102 :二人のマドレーヌ  :05/02/27 02:18:34 ID:hKfj0v8J

「早く、こっちよ!」

突然差し出された小さな手に、少年はわずかな躊躇の後従った。

迷路のように入り組んだ通路を抜け、細い階段を下り、柱のくぼみに身を隠す。

上の方では慌しい叫び声と警笛が飛び交い、複数の靴音が響いていた。


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少年は今しがた、人を一人殺めてきたところだった。

人と呼ぶにはあまりにも邪悪な男だったが、一つの命には違いない。


見世物小屋での生活は本当にひどいものだった。

窮屈な檻の中に閉じ込められ、汚物にまみれて悪臭を放つ藁の上で寝る毎日。

与えられる食事といえば、腐ったイモや干からびてカチカチになったパンの欠片だけ。

それすらもらえればいいほうで、丸一日食事を与えられない日もざらだった。

少年を飼っていた男は、深夜に飲んだくれて帰って来ては少年に暴力をふるい、

腫れあがって一層目も当てれぬ状態になった顔を、翌日「悪魔の子」として

晒すのが日課だった。

しかし少年にとって何よりも耐えがたかったのは、男の暴力ではなかった。

自分の顔を見た客の目の中に浮かぶ生理的な嫌悪・・・頭にかぶせられた麻袋が

剥ぎ取られたとたん、見てはいけないものを見たかのように目をそらす男。

天を仰ぎ十字をきる老人。

火がついたように泣き出す子ども。

癇に障る悲鳴をあげて逃げ出す軽薄な女達。


見物客の無意識の忌避と侮蔑こそが、少年にとっては何よりも深刻な暴力だった。

何の疑いもなく、自分は平凡な人間であると信じきって生きている人種。

まるで自分達とは別の、汚い生き物を見るかのような彼らの傲慢な視線が

少年の顔と心に深く突き刺さる。

視線で人を殺せるものならば、間違いなく少年は無遠慮に彼をのぞく

全ての人間達を殺していただろう。

少年は見世物小屋の一行が大都市に移動する機会を待っていた。

街中の人間が顔見知りであるような小さな田舎街よりは

パリのような大都市の方が逃げた後で身を隠しやすいからだ。

一行がパリへ向かうと知ってから、少年はずっと脱出の計画を練っていた。

客の目の前で男を殺し、檻の鍵を奪う。

不幸なショウの証人となった見物人のパニックに乗じて、パリの夜に身を潜めれば

何とか逃げ切れるかも知れない。


計画は思っていたよりも簡単に運んだ。

首に縄をかけられた男は、一瞬きょとんとした表情で少年を見つめた。

堂々とした体躯と怪力でならした男は、まさかこの鎖につながれた

襤褸切れのような少年が、自分に歯向かってくるとは予想だにしていなかったのだ。

縄を強く引きしぼる細い手に伝わる断末魔の激しい痙攣は、すぐに静かになった。

一瞬の惨事を目撃していた見物客から湧き上がる悲鳴を後に、少年は檻を抜け出した。


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暗がりの向こうから差し出された手に従って、どれほど階段を下ってきただろうか。

剥き出しの石に囲まれた細い通路は冷え込み、ジメジメと湿っている。

やがてどこからともなく水の流れる音が聞こえてきた。

さらに通路を歩いていくと、急に視界が開け、大きな湖が目に飛び込んできた。

一見して自然の造形物ではないようだったが、長い階段を下ってたどり着いた先に

これほど巨大な水槽が存在しようとは驚きだった。

水は深い緑を湛え、わずかに波立っている。

湖のほとりから少し奥まった岩場には、古ぼけたカーペットが敷かれ

木製の小さなテーブルと粗末なソファーが置かれていた。


「ここ・・・は?」

「心配しないで。オペラ座の地下よ。ここまで降りてくる人は滅多にいないわ」

彼をここまで連れてきた小さな手の持ち主が暗がりから答えた。

シュッという音とともに、小さく明かりがともる。

テーブルの上の小さなランプに火を移して、ゆっくりと少年を振り返ったその人物は、

少年よりは幾分年上にみえるものの、まだ幼さを残した少女だった。

フワフワとした長い髪を、腰の辺りまでたらしている。


「私はここのダンサーなの。いつもちょろちょろうろつき回ってるから、

みんなからは“チビのジリィ”って呼ばれてる。

この通路は舞台裏を探検している時に偶然見つけたのよ。

初めて来た時は、オペラ座の地下にこんなに広い湖があるなんて信じられなかったわ。

壊れた舞台用の道具をこっそり運んで、今では私の秘密の隠れ家。

・・・ところであなた、名前は?」


質問には答えず、少年は頭を覆った袋の奥から用心深く少女を見つめた。

「・・・・どうして僕を助けたの?僕が人殺しなのは君も知ってるよね」

少年の声に含まれる暗く冷たい響きに、“チビのジリィ”は一瞬頬をこわばらせた。

しばらく表情を固くしたまま黙っていたが、やがてゆっくり下を向いてポツリとつぶやいた。

「だって・・・だってひどいと思ったんですもの。

あんな風に無理やり見世物にして・・・私だったらきっと耐えられないと思ったの」

「だから僕を助けたの?」

「自分でもよくわからない。でも気がついたらあなたの手をひいてた」

「僕の顔・・・見たよね。怖くないの?」

袋に開けられたわずかな隙間からのぞく少年の両目は、熟練の職人によって磨かれた

銀針の先端のように鋭い光を放っている。

「そ、そりゃ怖いわ!でもオペラ座にはあなたより怖い顔をした人も大勢いるもの。

あなた、プリマ・ドンナのジュリエッタ・ロッソを知ってる?

彼女が楽屋でライヴァルのイザベラ・ロヴァーニの悪口を言ってる時の顔なんて、

本当に恐ろしいんだから!悪魔も驚いて退散するわよ」


大仰にしかめられた少女の顔を見て、少年は思わず微笑んだ。

笑ってから、最後に笑ったのはいつだっただろうかと考えたけれども

うまく思い出せなかった。

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