ファントムはクローゼットの扉を押し開こうと肩に力を込めた。

だが彼は忘れていた。

豪華絢爛なるオペラ座を一枚剥いだその裏は、そう、例えばこの寄宿舎の備品などは見た目だけではなく機能面でもかなりのオンボロだということを。

クリスティーヌのクローゼットは内側からは金輪際開かなかったのである。

それゆえさきほど前後不覚になっていた彼が体重をかけてもびくともしなかったのではあるが、だがこれはなんという悲劇だろうか。

しばらく無言で扉と格闘していた彼はやがて額に汗を滲ませて手袋に包まれた手を下ろした。

(私としたことが…)

このオペラ座に隠れ住んでXX年、賄いが仕入れるワインの産地の変遷からバレエのレッスン時にマダム・ジリーが座る丸椅子の座面の厚みまであまねく知り尽くしている彼がまさかこんな初歩的な無知の罠に嵌るとは。

ラウル出現でやはり冷静さをどこかに置き忘れていたのだろう。

ファントムはこれまで一度もこんな場所に入ったことなどなかった──ファントムの名誉のためにもこれだけは言っておかねば──控え室の鏡に仕掛けを作っている彼にまだ名誉が残っているとすれば。

(ああ、クリスティーヌ…!)

仮面の男はクローゼットの隙間に額を押しあてた。

こうしている間にも彼の大事な天使が…。

そして彼はのどの奥で軽く息を呑んだ。

クリスティーヌは憎い男の下で悶えていた。

夜着はすっかりめくれて彼女の胸元から首をふわふわと覆い、その影にラウルが顔を落としている。

「あ、あ…!ラウル…」

男の髪に両手の指先を絡め、うわごとのように何度もクリスティーヌが喘ぐ。

ラウルのはだけたシャツが垂れ下がる腕や胸のさらに下に押し拉がれた白い肌が見えた。

ほっそりしてはいてもほそく括れた胴からしたたかな線を描く腰にかけてのなんという艶かしさ、それが蝋燭に浮かび上がる情景のなんという美しさだろう。

ファントムは息を殺して溜め息をついた。

有り余る嫉妬と憤怒にも関わらず一目クリスティーヌのその姿を見た瞬間、彼の意識からラウルの姿はもろくも消え去った。

彼の目に映るのはクリスティーヌ、ただ彼女のみ。そしてその美しさのみ。


彼女を見守り続けてきたこの幾年、ファントムはクリスティーヌについては熟知しているつもりだった。

そう、彼の愛するオペラ座そのもののように。

彼自身よりもたぶん深く。

それが──ファントムの魂の奥深くから、じわじわと不安と不満と、同時にそれを上回る欲望が頭を擡げてくる。

こんな彼女は見た事がない。

こんな美しさを彼は知らない。

同じ肌なのだろうか。上気したあの上質のワインのような艶、滑らかに光を弾くあのぬめり、身じろぎするとこんなに離れていても感じ取れるあの靄のような熱い気配。

もっと見たい。

もっと知りたい。

もっと、もっと、もっと。
喉の線が伸びあがった。

クリスティーヌは切なげな声をあげた。

高く澄んだ響きがファントムの鼓膜を震わせた。

彼女の声、彼女の魂そのもののように純粋で魅惑的なその声。


(もっとだ…もっと、その声を私に聞かせるのだ、クリスティーヌ)


彼女は何度も喘ぎ、それからまた耐えきれずにファントムの願いを叶えた。

意識し鍛えたソプラノではなく調律も抑えも効かぬ声だったがその甘さはなんだろう。

どうすればあのような柔らかさが出るのか彼には判らぬ。

眉を寄せた彼女の美しい顔がこちら側に落ち、彼は狂喜した。


(クリスティーヌ)


