36 :ファントム×クリス 心を見せて :2005/09/22(木) 22:46:31 ID:1QYB2wj3

小さなロッテは心を隠すことで、父のいない世界から自分を守っていた。

色を無くした冷たい世界に、彼女の気に入るものなんて何一つなかったから。

オペラ座の地下で、父親の為にお弔いの蝋燭を灯し、お祈りをする時だけが自分の気持ちを隠さないでいる唯一の時間だった。

寂しい…みんな嫌い…お父様に会いたい…いつ天使は来てくれるの…?

普段隠している心は、たちまち溢れ出してロッテを飲み込んでしまう。

そんな時、とうとう待ち侘びた天使の声が聞こえた。

彼女の世界はたちまち再び色付き出す。言葉にしなくても、声は彼女の孤独の全てを理解してくれた。
ロッテと声は、まるで歌で繋がれている二つで一つの魂のようだった。

けれど声の正体が天使ではなく、ファントムと呼ばれる一人の男だと知った時、声とロッテの蜜月は終わりを告げた。

彼女は恋に落ちると同時に、再び魂が二つに裂かれるような痛みを味わうようになったのだ。

ずっと心を隠し続け、歌だけが感情表現の手段だった少女は、言葉で何かを伝えることがひどく不器用な娘に成長していた。

ファントムはと言えば、そんな彼女に輪をかけて人との接し方を知らない。

訓練を受けていない魂はしばしば言葉のすれ違いや、些細な事でひどく傷つけ合った。

そんな時彼女はもどかしさに、心の中で叫んだ。

私の心がわからないのなら、いっそこの胸を切り裂いて思いの全てを見て欲しい。

小さなロッテが必死に隠していた心の中を、今は全て見せたい。

それが最近のクリスティーヌ・ダーエの願いだった。



楽屋へ続く廊下をパタパタと走り抜ける軽い足音がする。
お行儀が悪いと知りつつも、クリスティーヌは、はやる気持ちを抑え切れなかった。

今日の舞台は練習の甲斐あって、いまいちのびなかった部分の高音が上手く出せた。
あの出来なら、マスターはきっと誉めてくれるだろう。

上気した顔で、楽屋のドアを開けると、そこにはもう黒いマントに身を包んだファントムが立っていた。

「マスター…」

嬉しさに飛びつきそうな調子のクリスティーヌだったが、ファントムの顔を見るなり不安そうな顔になる。

彼は皮手袋を嵌めた手に、小さな紙切れを握っていた。

それには見覚えがあった。

朝、いつものように彼に送られて鏡から楽屋へと戻ったクリスティーヌは、廊下に続く扉の下の隙間から、白い紙切れが差し込まれている事に気付いた。

「暇なのねぇ…」

拾い上げてさっと視線を走らせるなりそう呟いたのは覚えているが、その後の記憶がない。

今朝は少し寝過ごした事に気がせいていたので、それどころではなかったのだ。

ああ、私のばか。せめて丸めて屑篭にでも放り込んでおけば良かった!

クリスティーヌは自分の迂闊さを責めた。

「クリスティーヌ」

低い声だった。

クリスティーヌは、もう自分の心がひどく動揺し、言うべき言葉が全く見つからなくなっているのを自覚した。

気分のよい時は、ファントムの前ではむしろおしゃべりになる彼女だったが、こう言う時は殆ど喋ることが出来ない。

彼女は自分で自分が許せなかった。

つまらないお喋りなんかが出来たって、こんな時に何も言えなかったら何の意味もない。

「…マスター、それは…」

その時ノックの音が聞こえる。

出来るなら居留守を使いたかったが、ちょっと苛立だしげなコンコンという音は執拗に響いた。

「…行きなさい。明日の舞台の変更事かも知れない」

ため息混じりに言うファントムに指示され、仕方なくクリスティーヌは扉へ向かう。



ああ、もうこんな時に一体誰?

間の悪い訪問者に心の中で毒づきながら扉を開けると、

「クリスティーヌ!」

幼馴染のラウルが思いつめた顔で立っていた。

「…ラウル、どうしたの?」

「クリスティーヌ、大丈夫だったのかい?」

いきなり頬を両手で包み込まれ、顔を覗き込まれてクリスティーヌは驚いて何度も瞬きをする。
このハンサムで真っ直ぐな気性の幼馴染は、成長したクリスティーヌに恋焦がれていながらも、いつまでも彼女を昔のままの小さなロッテと思っているふしがあった。

勿論、彼女にとってもラウルと過ごした日々は、大切な思い出だ。
けれど、彼に対して抱いた幼い恋心は、その美しい思い出の中で既に完結していた。

「ラウル、一体…」

「三幕目の君の衣装がいつものと違う事に気付いて…。
さっきメグに聞いたら君の着る筈だったドレスが切り裂かれていたと聞いて、とんで来たんだよ…」

それでやっと、ラウルの取り乱しぶりに少し納得が行く。

「ラウルったらそんな事で?でも大丈夫よ。あなただって見たでしょう?
サイズもぴったりで、あの舞台の雰囲気を壊さない衣装が他にもう一枚あったか…」

呑気とさえ思える調子の口調で諭す彼女に、ラウルは声を大きくする。

「そういう問題じゃないだろう?クリスティーヌ」

「ラウル、落ち着いて。こんな所で大きな声を出さないで」

謎が解けると同時に、クリスティーヌにとっては俄然部屋の中にいるファントムの方が気にかかる。
その様子に気付いたラウルがさらに声を荒げた。

「…あいつが来ているのか?クリスティーヌ。丁度いい、話をさせてくれ」

「話?話って何を…」

「入れてやれ。クリスティーヌ。入り口で騒々しくされてはたまらない」

動揺して上手い受け答えが出来ないでいると、部屋の中からファントムの重みのある、よく通る声がした。

「…失礼」

「ラウル、待っ…」

今この二人を会わせてはいけない!

