11 :ファントム×クリス(第二夜) :2005/09/20(火) 01:12:48 ID:vwRJWa53

クリスティーヌが寝入った後も彼女の唇の動きを何度も反芻してしまい、

なかなか寝つけなかったが、いつの間にか眠っていたらしい。

目が醒めると横で小さく寝息をたてている彼女がいた。

その安らかな寝顔をつくづくと眺める。

本来であれば、夢にまで見たクリスティーヌとの初夜が明けた朝である。

自分の横で眠る彼女の寝顔を

どれほど幸福な気持ちで眺めることができただろう。

彼女の隣で休み、彼女の目覚めを見守ることができるなら、

私は持てるものすべてを投げ出してもいいとすら思っていた。

─── しかし、私の夢は悪夢に変わってしまった。

私の横で休み、私の横で目覚める妻は、私ではない他の男を想っている。


「マスター、……おはよう……ございます」

目覚めてすぐは自分がどこにいるのか戸惑っているように数度瞬きを繰り返したが、

すぐに状況を把握したらしく、生真面目に挨拶すると、真っ直ぐな眸を私に向けた。

その顔が、胸が締めつけられるほど愛らしく、他の男を想っていても

決して私を嫌っているわけではないのだから良しとしなければ……、と無理に思い直す。

「うん……、おはよう」と挨拶を返し、彼女の髪を撫でた。


クリスティーヌが私の胸に顔を埋めてくる。

「マスター……、ずっとお慕いしていました……」

そう言って潤んだ眸で私を見上げる。

ああ、私はやはりおまえの父代わりに過ぎないのだね……。

それとも、幾年にもわたって師事し続けた師への敬愛なのか。「愛している」ではなく、

「慕っている」という彼女の言葉が優しい剣となって私の胸に突き刺さる。

彼女から拒絶されてはいないが、さりとて、決して男として愛されているわけでないのだ

という思いがふたたび脳裏をよぎり、無邪気に甘えてくる彼女を初めて疎ましく感じた。

「さぁ、今日はマダムに会いに行かなくてはならないから、さっさと起きて仕度しておくれ」

刺々しくならないよう気をつけたつもりだが、私の言葉に含まれる何かに気づいたのだろう、

彼女が訝しげに私を見たのがわかった。

しかし、敢えて視線を合わせないようにしていたので、彼女もそれ以上には何か言うこともなく、

私の言いつけに従って身支度を始めた。


マダム・ジリーにふたりが夫婦になったことを報告し、今後のことを話し合った。

橋から落ちたことは事故ということで片が付いており、クリスティーヌも怪我が治れば

舞台に復帰できるようにしてあるという。

実際は怪我などしていないが、わずかの間でもふたりだけの新婚生活を楽しめという夫人の配慮なのだろう。

夕べまでならこの申し出は非常に有り難く嬉しいものとして聞いたろうが、今となっては拷問に等しいものだった。

他の男を想う妻と四六時中顔をつき合わせ、顔を見るたびにそのことを思い知らされるのだから。

寄宿舎へは戻さなくてよいのかと、何とか口実を見つけようと聞いてみたが、

どのみちクリスティーヌが結婚したことはいずれ皆に知らされるので、

今はその婚約者のもとで療養しているということにしてあるのだと夫人は言う。

常に私を庇い、力になろうとしてきてくれた夫人の気遣いを無碍に断るわけにもいかず、

また、断るのも不自然に過ぎるので、ひと月ほど休暇をもらうことにした。


話し合いは私たちの便を考えてクリスティーヌの楽屋を使ったが、夫人が部屋を出ようとするとき、

「エリック、ちょっと」と言って手招きした。クリスティーヌを楽屋に残し、次の間に引っ張られる。

「エリック、まさかクリスティーヌとふたりで暮らしていくのに支配人からの援助を

当てにしているのではないでしょうね?」

「いや、そんなこともないが……」

「……何も考えていなかったのではなくて? クリスティーヌと生活していくのに

支配人から脅し取った金子でなんて、駄目よ。

まして、そのお金は子爵からのご援助なんですもの、道理に合わないわ。 

……いいわ、あなたのオペラをなんとか興行にかけられるようにするから、すぐにまとめて持っていらっしゃい。

あなたが顔出ししないでも済むようにするから。前にもそう言ったのにあなたは取り合わなかったけれど、

今度ばかりはそうしてくれるでしょうね?」

「……有り難い、恩に着るよ、マダム」

「それから、」と夫人は言葉を区切ってなおも注文を続ける。

「あなたがたはあそこを出て、ちゃんとしたところで暮らしていかなければ駄目よ。

今までは難しかったかも知れないけど、あの子がいれば怪しまれることもなくなるわ。

これは今すぐというわけにも行かないでしょうけど、必ずそうして頂戴ね?」

「わかった。あなたの意見には必ず従うよ……、今度ばかりはね」


「マスター……、マダムと何をお話しなさっていたの?」

地下への帰り道、黙って私の後をついて来ていたクリスティーヌが突然尋ねてきた。

どうやら今までずっと気になっていたようだ。今まで我慢していたらしい様子が

ありありとわかるのが可愛らしくて、思わず頬が緩む。

しかし、一瞬の後、ふたたび夕べの失望感が蘇ってきて、

私は暗い声で「何でもない、おまえには関係のないことだ」と答えた。


「そう……、ごめんなさい、余計なことを聞いて」

クリスティーヌの悲しそうな声音を聞いて、今度は激しい後悔が私を襲う。

