190 :天使の歌 :05/03/11 00:03:49 ID:XvnrgA0R

「中の方が少しは暖かいわ」

寄宿舎の廊下で番をする、と言い張るラウルを部屋に招き入れたクリスティーヌは、寝台から一枚毛布をとった。

「ありがとう。だが──」

ラウルは毛布を手渡すクリスティーヌの姿に困惑したような視線を走らせた。

「私を入れては…」

「信頼していますもの」

クリスティーヌは微笑んで、片隅の丸椅子を示した。

「あちらでいいかしら」

「充分だ」

ラウルは椅子に座ると、毛布を躯に巻き付けて落ち着いた。

だが、夜が更けていくにつれて彼は落ち着いているとは言えない様子になっていった。

右を向き左に躯を傾け、もぞもぞしていたラウルは溜め息をついて寝台の様子を窺った。

「クリスティーヌ」

「……なあに?」

眠そうな声があがり、それでも彼女は起き上がった。

「ラウル?」

「僕はやはり廊下に出るよ」

クリスティーヌが驚いたように身じろぎする気配がした。

「どうして?」

ラウルは躊躇したが、小さく呟いた。

「ここにいたら悪い事を考えてしまう」

裸足のままクリスティーヌが床に降りた気配がした。

近づいてくる彼女の影にラウルが顔をあげると、クリスティーヌの真剣な瞳がじっと彼を見つめていた。

「それは──『彼』が現れて私が『彼』について行ってしまうということ?」

「いや…」

ラウルは微笑んだ。

「そうでは、ないんだ。いいよ、とにかく僕は……」

「行かないで頂戴」

クリスティーヌが小さく叫んだ。

「こわい。離れないで」

「クリスティーヌ…だが」

ラウルは優しく彼女を眺めた。

「大丈夫だよ。僕が見張っている」


「違うわ…」

クリスティーヌの柔らかい躯がラウルの胸にもたれかかった。

「違うの、私がこわいのは──自分」

「クリスティーヌ…?」

ほっそりとした躯にまといつく白く薄い夜着越しに彼女を感じつつ、ラウルは戸惑った声を漏らした。

「どうして?」

「……私」

クリスティーヌは眉をひそめてラウルを見上げた。

「私、彼について行きそうで…それがとても、こわいわ」

「君があいつについて行く?」

ラウルの口元が小さく歪んだ。

「馬鹿な」

「いいえ」

低くクリスティーヌは囁いた。

「『彼』は私をいつも見ているわ…そして、私も『彼』には抗えない……そんな気がしてとてもこわいの」

「……クリスティーヌ」

ラウルは恋人の華奢な躯をそっと抱きしめた。

「冷えるよ。寝床にお戻り」

「抱いていて、ラウル」

「……?」

クリスティーヌはじっとラウルを見上げた。

「ひとりぼっちでいるよりも、あなたの腕のほうが安心できる」


ラウルはまた少し口を歪めた。

今度は自嘲ぎみだったがクリスティーヌは気付かない。

「お願い」

「……いいよ。だが」

ラウルはクリスティーヌを柔らかく抱きしめたまま立ち上がった。

「こんな寒い夜に、男にそういう事を頼むのは良くないよ」

「ラウル…」

「君は温かい」

ラウルは呟いて恋人にキスをした。

「……ん」

クリスティーヌもうっとりと応じかけ、それが普段とは感じが違うことに気付いた。

唇が離れると彼女は不安げな微笑を浮かべて彼をまた見上げた。

「……ラウル?」

「おいで」

ラウルが彼女を横炊きにして寝台へ向かう姿を、何者かの目が暗闇からじっと見つめていた。


温もりの残る毛布の上に恋人を横たえると、ラウルは傍らの床に跪いた。

「クリスティーヌ…」
ラウルは片腕をのばし、クリスティーヌの豊かな髪をゆっくりと撫でた。

もう片手で、ぴったりとついた膝に触れた。

ぴく、と彼女が戦いたが彼は意に介さず膝に掌を這わせていく。

「ラウル」

クリスティーヌが咎めるように囁いた。

だが、そこには拒む響きはないということが彼女自身にもラウルにも、そして闇のどこかに潜む者にもわかった。

ラウルは夜着の裾を指先でたくしあげると、素肌に触れた。

クリスティーヌが肩を竦め、同時にラウルが吐息をつく。

「温かい──熱い」

「…あなたの…」

クリスティーヌは途切れ途切れに言った。

「指、とても冷たいわ…ラウル」

「そうだろう?」

ラウルは呟いて顔をあげると、ゆっくりと上体を乗り出した。

彼女の唇に唇を重ね、その勢いで寝台と自分自身の間にクリスティーヌを押さえ込んだ。

「……君を妻にするつもりだった」

「ラウル」

クリスティーヌが上気した顔を彼に向けた。

「神の前で。祭壇で。だが──」

ラウルはじっと恋人の目を見た。

「その前に、愛人になってくれないか、クリスティーヌ、僕の可愛い恋人……」

「ラウル」

「僕を残してどこかに行ってしまうなんて、言わないでくれ…クリスティーヌ」

「……ああ…」

寝台の上で抱き合う二人の脳裏には互いしかなく、闇の中で出るに出れなくなって歯ぎしりしている者の存在に気付くことなどありそうになかった。


(呪われるがいい、シャニュイ子爵。

裁きを受けるがいい、私の天使を陵辱しようとする者よ!)


低く歯ぎしりをしながら、オペラ座のファントムと呼ばれるその仮面の男は闇の中、長身に纏った闇よりも更に濃い漆黒のマントを憤りでうち震わせていた。

マントの中で握りしめた拳には美しい深紅の薔薇の一枝が、やはりぶるぶると前後左右に揺れている。

(投げ縄で鍛えた鉄壁のコントロールがあれば、きさまの頭などいつでもこの薔薇の茎で粉砕できる)

(それくらいの報いは当然の事を、きさまは、私のクリスティーヌにしようとしている…!!)

彼が潜んでいるのはクリスティーヌの部屋の片隅にある、時代のかった古ぼけたクローゼットである。

中に入っているのはクリスティーヌの衣装ばかり。

彼女を攫おうとして、密かに宵のうちに潜んで(地道な努力が彼の活躍を支えている)いたのである。

だが、充満する甘く香しい彼女の匂いについうっかりとファントムは妄想の世界に突入してしまい、妄想のしすぎで疲労困憊、あげく熟睡してしまっていた。

熟睡の最中にクローゼットの扉が彼の重みで急に開いて外に転がり出なかったのが奇跡である。

だが、それが良かったのか悪かったのか。

おかげでこんな恋人同士の嬉し恥ずかしい情景を目の当たりにする残酷が彼を待ち受けているとは。

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