そう直感し、クリスティーヌはラウルを必死で押しとどめようとしたが、ラウルはクリスティーヌの肩を掴み部屋の脇へよせ、ずいと中に入って来てしまう。

普段あまり姿を見られるのを好まないのだが、ファントムは楽屋の真ん中に立ち、腕を組んでラウルを迎えた。

正装をして黒いマントを羽織り、仮面で顔を隠した異形の男。

常人なら気圧されて一言も発する事が出来ないだろう。けれど、ラウルは臆する事なく彼に切り込んだ。



「パトロンとして言わせて貰う。クリスティーヌから手をひいてもらおう。お前の存在は、クリスティーヌにとって邪魔だ」

「邪魔だと?私は彼女の音楽の師だ」

ファントムは、生意気で無知な子供をあしらう様に彼に告げる。

「…お前のせいで、クリスティーヌがどんなにひどい中傷を受けているのか知っているのか?」

「何を言うの?ラウル、やめて!」

恐れていた事態に近づいて行くのがわかり、クリスティーヌが悲鳴のような声を上げる。

「聞かせてもらおうか」

「とても口には出せない卑劣なものだ。天使のようなクリスティーヌに似つかわしくない」

ラウルが何を言わんとしているのか、クリスティーヌはわかってしまう。口元を覆って絶望にああ、と小さく声を漏らす。

ファントムはひらりとラウルの足元に、持っていた例の紙切れを投げる。それを拾い、白い紙に真紅のインクで書かれた文字を見たラウルは眉根を寄せる。

「…死神と寝た娘、か」

ファントムの自嘲するような声が響く。

その言葉をクリスティーヌの前で持ち出すつもりはなかったのだろう。
ラウルは少しだけ動揺した様子を見せるが、すぐにまた攻撃の態勢になる。

「これでわかっただろう?そんな中傷だけじゃない。クリスティーヌが毎日、どんな仕打ちを受けているか。
僕やマダム・ジリーの力だけでは庇いきれない。

お前はクリスティーヌを、暗黒の世界に引き摺り降ろしているんだ」

「ラウル、やめて!お願いだから黙って」

確かに今日の様な紙切れが楽屋に入っていたり、衣装が切り裂かれていたり、そう言った事がないわけではない。

でもクリスティーヌは平気だった。ファントムに頼んで支配人たちを脅す事はやめて貰っているので、ズルをして役を貰っているわけではない。だから、後ろめたい事もない。
解して、さりげなく守ってくれるマダム・ジリーも親友のメグもいる。
それに彼女を心よく思わない人達も、心の底では「オペラ座の怪人」を恐れているから、せいぜいがそんな小細工程度で、それ以上の事は決してして来ない。

遅刻を恐れて不注意にも紙切れを放置する程、高音が出た事を誉めて貰える期待に、衣装を裂かれた事を忘れてしまう程、それらは彼女にとって瑣末な出来事だったのだ。

そんなクリスティーヌの気持ちを置き去りにして、事態は悪い方へと進んでいく。

「お前もクリスティーヌを愛しているのなら、身を引くんだ。彼女を明るい陽の元に戻してやれ」



「マスター、ラウルの話を聞かないで!マスターがいれば私は…」

「どうして黙っていたんだ?」

ファントムはクリスティーヌに向かって問う。

「…だって…忘れてしまうんだもの…」

「忘れていた?そんなわけないだろう。こんな目にあっているのに」

ファントムの声に苛立ちが混ざり、危険な光が眼に宿る。

「そんな風にお前が本性を剥き出しにするのが怖かったんだよ。
今、自分がどんな表情をしているのか知っているのか?その紙切れに書かれている言葉を思い出せ」

ラウルの言葉が二人の言葉を断つ。ファントムの身体から、殺気が立ち上る。

「言葉に気をつけるんだな。ラウル・ド・シャニュイ、死神に眼をつけられたくはないだろう?」

「マスター!お願い。聞いて、私は」

「そんな脅しには乗らない」

ラウルは凛とした声を張り上げる。その声に、クリスティーヌの声はかき消されてしまう。

「もう一度言う。彼女のことを少しでも思いやれるのなら身を引け。
クリスティーヌの優しい気持ちにつけこむのはよせ。お前は卑怯な歌声で酔わせて、彼女に心を見失わせているだけだ。本当はわかっているんだろう?」

ラウルは挑むようにファントムを見る。仮面に隠された男の顔を。

「その仮面を取り、鏡を見て、自分が彼女を得る権利があるのか考えるんだ」

クリスティーヌは感じた。ラウルの言葉の刃がファントムの身体を、残酷に貫いた事を。

止どめを刺すように、彼はファントムに告げる。

「地下でしか暮らせないお前に、彼女を幸せには出来ない」

クリスティーヌは最早、言葉を発する事を諦めていた。

どうやって心を伝えればいい?

私は舌が縺れていて、あの人は私の声を聞いていない。

ふらふらと文机に近寄り、引出しを開け、中にあった短刀を取り出す。

それは以前、柄の部分の装飾が美しいからとファントムにねだった小刀だった。
彼は危ないからと嫌がったが、ペーパーナイフ代わりに使うだけだからと説き伏せて自分のものにしたのだ。

自分の心のある場所を、クリスティーヌは簡単に探り当てることが出来た。

今、ファントムを思ってひどく痛んでいる場所。

刃を胸に押し当て、上から下へと力を込めて切り裂く。

マスター。

私の言葉が届かないのなら、今、私の心を「見て」欲しい。




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