この子を妻と呼べるだけで充分幸せだと思ったではないか……。

なのに、この子は気持ちはどうあれ、私に身をまかせ、私を受け入れてくれた、

破瓜の痛みにも耐えてくれた……、それだけで充分ではないか。

それなのに、どうして私という男はこう欲深いのだろうか。


「ああ、クリスティーヌ、すまない……、怒ってなんかいないのだから、

そんなに悲しそうな声を出さないでおくれ」

「……本当に?」

「本当だとも。 ……さぁ、おいで」

手を差し出すと、嬉しそうに、花がほころぶような笑みを浮かべながら

クリスティーヌが自分の手を重ねてきた。

彼女の小さく温かい手の感触が胸にじわりと沁みてくる。

彼女に稽古をつけながら、幾度この小さな手を握ってやりたいと思ったことか……。

この笑顔を私ひとりに向けてくれるのなら、この手を私ひとりに差し出してくれるのなら、

他に想う男があっても、それで良いではないか……。

それに、私と手を繋いだだけで嬉しそうにしているクリスティーヌを見ていると、

夕べの光景は何かの間違いだったような気がしてくる。


彼女の真意を確かめてみようか……、夕べから考えはしたが、とてもではないが恐ろしくて

聞けなかった問いが脳裏を掠める。

「クリスティーヌ……」

「ええ」

にっこりと微笑んで私を見上げる彼女の眸を見て、今ここで彼女の真意を確かめて私の恐れる答えが

返ってきたとしたら私はこの笑顔を永久に失ってしまうのだ、

そう思うとそれ以上に言葉を続けることができない。


「身体は辛くないかね?」

夕べの痛みがまだ残っているはずだろうに、私としたことが、クリスティーヌにこんなに長い階段を

歩かせてしまったことに今更ながら気づき、握った手にそっと力を入れながら聞いてみる。

クリスティーヌが恥ずかしそうに頬を染めて「ええ……、あの、辛くはないわ……」と

消え入りそうな声で答える。

「辛くはないとは? なにか、他に不都合が……?」

聞きたくない答えが返ってくるのではないかと身構える。

「いえ……、……あの、なんだか、へんな感じがするだけ……」

羞恥に真っ赤になりながら、その場に立ち止まってしまったクリスティーヌが本当に愛しくて、

彼女の腰をそっと抱き寄せると覆いかぶさるようにして強く抱きしめた。


やはり、クリスティーヌに問い質してみようか……、考えるだけで心臓が破裂しそうだ。

このままではこちらがどうにかなってしまう。

「クリスティーヌ」

「……?」

小首をかしげて私を見上げた彼女の顔を見ると、やはり何も聞けなかった。

「……いや、何でもないんだ」

「ふふ、……じゃあ、私も……。 マスター……」

「何だね?」

「ふふ、何でもない」

そんな風に戯れるクリスティーヌが愛しくて愛しくて、

そして、そんな彼女が私ではない男を愛しているということが信じられなくて、

私は思わず泣き出しそうになってしまった。

あの男にもこんな風に可愛らしく戯れてみせたのだろうか、

あの男はそんな彼女を愛しんで抱きしめたり口づけしたりしたのだろうか。

そんなことを考えて涙がこぼれそうになり、だから、彼女に悟られないように

「おかしな子だね」と言うのが精一杯で、その後、私の横ではしゃぐクリスティーヌに

碌に返事もできずに地下までの道のりを歩き切ったのだった。


地下に戻り、さっそくこれまでに書いたオペラの譜面をまとめる作業に取り掛かった。

前の支配人から脅し取ったものの貯えがあったので、今すぐ経済的に困窮するというわけではなかったが、

マダムの心遣いを無駄にしたくないのと、何より自分のオペラが興行にかけられるとあれば張り切らざるを得ない。

外の世界で認められるというのは、私がクリスティーヌとの暮らしの次に欲していたことであったし、

自分の書いたオペラでアリアを歌うクリスティーヌを見るというのも私の夢だった。

決して叶うことのない夢だと思っていたことが叶うかも知れないという思いで気持ちが高揚し、

その日は寝食も忘れて譜面の見直しや清書に精力をつぎ込んだ。


ふと気づくと夜もだいぶ更けており、クリスティーヌの気配がない。

急に不安に襲われ、寝室を覗いてみるが、いない。食堂を確かめても、いない。

一体、どこへ行ったのか……、まさかあの男の元へと逃げ出したのか……、

突然心臓の音がはっきり聞こえ、生唾を飲み込む音までがやけに大きく聞こえる。


しかし、下のほうから微かに水音がして湖まで降りていくと、果たしてそこにはクリスティーヌがいた。

「なぜ、こんなところにいるのだ」

安堵したせいか、ついぶっきらぼうな言い方になってしまった。

「……だって、マスターは何度呼んでも聞こえていらっしゃらないみたいでしたし、やることも……、」

寂しそうに言葉を切って俯く。すまない、と詫びようとしたところでクリスティーヌがさらに言葉を重ねた。

「私たち、結婚してまだ一日しか経っておりませんのに……」

不服そうに目を上げたクリスティーヌを見て、夕べのことを思い出す。

おまえはその新婚初夜に夫以外の男の名を呼んでいたではないか……。

夕べの敗北感と屈辱とが甦ってきて、怒りに身体が顫える。

クリスティーヌの手首を掴むと、彼女が抵抗するのも無視して寝室へと引っ張っていった。



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