたび目を開け、彼女を見つめた。

「クリスティーヌ……、愛している……」

初めて、何の留保もなく、彼女に愛を告げることができた。

「マスター、私も…、私もマスターを愛しています……」

クリスティーヌがそう言うと、ゆっくりと私の胸に凭れてきた。

今こそ、本当に彼女は私のもの……、私は彼女のものだった。


今まで一度として経験したことのない歓喜と幸福とが身のうちに拡がっていく。

「クリスティーヌ……、お願いだ、私の名を……、私の本当の名を呼んでは

もらえないだろうか……?」

「……」

「私の名は、本当の名は、エリックというんだ……」

「エ、リック……?」

「そうだ、エリックというんだ……」

彼女が小さく頷き、私は彼女がこう囁くのを聞いた。

「エリック、愛しています……」と。



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