くたりと力なく投げ出された彼女の首筋を男の金色の頭が覆い、クリスティーヌはまた悲鳴のような声をあげる。

うっすらと開いた唇は早い息で震え、羞恥のせいか半分閉じた目の縁は上気し瞳が潤んでいた。

その乱れた響きの野性的な美、諧調もなにもない、なのに感覚を引きつけてはなさぬその芳醇。

ファントムの鼓動は彼女の途切れ途切れの声にあわせて鳴り響き、彼の両の指先はすぐに消え去りそうなその尾を掴もうとでもするかのようにマントの中で鈎状に曲げられていた。


(クリスティーヌ、もっとだ…おまえの味わっているその感覚を、もっとこの私に教えろ!)


ファントムの燃えるような瞳が闇から凝視している中、彼女の腕が青年の背に巻き付き抱き合う二人がもの狂おしげに互いの目を捕えようとしたその瞬間──。


「クリスティーヌ?まだ起きているの?」


扉越しのマダム・ジリーの声に部屋の中の三人は凍り付いた。

位置をいれかえた磁石のように恋人たちは互いの腕から逃れ、ラウルは床に降り立ち、クリスティーヌは寝床に起き上がった。

「…クリスティーヌ?」

マダム・ジリーの心配げな声が再びかけられた。

「入るわよ」

周囲を見回したラウルの視線が扉の隙間を通してファントムのそれと結びついた。

ラウルはもちろん気付かないが、ファントムは思わず身を退いた。

「ラウル…!」

低くクリスティーヌがこわばった声で囁いた。ラウルは自分の衣服を腕に抱えると恋人に小さく告げた。

「大丈夫。あそこに隠れる」

その指がひく直線がまさに自分の心臓を差していることに気付き、ファントムは慌てた。


(………来るな!)


その願いも虚しく、あっというまにラウルはクローゼットに近づき、必死の面持ちで取っ手を引いた。

あれほど開かなかった扉はあっけなく全開した。

互いに見合わす顔と顔。

「……………」

「……………」

氷点下の風がどこからともなく吹き、蝋燭の火を揺らした。


動かなくなったラウルの背中に、髪をととのえながら急いで床に降り立ったクリスティーヌが不審げに問いかけた。

「ラウル?」

彼女からはラウルの広い背中が邪魔して中の様子は窺えないのだ。

部屋のドアノブがかすかに回る音がして、男ふたりの瞬間の呪縛は弾けた。

ラウルはファントムを後ろにかかっている衣装に押し付けるように中に入り込み、その勢いで扉は閉まった。


闇の中で、男たちの心は奇妙に研ぎすまされているようだった。

ラウルの体温がファントムに疑問を投げかけている。

(なぜおまえがここにいる)

ファントムは身じろぎした。

(どうでもいいだろう)

ラウルから怒りのオーラが立ち上る。

(どうでもいいものか。おまえ……)

躊躇った。

(……どこから見ていた)

ファントムは傲慢に胸をそらした。

(全てを。このオペラ座でわたしの目をごまかせると思うな青二才)

ラウルが羞恥に顔を伏せ、ののしる気配。

(……だが、ここで会ったのがおまえの運の尽きだ、ファントム!)

(そうかな?)

ファントムはせせら笑うようにマントの肩をそびやかした。

(おまえは今夜ここにいたことをマダムにどう説明するつもりなのだ、子爵?)

(………!)

ラウルの気配が動揺に揺らぐのを彼は心地よく感じ取った。

だが意外にラウルは強靭だった。

すぐに立ち直り、ファントムに逆襲する。

(だが、それは…それはおまえとて同じ事だろう…!クリスティーヌがこの所業をしれば、どう思うか、そこのところを考えてもみろ)

(………!!!)

ファントムは同じく動揺して闇の中で目を泳がせた。

彼がこの世で一番恐れているのがまさにそれなのだ。

ああ、彼の天使、清らかなクリスティーヌにこの浅ましい姿を知られたら。

これまでに散々重ねてきた悪事を推し量られたら。

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